101話 美談
それは、都合のいい呪い。
「聞いたか?」
たばこの煙を纏った、勝ち誇ったような声にケイは静かに「ああ」と答える。自分が選ぶ道は二つに一つだった。しかし、それも今や決まったようなものだ。
「結論を先延ばしにして得られたこの結果も、どうせケイの想定内なんだろ。キョウを苦しめて、チャコを怒らせて、それを望んでたんだろ?」
触れてほしくない部分を余すことなく逆撫でしていったヤヨイに、ケイはただ沈黙する。キョウの状態が好転することなどあり得ないことはわかっていたのに、それでも起こるはずのない奇跡という不確かな物にすがろうとした自分が浅はかで、返す言葉もなかった。
「ちゃんとお前に振り回されてやったんだ。有難く思えよ」
横に座っているヤヨイを一瞥することもなく、ケイは呟く。
「誘でいたいとキョウが言うなら、俺は、俺がしてやれることは」
うつむいて固く目を閉じたケイは覚悟を決め、顔を上げてヤヨイと向き合う。誰かの人生を決めるのは今に始まったことではない。その生死にさえ決定権を持つのが既死軍の情報統括官だ。自分のすることは一個人を守ることではない。誘を、既死軍を使役し、頭主の思い描く理想の帝国を築くことだ。
「忘れさせてやれるんだろ。ヤヨイなら」
いつもの嫌味っぽい笑顔を見せたヤヨイは、同じく嫌味っぽい言葉を返す。
「キョウの涙ぐましい決心すら、忘れさせるっていうのか?」
「お前は、俺をどうしたいんだ」
「どうもこうも、投薬を散々我慢させられた仕返しだ」
眉間に深いシワを作り、ケイは無言で画面に向き直る。キョウはシドの後ろから離れず、ひたすらに那由他の居住地を目指して走っている。キョウの目線から見るシドの背中は想像以上に大きく、それに対比してキョウの小ささが際立つように思えた。こんな小さな身体で、懸命に誘として生きようとしているキョウをどうしたら救えるのか。そんな考えが浮かんで、すぐに消えた。
そもそも、救いとは何なのか。
既死軍に属する人間は例外なく、罪を背負っている。そんな人間が救われようとすること自体がおこがましいのかもしれない。
「これでわかっただろ。愛情や人情はどう足掻いても薬には成り得ない。時間も解決はしてくれない。恐らく、祈りもな」
やっと自分が言い続けてきた言葉の意味を頭以外の部分で理解したかと、ヤヨイは深くたばこの煙を吐き出した。閉めきった部屋では煙は霧散しているようでもあり、充満しているようでもあった。
「一つ、いい話をしてやろう」
ぽつりとこぼした言葉に、この状況で一体何を言い出すのかとヤヨイは訝しげにたばこを潰す。ケイは画面を見つめたまま、一瞬も視線を外さない。口だけは動いているが、それ以外は石像のようで、瞬きさえしているのか怪しいぐらいだ。
「数年前、とある宗教団体を後ろ盾に、信者に対して祈りの効果に関する実験が行われた。大病を患っている被験者を無作為に甲と乙の集団に分け、甲に対しては毎日回復を祈ってもらい、乙に対しては何もしない。もちろん被験者も医者も、祈りを捧げる祈祷師でさえも、実験の詳細はおろか、目的も内容も知らされない。それを一年続けた。その結果」
「祈りの効果による顕著な回復は認められなかった、だろ。教祖が激怒して祈祷師と研究者数人を私刑殺人したって事件。チジタイの発表では教団内の揉め事が原因になってたな。ちなみに実験結果は既に破棄されてこの世に存在しない」
「知ってたならもっと早く言ってくれ」
わざわざ説明口調で喋って損したとでも言わんばかりにケイは小さくため息をつく。
「ヤヨイはこの結果、どう思う」
「考えるまでもない。結果に出てるだろ。祈りには何の効果もない、ってな。つまりケイがキョウの回復を祈ったところで、それはただの自己満足にすぎないってことだ。お前もちゃんとわかってたくせに、往生際悪いな」
ひとしきりけらけらと笑い、新しくたばこに火をつけた。
屋根に上った那由他は広場で戦う蜉蒼の末端たちと既死軍とを眺めていた。すぐ後を追ってきたヒデのほうをちらりと横目で見る。
「お前、島にもいた奴だな」
顔と言うよりも、ヒデの得物である弓で判断したのだろう。その視線は顔ではなく、手元に向けられている。
「だから何ですか」
「俺はお前に問う。あの島の人間を見て心が痛まなかったか、と」
ヒデの頭には蜉蒼の甘言を信じたまま捨てられた男たちの顔がぼんやりとよぎった。思うことがなかったと言えば嘘になる。しかし、騙されたまま事切れたのなら、蜉蒼の虚言は彼らにとってまごうことなき真実だったのだろう。もしかすると、幸せだったと言えるかもしれない。
考えがまとまることはなかった。しかし、こんな質問は感情を掻き乱そうとする作戦に他ならない。それがヒデの答えだった。
「僕らに会話は必要ありません」
そう言い切ると、矢をつがえた。那由他もそれに応えるように円月輪を手にする。
「黎裔まで来たことは褒めてやろう。だが、この地獄にいる限り、俺たち裔民が優勢だ」
今まで両手にあったはずの円月輪が忽然と消えた。目にも止まらない速さでそれはヒデの腕を切り裂いた。弾けるように赤い液体が宙を舞い、痛みとともに赤いしみがじわりと広がっていく。手のひらに収まるほど小さく、薄っぺらな刃物はややもすると見失ってしまう。
那由他の手からは既に次の攻撃が放たれていた。引いていた弦を一旦戻し、すんでのところでかわす。
攻撃を連続で繰り出す速さは那由他の方が遥かに上だ。このままでは攻撃をかわすだけで精一杯で、こちらから仕掛けることは難しく思えた。そう言えば、先に島で対峙していたヤンも円月輪を鞭で叩き落すことしかできていないようだった。
武器の相性が悪いのはシドなら気付いていただろう。それなのに、なぜ自分に後を追わせたのだろうかとシドの真意に考えを巡らせる。そうしている内にも次々と那由他の小さな武器は襲い掛かってくる。傷口は自覚さえしなければ、痛むことはない。
弾丸や弓矢と違い、何枚かは弧を描いて那由他のところまで戻って行く。矢の数に限りがあるヒデにしてみれば、迂闊な攻撃はできない。狙うなら、ヒデは一か所思い当たる場所があった。
那由他は移植された右腕は問題ないと言っていたが、まだ切り落とされてから一か月も経っていない。満足に動くわけがないことは恐らく本人も自覚しているのだろう。虚勢を張ってはいたが、ヒデの目にも右腕をかばっているように見えた。
左腕さえ封じてしまえば、攻撃力は格段に落ちる。ヒデが狙うのはその一点だった。
ヒデに効いてはいるものの、自分ばかりが攻撃しているのが癪に障ったのか、那由他は手を止めて足元に落ちた円月輪を数枚拾い上げる。
「お前の足元が一体何なのか、教えてやろうか」
突然の脈絡のない話にヒデは思わず那由他の顔を見る。
「この建物は蜉蒼が保護した子供たちの家だ。蜉蒼の言うとおりにさえしていれば、雨風がしのげる場所で寝られる。たまには小遣い稼ぎもさせてやれるし、飯も与えてやれる。これでも、お前たちは蜉蒼を『悪者』と言うのか?」
那由他の言葉には耳を貸さず、ヒデはただひたすら刹那にも満たない隙を窺う。
ミヤの話では、蜉蒼は元々黎裔の自警団のような組織だったらしい。町全体が犯罪の温床になっているとはいえ、秩序は必要だ。那由他が今話した、子供の保護もその一環なのだろう。それだけ聞けば蜉蒼は評価に値する。しかし、黎裔の外で行っているテロ行為を考えれば、その程度の善行では善悪の表裏一体にもならない。
返事をしない相手につまらなそうな表情を見せると、視線を動かして広場の戦局を確認した。一瞥だけするつもりだった那由他は目を疑った。総動員をかけたはずの末端たちが一目見ただけで半数以下にまで減っていることがわかる。四人いたはずの既死軍も二人しか見当たらない。何事かが起きているのは明白だ。せっかく時間と金をかけて手なずけたというのに、これでは浪費しただけの無駄骨だ。「使えないやつらだ」と小さく舌打ちをした、その一瞬だった。
「よそ見しないでください」
その声に我に返ると、咄嗟に手にしていた円月輪で目の前に迫っていた矢を防いだ。しかし、利き腕である右腕は言うことを聞かず、代わりに激痛が電流のように走った。
ヒデの命中率は、静止しているものであれば十割だと言っても過言ではない。まるで導かれでもするかのように、放たれた矢は一直線に那由他の左の首と肩の間に命中した。那由他の耳元では肉がブチブチと千切れる音が聞こえるようだった。
腕に力が入らなくなり、手にしていた数枚の円月輪を足元に散らした。
心許ない屋根をうっかり踏み抜かないように、しかしできる限りの大股でヒデは那由他に近づく。
「今度は、僕の番です」
那由他から矢を引き抜いたヒデは、今度は喉元に直接突き立てようと振り上げる。
「いい気になるなよ」
しゃがんで攻撃をかわした那由他は足払いをしてヒデのバランスを崩す。勢いよく後ろ向きに転倒したヒデは、薄っぺらな屋根を突き破って屋内に落ちた。幸いヒデの下敷きになった人間はいなかったが、崩れ落ちた屋根の下からは何人かのうめき声が聞こえてくる。轟音で目を覚ました子供たちは状況を理解する間もなかった。
「この那由他が守ってやる。勝利を祈るまでもない」
すぐさま頭上から声が聞こえた。子供たちはぽっかりと空いた穴から覗く顔を見上げ、声の主に微笑みかける。那由他は華麗に着地すると、不自然な動き方をする右手でぎこちなく円月輪を回転させながらニヤリと笑った。
「さて、悪者退治といこうか」