103話 あの時
何を、為さん。
ガラガラと自室の引き戸が開けられる音で目を覚ました。仮眠のつもりだったが、どれぐらい寝ていたのだろうか。起き上がる前に「帰ったぞ」と頭上から声が降ってきた。ケイは「お帰り」と目をこする。
「相変わらずだな。寝るなら布団で寝ろ」
「いつまでも親みたいなこと言うなよ」
「お前の親になった覚えはない」
スーツ姿のミヤは澄ました顔で「土産だ」と手にしていた大判の分厚い封筒をケイの顔面の上で離した。避けられるほどの距離もなく、紙の重みが直撃した痛みに両手で顔を覆って一瞬だけ耐える。
何度か目を瞬かせると、茶封筒を拾いながら身体を起こした。
「黎裔はどうだった」
「かなり金をバラ撒く結果になった。蜉蒼に最新兵器が導入される日も近いかもな」
冗談めかしている割に表情は変わらない。ケイは鼻で笑って返すと、封を開けて分厚い紙束を取り出した。報告書と題されたその書類は一冊の本かと見紛うほどの厚さを誇っている。黎裔から戻って二十四時間と経たない内に、頭主への報告と、溜まっていた軍の仕事を片付ける傍らでこれを書き上げたのかと感心した。満足に寝ていない自分を頻繁に揶揄するが、ミヤも同じ部類の人間ではないかと心の中で皮肉を言った。
「で、その対価がこれか」
「情報屋が確認している黎裔の出入り口、蜉蒼の動向及び風真に関する情報。その他黎裔内の日常生活。それで俺の給料三か月分だ」
書類に目を通していたケイはその数字に思わず目を丸くして顔を上げた。
「だ、大丈夫なのか、そんなに黎裔に出回らせて」
「俺の残高への心配はしてくれないのか?」
下らない返事だとケイは再び視線を紙束に落とす。ミヤの行動に今更自分が心配するような落ち度などあるはずがない。一瞬でも疑ったのが馬鹿だったとさえ思えた。
「心配も何も、腐るほどあるんだろ、どうせ」
「ご明察。まぁ、腐りきるまでに一世紀はかかるだろうがな。それに、金に関しては火事の混乱に乗じてほとんどを火にくべてきた。憂慮することはない」
ケイには、札束を炎に投げ込むミヤの姿が容易に想像できた。
帝国陸軍の大佐という身分があるミヤは、当然給料をもらっている。しかし、使いどころなどあるはずもなく、それのほとんどは既死軍の経費として使われていた。一般的な会社員からは想像もできないような額の給料を、ミヤは「必要経費だから」と何の感情もなく処分したのだろう。いくら金に無頓着とはいえ、こうも簡単に人は紙幣を燃やせるものなのかと社会から切り離されているケイですら驚きを持って聞いていた。
「黎裔は、また行く必要はあるか?」
「情報統括官様が『行け』と言うならいつでも。情報の裏取りもしておきたいから、行けるなら行ったほうがいい。ただ、囮はもう必要ない。俺だけで十分だ」
「囮とは言ってない。誘にちょっと目立ってもらっただけだ」
ケイの言い分にミヤは思わず声を上げて笑い出した。
「ヤンとかチャコが聞いたら怒りそうな人遣いだな」
「仕方ないだろ。ミヤだけで黎裔に潜入捜査なんて危険すぎる。誘に大立ち回りをしてもらったほうがこっちも気楽だ」
「そんな危険な任務をこなした俺への労いの言葉、まだ聞いてないな」
「労い? 俺の命令に従うのは当然だろ」
いつもの仕返しのように笑顔を見せたケイの額をミヤは人差し指で強く弾く。
「既死軍じゃお前が上司だが、ムカつくことはムカつく」
「なんだ、上司だと思ってくれてるのか?」
「いいや。いつまでもお前は『可愛い禊ちゃん』のままだよ」
ミヤの返事を無視して、ケイはつきっぱなしになっているいくつものモニターに目を向ける。そこにあるのはキョウが脱出間際に映した燃え盛る黎裔だった。この炎では、木造建築がひしめき合っている黎裔はひとたまりもないだろう。
「火災からの復興に、蜉蒼は走り回ると思うか?」
「どうだろうな。情報屋曰く、火事はよくあるから慣れているらしい。だからこちら側でまた活動するのに、そう時間はかからないだろう」
「既死軍を追い出すためなら後先考えず爆破までするとは、景気のいいことだな」
「蜉蒼はいいだろうが、罪を擦りつけられた既死軍は迷惑なもんだ。損害賠償とかいう高尚な言葉をやつらが知らないことを祈る。あの規模への賠償は金がいくらあっても足りん」
大きなため息をつきながら、いつもより深く眉間にしわをよせたミヤは腕を組んだ。
堅洲村に積もっていた雪も解け、一番の寒さを超えたことを実感する。ヒデは誰もいない射撃場で一人黙々と体を鍛え直していた。今の自分には決定的に何かが足りないように思えた。
弓道で賞を総舐めにしたのは、天賦の才があったからではない。もちろん、元から才能はあったに違いないが、それでも全ては努力の賜物だ。そこまで打ち込むことができたのは、その瞬間だけは何もかもを忘れることができたからだ。
今はあの時と同じくらい必死になれているだろうか。
白い息を吐きながら、顎から滴る汗を手の甲で拭った。冬の青空は澄み渡り、この寒ささえなければ、春も間近に迫っているように感じた。
呼吸を整えながらしばらく空を流れる雲を見ていると、一人の足音が聞こえた。
「不撓不屈の精神、俺は嫌いじゃない」
声の方を見ると、ミヤがスーツ姿で立っていた。スーツを着ているということは、これから堅洲村を出るか、今戻って来たばかりかのどちらだ。その姿を見たヒデは、黎裔での任務が終わったばかりだというのに、忙しそうな人だなとありきたりな感想を持った。
「俺との約束を果たせる日もそう遠くなさそうだな」
見方によっては笑顔にも思える表情でミヤはネクタイを緩める。その手には木刀がたった一振り握られていることに気付いた。丸腰のヒデは息を呑む。
ミヤの言う約束とは、数か月ほど前に交わしたものだった。秋の夜長に、射撃場にいるミヤとシドに偶然出くわしたことがきっかけだ。ミヤの手元で眠っているだけの軍刀を、いつかヒデに譲り渡すという約束になっている。そのためにはミヤに認められなければならない。何を基準にヒデを「認める」と言うのかはわからなかった。ただ、闇雲に鍛錬だけしておけばいいのではないことは理解していた。
わかりやすく木刀を振り上げたミヤからの一撃をかわすが、息つく間もなく次の攻撃が繰り出される。太刀筋は見えてはいるものの、その圧倒的な速さはぎりぎりで避けるだけで精一杯だ。
数分にわたって避け続けるヒデに痺れを切らしたのか、ミヤは口を開く。
「逃げるという選択肢があるのは悪いことじゃない。人間に本来備わった本能の一つだ」
ミヤは「だが」と続ける。その間も攻撃の手が緩められることはない。ミヤが手加減していることは明白だが、それでもこの一打が当たったらと思うと、その恐怖は計り知れない。
「何かを守るためには、攻めることも必要だ。あの時のお前は、それを理解していたんじゃないのか」
生身の身体一つで攻撃を避け続けるヒデは既に息が上がっていた。自分の荒い呼吸音が耳の奥でこだましているようで、ミヤの声がよく聞き取れない。
「思い出せ、ヒデ。あの時、お前が何のために武器を取ったのか」
「僕は」
呼吸の合間にヒデは言葉をこぼす。しかし、冷静な判断ができず、考えはまとまらなかった。自分はこれからどうやって戦うべきなのか、答えが見つからない。
再びミヤの木刀を振り上げる動作に、ヒデは今度は動きを止める。逃げるのではなく、向き合わなければ。それが咄嗟に出したヒデの今の最適解だった。
振り下ろされた木刀をヒデは右腕で防御する。ミヤはすんでのところで薄紙一枚分ほどの隙間を開けて木刀を止めた。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、とはよく言ったものだ」
ミヤは木刀をゆっくりと下ろし、ヒデの目を見つめる。
「ヒデらしい戦い方だな」
「僕らしい、って何ですか」
肩で息をしながら、ヒデは問う。炎の中でミヤを目にしたときの不思議な感覚に、今もなお頭も心も掻き乱されているように思う。
「黎裔でミヤさんに助けられて、僕は強くあるってことが何なのか、わからなくなりました。あの時、僕は『助けなきゃ』って思ったんです。でも」
「助けるって、誰をだ」
「誰を、って」
ヒデは炎の向こう側にいた子供たちのことを思い出そうとした。しかし、目にしていたのは確かに子供だったはずなのに、脳裏にちらつくのは明らかに子供ではない人影だった。
「助けて、何かいいこと、あったか?」
その鋭い視線が捉えるヒデは、どこか遠くを見ているように呆然と立ち尽くしている。髪一本すら乱していないミヤは口をつぐんだヒデに追い打ちをかける。
「答えに窮するようでは、お前の行動は無意味に等しい」
わずかに唇を噛んだのが見て取れた。ここまで追い詰める必要はない。しかし、ミヤには思惑があった。ヒデには強くなってもらわないと困るのはミヤ自身だった。今も眠ったままの軍刀の貰い手はヒデしかいない。
「強くあれ、ヒデ。そのためには、自分の人生を問い直すことも必要だ」
「僕の人生って、何だったんですか」
「その答えはお前が見つけるものだ」
再びヒデの目を一瞥すると、ミヤは踵を返した。その背中にヒデは声をかける。
「ミヤさん、助けてくれてありがとうございました」
深々と頭を下げると、髪先や顎から汗がしたたり落ちた。雨垂れは石を穿つが、この汗は一体どんな成果に結びつくというのだろうか。ヒデは深く息を吸った。
「礼には及ばん」
振り返ることもなく、ミヤはその場を後にする。顔を上げたヒデの目の前にはもう誰の姿もなかった。