心の叫び
アズリカが統治している地域の主要都市である『リズィグル』は、周りを大自然と岩山に囲まれた天然の要塞だ。
街の中心部、つまりバベルに行くにつれて石畳の地面は緩やかに上り坂になっていて、円のような形のように営みを広げている。
大雑把に四区画に分かれていて、人々はそれぞれの場所で平和に暮らしている。
金銭のやり取りが発生する店が並ぶ『商業区』。
物作りが行われる建物が連立する『工業区』。
食料が育てられる畑が広がる『生産区』。
住人が思い思いに過ごす『居住区』。子供たちの養育施設や公園などは『居住区』に作られ、近づくほどに賑やかな笑い声が聞こえてくる。
塔を出てラピスたちの足が向いたのは、『工業区』だった。正確には「司祭として戦えるように装備品の準備をしておけ」というアズリカの言葉によって、半強制的に向けられたのだが。
ラピスとアキラは必ず主神に会わなければならない。元いた世界に帰るために、『ダンジョン』を踏破する必要がある。戦う力は必須で、眷属に与えられたスキルを如何に活用するかが鍵になってくるだろう。
妹のために帰りたいアキラは鼻息を荒くして我先にと職人の元へ走っていった。溜息を吐き悪態をつきながらもアイラが追いかけて行ったので、不安はあるが何とかなるだろう。
対してラピスは強くなるための装備品を揃えることに気乗りしていなかった。この際、アキラがいないから少しくらい言葉にしても大丈夫だろうか。
「なぁ、アズリカ」
「なんだ、ラピス」
なぜか口に馴染む名前を呼べば、淡々とした返事が返ってくる。体も声も子供なのに、この眷属の精神はずっと大人だ。三千年生きているから?いいや、ラピスは違うと思う。きっと、三千年の間に大して変化はしてないくて。それより前の生き様で大人にならざるを得なかったのだろう。
何も知らないし何の確証もないのに、ラピスはアズリカを随分信頼し、尊敬していた。
胸中はしまったまま、本音をポツポツと告げていく。
「実はな……俺、アキラみたいに帰りたいって強く願ってるわけじゃないんだ」
喉から出した声は存外小さくて、アズリカ以外に聞こえるわけがないのにひっそりと沈んでいた。
内緒話でもするかのような囁き声に、貞潔を司る少年は少しだけ嬉しそうに笑った。
「そうか」
「何でか知らないけど、こっちの方が落ち着く」
「お前がいた世界は嫌いなのか?」
問いかけに数秒考える。
好きか嫌いか。嫌いだ。だけど全部が全部、気に入らないわけじゃない。
退屈な日常だった。朝日がすごく眩しくて……それはこちらの世界でも変わらないか。気持ちがずっと平坦で、感情が単純な色しか存在しない。平凡でくだらないことばかり。
けれど、間違いなく平穏だった。
争いなんかない。戦いなんかない。死はよく見るけど身近ではそうそう起こらない。大切な人が突然いなくなることも、日常がひっくり返ることも極低確率だ。
寝坊して学校に遅刻して地味に怒られる。これだけは良い頭でぼちぼち挽回して、結局プラマイゼロ。
「どうなんだろうな……嫌いだけど、嫌いごと好きなのかもしれないな。だけど、ずっと前から……どれくらい前だったかは忘れたけど、俺はいつも"違う"と思っていた」
ジクリと頭の奥が痛む。それを無視して思いを語っていく。
「俺が求めた平穏とは何か違うんだ。抜け殻みたいに生きたかったわけじゃない。戦いがあってもいい。争いに身を置いても構わないから……俺は」
金色の瞳をスッと赤く染まり出した空に向ける。一等星が瞬き出した逢魔ヶ刻を見て、心がギュッと締め付けられる。
「俺は、ただ隣にいたかった」
「……っ!」
「それだけで満足だったって思う。おかしいだろう?誰の隣にいたいのかも分からないくせに、長いことそんなことを考えてるなんて」
目頭が熱を帯びる。頭痛からではない涙が薄く滲む。頬を伝うまでは溜らない雫は海のように、目立ち始めた星を反射させた。
あの空の向こうに行きたい。身を焦がしそうな衝動の影にひっそりと隠れるように存在する、ラピスのかけがえのない願い。それは元の世界では叶えられないと、悟っている。
赤い髪の少女に会いたいと、心が叫ぶのだ。
強がりで寂しがり屋な彼女を孤独にしてはならないと、魂が燃え上がるのだ。
何も知らないのに。何も分からないし、何一つだって記憶にないのに。
ぽっかりと胸に空いた穴に嵌るピースが、いつも近くにいる気がしてならないのだ。
神経を焼き切ろうとするようなこの頭痛すら、それを思えば愛おしく思えるのだから不思議だ。この頭痛はラピスが願いと向き合っている証拠だから。この世界がラピスの居場所なのだと実感させてくれるから。
「なぁ、アズリカ」
もう一度、心が懐かしいと囁く名前を呼ぶ。
服の袖で目元を拭っていた少年が、今度は無言で見上げてきた。
「あの人は今、どこにいるんだろうな」
名前を言わずとも、二人の脳裏に浮かんだのは同じ人物だ。
金の両目と若草の双眸が夜の空を見据える。その先で一瞬だけ深紅の光が瞬いたのはきっと、見間違えでは無いのだろう。
☆*☆*☆*
無限の星海に似つかわしくない爆発が立て続けに発生する。
星の大地から見上げれば息を飲むほどに美しいであろう宙には今、未知の生物が無数に飛来していた。一匹の大きさは小さなデブリ程だが、数千単位でいれば厄介な存在となる。
鈍い光沢がある白灰色の体は、蛙のようだったり百足のようだったり。個体ごとに形が異なる。だが彼らは皆同じ指示系統を持ち、攻撃を仕掛けてくるたった一つの存在に容赦なく牙を剥く。
この生物の名を『ノヴァ』。相対する存在が背に庇う蒼き惑星を、防衛者は『アース』と名付けた。
真っ赤な髪が爆風に弄ばれる。白亜の衣は殺された『ノヴァ』の置き土産である紫の返り血が、ほぼ全面を重く染め上げていた。
『ノヴァ』への敵対者はたった一人。華奢な体と白い細腕からは想像できない力強さを奮う、緋色の髪の少女だ。
呼吸は落ち着いており、表情に焦りと動揺は一切存在しない。毅然とただ一つの目標を睨みつけている。
桜色に色づく唇から垣間見えていた真珠色が、三日月型に顕になった。
「天叢雲!!」
少女の背丈をはるかに超える長剣が大振りに一閃されると、束になっていた『ノヴァ』が一瞬で砂塵となり数を大幅に減らす。
しかし次から次へと湧く生命体の繁殖力は異常で、少女の殲滅力と五分五分だった。
少女は諦めない。なぜなら彼女の目的は殲滅でもなければ防衛でもない。あの月さえ木っ端微塵にできれはいい。そうすればきっと、理不尽に歪められた運命が少しくらいは直るはずだから。黒髪の少年が隣に戻ってきてくれるはずだから。
「燃ゆれ!焔刻!!」
冷静な仮面の奥で燻る激情に薪をくべるように、深紅の爆煙が周辺一帯を覆い尽くしていった。