107話 襟懐
短期間で得た幸福の、真贋。
ヒデが目を覚ましたのは自室でもヤヨイの病室でもなかった。ゆっくりと体を起こし、見慣れない部屋だなとはっきりしない頭で考えていた。しばらく眺めていると頭がやっと働き始めたのか、ルキが普段生活している部屋だということに気が付いた。がらんとした室内はベッドと机、簡易な台所、そして隅の方に水回りへ続くドアがあるだけだ。滅多に入ることのない「ルキの自室」はどこか非現実的で、まだ堅洲村には帰れていないことに少しため息が出た。息を吐くと、思い出したように左の下腹部が痛んだ。既死軍の制服ではなく、くたくたに着古された服をめくると、きちんと包帯が巻かれていた。ヤヨイがわざわざここまで来て手当をしたのだろうか。それとも、ジライかルキがしてくれたのだろうか。
再びベッドに横たわり天井を見つめる。最後の記憶は自分が地面に膝をついた瞬間までだった。それからのことは覚えていない。もちろん、レナがその後どんな行動を取ったかも、ジライと自分がどうやってここまで帰って来たかもだ。
窓からは暖かい午後の日差しが差し込んでいる。もうすぐ桜が咲くんだろうなとヒデは自然に支配されていた遊園地内で見かけた膨らみかけの桜のつぼみを思い出していた。桜が咲ききる前にまた桜の塩漬けを作らなきゃ、フキノトウはもう旬が終わったんだっけ、などと取り留めのないことを現実に未だ帰り切っていない頭で考える。早く起きて堅洲村に帰ろう。こんなケガで、次の任務はいつになるだろう。思考がだんだんと既死軍らしくなりはしたが、それに伴うように次第にまぶたが重くなり、視界が霞み始めた。
どうやら再び眠っていたらしい。カーテンもない部屋はオレンジ色に染まり、室内には哀愁が漂っている。ヒデはベッドから降り、数歩歩いてみた。わずかだが、先ほど目を覚ました時より意識がはっきりしていて、痛みもマシになったようだ。
扉に耳を当て、事務所の様子を確認する。音が聞こえないのを確認して少しだけドアを開ける。隙間から覗いたルキは手持ち無沙汰な様子で自分の机に足を乗せ、資料か何かを読んでいる。もちろん口にはたばこを咥えている。
ゆっくりとドアを開けると、ルキがやっと気づき、笑いかけた。
「生きててよかったね~。まぁ傷はそんなに深くなかったんだけど、刺されどころ? っていうの? が悪かったみたいでさ~。それで血がいっぱい出てたみたいだよ~」
ヒデは傷口をかばうようにして歩き、何とか来客用のソファに座る。慣れた室内の光景とルキのたばこの匂いが安心感をヒデに与えた。
「任務って、どうなったんですか」
何よりも先に口をついて出たのはそんな質問だった。
「今回はロイヤル・カーテスに軍配だね~。ジライが犯人から手に入れた情報があるからそれは有難いんだけどさ~、そのジライもボロボロで帰って来たからね~」
ぽかんとしているヒデにルキは言わんとすることを察し、言葉を続ける。
「大丈夫大丈夫。ヒデよりかは軽傷だったよ~。けど、『女と女顔に負けた!!』ってすっごいキレててさ~。大変だったんだから~」
ルキが視線を向ける先には割れた植木鉢と幹が折れた観葉植物が隅にまとめられていた。ヒデがその残骸を一瞥して苦笑いすると、ルキは「それでさ~」とけらけらと笑った。
「負けたのがよっぽど悔しかったのか、『俺と勝負しろ!』とか言い始めてさ~。ルキさんに勝てるわけないのにね~」
ヒデはたった一度だけルキが戦っているのを見たことがある。既死軍に来て初めての夏、もう一年半ほど前になるだろう。この事務所で「客人」を相手にしていたときだ。結局その場はヤンに収められたが、ヤンがいなければその客がどうなっていたかはわからない。誘は宿家親に勝てないと言われているが、誘でも宿家親でもないルキの位置付けは一体どこになるのだろうかと答えが出ないことを考える。
当の本人は「まぁ暴れる元気があって何よりだけどね~」と机に足を乗せたまま手に持っていた灰皿でたばこを潰した。
「けど、あの物音で起きなかったの?」
思い出したように驚いた表情を作るルキに、ヒデは相当な戦いだったんだろうなと思いを馳せる。ジライが不機嫌になる一端を担いでしまったようで、何ともルキには申し訳ない気持ちになった。
「倒れる少し前から今起きるまで、全く記憶がないです」
「じゃあ本当に丸一日倒れてたんだね~」
その一言で、一体自分がどれほどの時間気を失っていたかを知った。レナと出会ったのは恐らく昼過ぎで、遊園地からこの事務所までの距離を考えると、今が任務翌日の夕方なのは明白だった。そんなことに今更気付くとは、とヒデは頭を振ってぼんやりした頭に喝を入れた。
「まぁ、ちゃんと目を覚ましてくれただけでジライもヤヨイも報われたってもんだよ」
言葉の端々から、自分がたくさんの人の手で生かされていることがわかった。傷を負って不機嫌なジライも、治療を毛嫌いしているヤヨイも、ベッドを貸してくれたルキも、誰かが欠けていれば自分は生きられなかったかもしれない。
「ルキさん」
改まったような表情のヒデに、ルキは「ん~?」と腑抜けた笑顔を向ける。
「ベッド貸してくれてありがとうございました。僕は、元気なうちに帰ります」
「了解~。お疲れ様~」
ルキに引き留められることもなく、ヒデは頭を下げると事務所をあとにした。今から帰れば陽が落ちきる前には堅洲村に帰れるだろう。元気なうち、とは言ったものの、歩けば傷は痛む。それでも一刻も早く帰りたいと思った。
自分には帰るべき場所がある。「ただいま」と言いたい相手がいる。その一心だけで廃墟の町を抜け、樹海へと向かった。
堅洲村に着くころには、もう辺りは暗くなっていた。夜はまだ戸を開け放っておけるほど暖かくはない。宿の雨戸はきっちりと閉じられていたが、玄関のガラス戸からは穏やかで温かい光が薄っすらと漏れている。玄関の引き戸を開けると、いつも通りの笑顔が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。ケガをしたと聞いていたので、心配していました」
帰りを待つだけでなく、遠く離れた自分を想ってくれていたというだけで有難いことに感じた。ヒデはその言葉に笑顔になる。
「何とか、生きてました。多分、ヤヨイさんは機嫌悪いと思いますが」
上がり框に座ったヒデの隣まで来たアレンはふふっと笑う。
「そうは言いますが、命に別条はないとわざわざ言いに来てくれましたよ」
意外なヤヨイの行動にヒデは靴を脱ぐ手が一瞬止まった。相手によって態度を変えているようにも思えたが、ヤヨイも自分が怯えるほど怖い人間ではないようだ。全てを包み込むような慈愛の微笑みは、どうやらヤヨイにすら効果があるらしい。ヒデはまた少し笑って、居間に上がった。
囲炉裏にはヒデの帰りを聞いていたのか、既に夕食である汁物が湯気を立てていた。空腹を感じてはいなかったが、アレンの厚意を無下にするわけにもいかない。自室でいつもの服に着替えたヒデは囲炉裏のそばに座った。
「晩ご飯にしましょうか」
毎日聞いているその言葉が今のヒデにとっては何よりも嬉しく思えた。
月が昇り、星が輝き始めている。自室に戻って雨戸を開けたヒデは少し肌寒い空気を感じながら、しばらく呆っと星空を眺めていた。ズキズキとまだ痛む傷を服の上から押さえ、傷を負った時のことを思い出していた。自分はレナに対してどう行動するのが、何と言うのが正解だったのだろうか。何度繰り返し想像してみても、答えは出なかった。
一つ、大きくため息をつく。
「浮かない顔ですね」
そう襖を開けたアレンの手には盆に湯飲みが二つ乗せられている。
「何というか。考えることが多すぎて、正直、気が滅入っています」
そうヒデはうつむいて口ごもる。わざわざアレンが様子を見に来たということは、帰ったときから無意識のうちに陰気臭い顔をしていたのだろう。
「私事ですが」
隣に座ったアレンは盆から湯飲みを取り、ヒデのそばに置く。
「悩み事があると打ち明けてくれるほど、ヒデくんが私に心を開いていることを嬉しく思います」
はっと顔を上げたヒデの前には暖かい陽射しのような空気を纏ったアレンが微笑んでいた。
「私に、何かできることはありますか?」
ヒデは視線を泳がせる。再びうつむくと、静かに口を開いた。
「話、聞いてくれますか」
「ヒデくんが気の済むまで、いくらでも」
その答えにヒデはしばらく沈黙した。自分で言い出したことなのに、いまいち踏ん切りがつかない。言葉にするのも億劫で、わずかに唇を噛んだ。自分がこれから何を言おうとしているのか、よくわかっていた。わざわざ誰かに聞かせるような話ではないこともわかっていた。
それでも、アレンには、宿家親には聞いてほしいと思った。
「笑ってほしい人がいるって、変ですか」
アレンは静かに首を横に振る。
「笑っていてほしいのに、どうしても上手くいかなくて泣かせてしまうんです。僕は、子どもの時からずっとそうでした」
深く呼吸をすると、ヒデはアレンの瞳を見る。眼鏡の奥で光る優しい眼差しは自分の全てを受け入れてくれるように感じた。この人になら、とヒデは口を開く。
考えないようにしていたことが、忘れようと努めていたことが、脳の片隅に追いやっていた思い出が、怒涛の勢いでヒデを支配した。自分を形成する思い出に改めて触れ、ヒデは眉間にしわを寄せた。死ぬ間際に見るという走馬灯は、きっといくら光で照らそうとも薄暗いものだろう。
ヒデはアレンの瞳をまっすぐ見つめた。
「僕の人生を、聞いてください」