102話 伸ばした手
その先は、虚か実か。
だだっ広い空間の床には布団とも言えない布切れが人数分敷かれている。立ち上がったヒデは子供たちの寝床を土足で踏みながら、那由他と間合いを取る。踏んだ感触からして多少綿は入っているようだが、せんべい布団という名前すら高尚すぎるくらいの物だ。「黎裔を守る蜉蒼」が造った保護施設ですらこの有様だ。一般的な裔民の生活はもっと酷いものなのだろう。
子供たちは怪我人を含めて隅で小さくなっている。その全員の眼差しが敵意や恐怖心を持って自分に注がれているような気がした。那由他が宣言した以上、ここでは既死軍が悪者だ。ヒデにとって居心地の悪い空間以外の何物でもなかった。
「その両腕で何ができるんですか」
「言っただろ。悪者退治だ、ってな」
そう言うが早いか、那由他は左腕をかばいながらの攻撃を始める。ヒデの先ほどの攻撃で神経や筋肉が切れてしまったのだろう。円月輪を指先で持つことすらできないようだった。しかし、その右腕も満足に動くわけではない。勝算はある。ヒデは那由他が円月輪を投げてから、次のを手にするまでの空白の時間に集中する。以前と同じように、腰にある円月輪を取り付けた緑色の細い帯締めを切ってしまえば、那由他の武器は床に散らばる。そうなれば攻撃の速さも落ち、反撃の機会が生まれる。
弓を引き絞り、今、矢を放つその刹那、ヒデは背後に気配を感じた。飛び退いて振り返ると、そこには顎を引いて見下げなければならないほどの小柄な少年だった。手には先ほどの落下の衝撃で生まれたらしい木片を手にしている。
「邪魔しないでください」
鋭利でもない木片をあっさりと取り上げ、投げ捨てる。こんな陳腐なもので果敢にも挑んでくるとは、そのように蜉蒼に教育されているからだろうか。洗脳にも似たその行動にヒデは奥歯を噛んだ。
「下がってろ、カズラ。こいつは俺が」
そこまで言ったところで、那由他の視線が少年から更に奥の、建物の入り口に向けられた。中年の男は息を弾ませたまま「那由他さん!」と叫ぶ。
「家に、二人組が」
男の目がヒデを捉えた。暗い世界でも一際目立つ白い既死軍の制服は、嫌でも視界に入る。男は「どうして、ここにも」と口走る。それだけで那由他は男が言わんとすることを察した。見当たらなかった既死軍の二人が自分の家に入ったのだろう。重要なものがあるわけではないが、それでも既死軍を野放しにしておくわけにはいかない。
「どこの、だ」
「修理屋の近くです」
「報告ご苦労。ついでだ、そこの怪我人に医者を呼んで来てくれ」
今入って来たばかりの男は、返事をしてすぐにまた出て行った。那由他は「さて」と向き直る。
「どうやら俺の家に害虫が入り込んだようだ」
旗色の悪いこの戦いを終わらせる体のいい口実ができた那由他は円月輪をしまい、ズボンのポケットから何かを取り出す。手の内に隠された物が何かはわからなかった。
ヒデの耳元では、会話を聞いていたケイがシドとキョウに退避指示を出している。今になってそれぞれの位置関係を把握したヒデは、当初の目的地であった那由他の家に二人が到着していたことにひとまず安堵する。
右手の親指だけで手中の何かを操作した那由他は手の内を明かす。それは今では見かけることのない古ぼけた旧式の携帯電話だった。親指は通話ボタンに置かれている。
「害虫駆除には煙が効く」
その台詞の意味することはすぐに理解できた。ヒデは「爆発します」と無線に向かって叫んだ。
「ご名答」
そう笑う那由他と、携帯電話を何とか奪おうと飛び掛かったヒデの横顔を閃光が照らした。その光源は確かに、目指していた黎裔の北東だ。やや遅れて炸裂音が耳をつんざいた。
ヒデはくらくらとする頭を振って、目を開く。さっきまで目の前にいたはずの那由他の姿が消えていた。窓の外を見ると、北東に向かう背中が見えた。そこから見える広場はほとんど人影がなかった。
ヒデはすぐさま矢を引き絞り、赤くはためく羽織を狙う。だが、またも矢を放つことは叶わなかった。先ほどの爆発に怯むこともなく、子供たちがヒデに襲い掛かった。武器など誰も持ち合わせていない。それでも、数の多さにヒデは背後から押し倒された。
虚ろな目をした子供たちの年齢は十歳前後だろう。選択肢など与えられず、蜉蒼の言いなりになることでしか生きられない少年や少女を哀れんだ。だが、だからと言って自分には救うことなど到底できはしない。それならば、外の広い世界など、人生に選択肢があることなど知らないまま、蜉蒼こそが幸せをもたらす存在だと思い込んで生きている方がいいように思えた。
「知らないほうがいいこともある」
それは既死軍で何度も聞いて来た言葉だ。ヒデは今、初めて、自らの意思でその言葉を口にした。
「何も知らない君たちは幸せなのかもしれない。けど、何も知らないなら」
やせ細った子供とはいえ、数さえいれば背中にのしかかる重みは相当なものだ。臓器が圧迫され、呼吸が苦しくなる。しかし、任務はまだ終わっていない。ヒデは両手を地面につき、腕に力を込める。こんなところで倒れているわけにはいかない。
「僕の邪魔をしないでください」
勢いをつけて立ち上がったヒデは、床に身体を打ち付けた子供たちを一瞥する。本来なら庇護されるべき対象だ。それを捨て置かなければいけない自分に心が痛んだ。しかし、感傷に浸っている場合ではない。
再び外に目を向けると、当然那由他の姿はそこになかった。さっきまでいたヤンとチャコもいない。恐らく那由他を追って行ったのだろう。ヒデもその後を追おうと子供を振り切り、窓枠に足をかけた。それと同時に、再びめまいがするほどの轟音と強烈な光が、今度は自分の背中側から炸裂した。爆風で建物の外に押し出されたヒデは何度か地面を転がり、土埃まみれになる。バラバラと何かの破片が頭上から降り注ぐ。細かい木片やガラス片が体中に刺さり、声にならないうめき声が漏れた。
ヒデは何とか上体を起こし、今までいた保護施設に目を向ける。屋内で赤々と空をも焦がす業火を認識すると、途端に嫌なにおいが鼻をついた。その瞬間、ヒデは今しがた通り抜けたばかりの窓枠を乗り越えた。
熱風が渦巻くようにまとわりつき、喉が焼け付いて呼吸もままならない。視界は一面が紅に染め上げられ、右も左もないようだ。最早悲鳴も何も聞こえない。ただ燃え盛る炎の音だけが耳を満たす。
「僕が助ける。僕が守る。だから、僕がやらなきゃ」
うわ言のようにつぶやいた。まるで業火に吸い寄せられでもするかのようにヒデは一歩、二歩とゆっくりと進む。このままでは自分も焼き尽くされる。頭ではそうはっきり理解していても、歩みを止められなかった。
炎の先に誰かが立っているように見える。どこかから自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。幻聴か、それとも本当に誰かが呼んでいるのだろうか。遠くから聞こえるその声は聞き覚えがある。
突如、背後から腕を掴まれ、ヒデは振り返った。そこに立っていたのはミヤだった。
「せっかく助けてやったのに、こんなところで無駄死にするつもりか?」
ヒデは自分がどこにいるのか気付き、咳き込み始める。煤けて黒くなっているミヤの顔は怒りを含んでいるようだった。
「でも、ミヤさん。僕は」
激しい頭痛をこらえながらヒデは状況を説明しようとする。だが、ミヤはそれを許さず、ヒデを自分の方へと引き寄せる。
「お前たちの使命は深追いして死ぬことではない。引き際を見極められる人間こそが勝利する」
そう言うとヒデの手を引き、ミヤは建物を脱出した。少し離れたところから見る保護施設は変わり果てた姿で、こんなところによく飛び込んだものだと冷静な判断力を取り戻したヒデはミヤに心の中で感謝した。
独立した建物だったことが幸いして、周りに飛び火はしていない。しかし、北東に上がった火の手はそうはいかなかった。野次馬のように裔民が集まり始めた。その人込みに紛れ、那由他の家に向かったはずの四人が広場で合流した。二か所から上がる炎に気を取られ、誰も既死軍には目もくれない。
ミヤは五人を見回し、口を開く。
「ここまで火が回っては俺の任務も中断せざるを得ない。帰るぞ、ケイ。文句ないよな」
『不本意だが、撤退を認めよう。殿はミヤに任せる。生きて帰って来い』
多数の犠牲者を出すことも厭わない蜉蒼の異常性を再認識しながら、ヒデは建物を振り返る。保護施設と謳いながら、結局は不要になればすぐさま切り捨てるだけの子供を集めた場所でしかなかった。救えるわけがないとは理解していても、思い出したくもない記憶として脳内に刻みつけられた。
既死軍が黎裔を去り、空がやっと白み始めたころ、那由他は保護施設へと戻って来ていた。居を構える際は、常に爆破を想定して火が回りにくい場所を選んでいるつもりだったが、乾燥した風が手伝って予想以上に燃え広がってしまった。今は蜉蒼の末端たちが必死に消火活動をしているが、しばらく収まりそうにない。一体どれだけの人数が家を失い、命を落としたのかは知る由もなかった。
既に鎮火していた保護施設の屋内に入り、建て直しにかかる時間と費用を計算し始める。その横では、わずかに生き残っていた子供たちが一人ずつ救助されていく。奇跡としか言いようがない生存だ。
那由他はか細く聞こえる声に、目線を落とす。瓦礫から上半身だけ見えているスギナが自分の名前を呼びながら力なく手を伸ばしている。血だまりから察するに、下半身は見るまでもないだろう。
辛うじて聞き取れた「助けて、なゆちゃん」という言葉に那由他はしゃがんで視線を合わせる。そして微笑み、静かに首を横に振った。
「不具者がこの黎裔で生きていけるとでも?」
那由他のいつもの笑顔に一瞬安心した表情になったスギナだったが、すぐさま絶望の色に変わる。
「スギナは顔がいいから、いつか色欲ジジイどもに売れるかもって優しくしてたけど、これじゃあ商品価値もない」
「商品、価値?」
「俺は蜉蒼には関わるなって忠告したはずだよ、スギナ。自業自得だ」
立ち上がった那由他はまだ幼い少女を冷たい瞳で見下ろした。
「さようなら、スギナ。ここでは、死が身近すぎる」