100話 断つ
枷も、退路も。
那由他を見たヒデはすぐに異変に気が付いた。前回対峙したあの夜、確かに那由他は自分で自分の右腕を切り落としたはずだ。しかし、今、目の前にいる那由他は紛れもなく五体満足だった。
「右手、なんで」
思わずこぼした疑問を那由他が拾い上げる。
「黎裔では俺が望めば何でも手に入る。例え体の一部だろうとな」
那由他はこれ見よがしに右手を動かして見せた。それは生まれたときから身体の一部だったように滑らかに違和感なく動く。
「まだ十分馴染んではいないが、お前らを始末する分には問題ない」
そう言うと、那由他は首から下げていた銀色の細く短い笛を手にした。
「ここは蜉蒼のお膝元。お前らはどう足掻いても勝てない」
笛を咥えると、不思議な音があたりに響き渡った。ヤンとヒデは、孤島で聞いたことのある音色だと顔を見合わせる。
「仲間を呼ぶ合図だ。構えろ!」
ヤンはシドを振り返って叫ぶ。その手には既に鞭をピンと張り、臨戦態勢だった。キョウは未だにぼんやりとしたまま、ぴくりとも動かない。どうやら暴走はしないようだが、それでも戦闘要員としては使い物にならない。
「お前らたった五人で何ができる」
那由他の声が広場にこだまする。その澄み渡るような声を掻き消すように、当たりから不穏な足音が聞こえ始めた。勝ち誇ったような表情の背後には季節外れの陽炎のようにゆらゆらと人影が現れた。一人や二人ではない。
「時に、量は質を上回る」
再び鳴らされた音で、その影が四方から一斉に五人に飛び掛かった。人だかりで那由他の姿が霞む。
「ヒデ、逃がすな」
「了解!」
大人数相手に不向きなヒデは合間を縫って那由他の影を捜す。いつの間にか屋根に上っていた那由他を追って、ヒデも地上を離れた。
蝿でも潰すかのように勢いよく降り下ろされるハリセンがバチンと小気味のいい音を立てている。チャコはシドからの視線で為すべきことを察し、キョウの護衛についていた。
ケイから今回、キョウは非戦闘員だと聞かされている。いつもと違い、守るべき対象だ。ただでさえぼんやりしているキョウを守らないわけにはいかない。そう自分に言い聞かせながら、武器らしくもない急揃えの農具やただの鉄の棒をかわして、攻撃を加える。
一体どこから湧いて出たのか、倒しても倒しても終わりの見えない敵に、次第に苛立ちが募る。鋭利な切っ先が頬を霞め、痛みを感じた。左手で拭うと、薄っすらと、普段なら気にするほどでもない血がついていた。
「おい、キョウ! 戦えや!」
思わず愚痴にも似た叫びが漏れる。そんなつもりはなかった。目は開いているが、恐らく意識はないであろうキョウに何を言っても無駄だ。わかりきっていることだった。しかし、どうしようもない怒りがチャコの全身を駆け巡る。
キョウが立ち止まっているのは過去に囚われているからだろう。足枷も手枷もはめられた状態で身動きが取れないことはよくわかっている。わかっていても、過去の自分は無理矢理にでもその鎖を引き千切った。今の自分は過去に囚われていない。そう信じている。
だからこそ、自らの意思で立ち止まっているように見えるキョウに対して無性に腹が立った。
「ケイから聞いているはずだ。お前が守れ」
「何でやねん! ヤンは!?」
「一人を守るのには不向きだ」
チャコの死角からの攻撃を返り討ちにしたシドは振り返る。そう言われてしまっては仕方がない。歯ぎしりをしてから「ほなやったるわ!」と不満そうに大声で吠え、無防備にただ突っ立っているだけのキョウにたかる人間を倒し続ける。
キョウは心がぽっかりと抜け落ちてしまったかのように動かない。暴走して見境もなく攻撃されるよりマシかと半ば諦めかけたその時、突然キョウが一歩踏み出した。
「どこ行くねん!」
「家に帰らなきゃ」
「はぁ!?」
「ユズが、待ってる」
うわ言に付き合っている暇はないと無視してしまおうかと一度は考えたものの、黎裔へ来てからのキョウの言動と、那由他が放った「君は裔民か?」という言葉が引っかかった。
既死軍に来るまでの人生はお互いに知らない。それが当然だ。長い間行動を共にすれば、言葉の端々から察せることはあっても、はっきりと聞くことはない。しかし、今、チャコは確信した。
キョウは黎裔出身だ。
その瞬間、チャコは全身の毛が逆立つような感覚に陥った。キョウの足も、手も、目も、それらが人工物である理由が容易に想像できて吐き気がした。
「行かせへんぞ、キョウ」
いつの間にか荒くなっている呼吸のまま腕を掴み振り向かせると、虚ろな瞳にチャコ自身が映っていた。しかし、ただ映っているだけのようで、このままではキョウが本当の抜け殻になってしまうように思えた。
「お前はもう裔民 違う。こっち戻って来い。こんなとことは、関係ないやろ。なぁ」
懇願するような声に、キョウが首を横に振った。
「ユズが待ってる。助けなきゃ」
「死んどるやろ。その、ユズってやつは」
間髪入れず、チャコが返す。確証などあるはずがない。それでも、自分の経験上、たとえ既死軍へ来る以前の出来事だろうと、深く関わった人間が生きているとは思えなかった。
「ユズは、死んだの?」
「知らん」
「じゃあ、何で、僕は」
「何でもクソもないわ!」
言葉を遮り、チャコが吐き捨てるように叫ぶ。
「そんなクッソくだらん禅問答しとる暇があったら戦え!」
いつか聞いたような自問自答にチャコは怒りを爆発させる。腕を掴んでいる手に力が入った。爪が喰い込むほどの肉もない。こんなにも細い、今にも折れてしまいそうな腕で、キョウは一体今まで何を守り、何を見殺しにしてきたのだろうか。お互い既死軍に行きついたということは、似たような過去を持っているということだ。
チャコは眼前に浮かんだ懐かしい顔を消し去り、絶叫にも似た声を上げる。
「変えられもせん過去に執着しとるんが一番見苦しいっちゅうねん」
腕を掴んでいた手で今度は胸倉を掴み、留まることのない説教を続ける。
「戦え、キョウ。お前がケイに何て絆されて来たんか知らんけど、戦わんやつには償いも弔いもできんねや!」
「だって、みんなが、守って」
「うっさいわ!!!」
今までにない地響きのごとき怒号が響き渡る。それは少し離れた場所にいたヤンですら一瞬動きを止めてしまうほどだった。怯えた表情のままキョウは目に涙を湛える。
「お前は最初、自分で自分を守るために人殺したん違うんけ! それを今更『俺が』守れやと!?」
チャコは何度か荒い呼吸を繰り返したのち、一旦冷静さを取り戻し、声を低くする。
「ふざけんのも大概にせぇ。自分で引き返せん道選んだんやろが。自分の人生ぐらい自分で責任取れや」
一度は落ち着いたチャコだったが、そこにキョウは消え入りそうな声で「でも」と火に油を注ぐ。
「『でも』違うわ!!」
烈火のごとく激しさを増すチャコの肩をグイと引き、シドが交代を無言で買って出た。勢いのおさまらないチャコはそんなシドにさえ殺意を含んだ視線を向ける。二人に聞こえるように「やってられんわ」と舌打ちをして、ヤンの近くへと走って行った。
潤んだままの瞳は助けを求めるように新しい護衛を見る。
「シドは、僕のこと」
「守る。それが命令である以上は」
チャコとは正反対の冷たい声に、ぱっとキョウの顔に明るさが戻った。
「蜉蒼とは戦わなくていい。だが、自分とは戦え」
そう言って拳銃をホルスターにしまい、地面で伸びている男の手から鉄の棒を奪い取る。そして瞬時に背後からの攻撃を薙ぎ払った。
「いつか言ったはずだ。気概のない人間を俺は誘とは呼ばない、と」
シドは自分を見つめるキョウを一瞥した。虚ろだった目には光が戻り、表情からは怯えが消えていた。
「キョウ。お前は何者になりたい」
「僕は」
チャコや、周辺の敵を視線だけで見回す。シド以外は全員、敵味方関係なく土埃と血にまみれて戦っている。それぞれが何かを守るために必死だった。優しい世界に、温かい言葉に甘えることはできる。ケイの言うとおりにしていれば、誰かが守ってくれる。目も耳も塞いでしまえば嫌な世界から逃げ出すこともできる。
キョウは声にならない声で「ユズ」と呟いた。この言葉が何を意味するのかはわからない。物の名前なのか、人の名前なのか、それすら今となっては濃く立ち込めた霧の向こう側だ。
既死軍に来た経緯はよく覚えていない。どこで生まれ育ったのか、どんな人間と係わってきたのか、覚えていたはずなのに、忘れてはいけない記憶だったはずなのに、今は思い出せない。それでも、今こうして生きていることには間違いなく意味があるはずだ。
背中に縛りつけられていた黎兎を解放し、キョウは今は遠くなってしまったチャコを見据えた。小さい子どもほどの大きさがある薄桃色のうさぎのぬいぐるみは主の足元に自立する。
「僕は、既死軍の誘でいたい」
キョウの四方にいた敵が一斉に後方へと吹き飛ばされた。華麗に着地した黎兎を抱き上げる。
「ケイさん。僕はもう何も思い出せません。でも、『戦わなきゃ』ってことだけはわかります」
再び黎兎を背負ったキョウはシドを見上げた。
「一緒に行く。僕は、僕の任務を全うする」
頷くこともせず、シドはその場を離れた。先ほどまでは黒山のようにいた人間も、今やほとんどが倒されている。最早こんなところに用はないが、一抹の不安は残っていた。有象無象とも言える裔民を仕掛けるだけで終わるとは到底思えない。
しかし、今はそれよりも優先させるべきことがある。向かうは那由他の居住地、蜉蒼に繋がる場所だ。裔民はヤンとチャコ、那由他はヒデに任せ、二人は走り始めた。