叛逆者
肉片も血痕も残さず跡形もなく消えた敵対者たちがいた場所を、マーズは無感動に見下ろした。
手間取らせた青髪と黒髪の男二人は完全に絶命し、青髪は砂のように、黒髪は黒いモヤになって空気中に散った。過去の亡霊だったかのように消滅して、この場にはマーズのみが残されていた。戦いの最中、威勢よく吠える割にこちらの負傷は少ない。『アース』の生命ごときに遅れは取らないと自負しているため、当然の結果だと埃を払う。
北の方角を見つめる。
男二人は時間稼ぎには成功していた。『クトゥルフ』の姿はもう見えない。走り去った方向には無人の荒野が広がっている。
だが問題はない。『使徒』や『アース』の主神一派と違い『クトゥルフ』の移動速度は、一般的な人類とそう変わりは無い。
少し移動するだけでその背中を補足できるだろう。
そう思い、腰を落として追走の姿勢をとった瞬間……突風が吹いた。
無色透明では無い薄水色の風は触れただけで突き刺さるような冷気を纏っている。これはある『使徒』が操るものだ。
その風に『オールトの雲』への反逆の意志を感じ取ったマーズは、冷淡に整った相貌を忌々しげに歪ませた。
「ウラヌス、貴様なんのつもりだ?」
風に問う。返事は無い。風の主に対話する気があれば交信可能だが、返事がないということはその気がないということ。
ある意味マーズと真逆の特性を持つウラヌスは、昔から考えが合わないことが多かった。殲滅方法を例に挙げるなら、マーズは効率重視で一撃で数千を屠るのに対し、ウラヌスは直接地上に降りて集落を一つずつ絶対零度で氷漬けにしていく方法をとる。
他の『使徒』にも非効率だと言われた時、ウラヌスはこう答えていた。
「侵略する生物の顔をちゃんと目に焼き付けておきたいからね」
と。
多くの『使徒』は、残酷だという印象を抱いたようだがマーズは違う。ウラヌスがそうするのは、死に際の顔を見たいからじゃない。できるだけ多くの顔を見て、理解しようとしているのだ。
父からの命令である侵略には何の意味があるのか、という無意味な思考を。
いつか、もしもウラヌスがその思考に答えを得た時。または明確な不快感を覚えた時。きっとこの状況が起こると予想はできていた。
何百もの星を侵略していく先に相反することになると分かっていた。
だがよりにもよって『アース』侵略時など、タイミングが悪すぎる。
海の星。火の星。ガスの星。石の星。様々な惑星があるが、その中でも命の成長と進化に特化した『アース』は異質だ。
小さく、息を吹きかければ砕けてしまいそうなのにこうも粘る。これまで侵略してきて、時間稼ぎを成功されたことなど初めての出来事だった。その点で言えばあの男二人は誇ってもいい。
さらに『アース』側にはやたら宙に詳しい少年がいる。『使徒』に対する対策を導き出すことができ、それらを可能にする手段を持っている。
今までで最も手こずっている現状は『使徒』の誰もが自覚しているだろう。
そんな中でのウラヌスの離反。大方、敵に絆されたのだろう。
「来い、フォボス」
舌打ちをこぼしてから己の『衛星』を呼ぶ。
俊敏性がある部下は一秒にも満たないうちに斜め後ろに現れた。
「お呼びでしょうか?」
「これより西へ向かう。お前は先に向かいあのバカを引き止めておけ」
フォボスの顔も見ず命令を下す。
忠実で面倒のない部下は短く返事をすると、錆色の残像となって真横を通り過ぎて行った。
マーズに叛意を知らせた風は恐らく他の『使徒』にまでは届かない。偶然風の範囲内にいたマーズに触れてしまっただけだ。
マーズは少し考え、ジュピターたちへの共有を先延ばしにすることにした。ウラヌスの意志をはっきりとさせるまでは、場の混乱を避けようと考えたのだ。
しかし、この決断が後に波乱を呼ぶことをマーズはまだ知る由もなかった。
☆*☆*☆*
数時間前まで、普段と何ら変わらない日常を映していた瞳に鮮血が花弁のように散った。
いつも怖いものから守ってくれた背中が。いつも軽々と抱き上げてくれた腕が。いつも優しく見守ってくれた目が。
今は、もう何の温度も感じられない。
「ママ……?」
掠れ声で呼ぶ大好きな響き。大好きな笑顔が見れる合言葉。
でも、こちらを見る眼差しは瞬き一つしない。体の向きと不自然に向いた顔は、初めて見る母親の無表情だった。
本能が悟ってしまった。幼心にも分かってしまった。
母は死んでしまったのだと。
目の前で大好きな顔が踏み潰される。
転がってきた眼球に手を伸ばし、僅かに残った温もりに母を求めた。
母の欠片を胸に抱いて蹲るとふと影が差した。
茫然自失としたまま影の正体を見上げる。
初めて見る色の空と流れ星を背にして、母を殺した張本人はこちらに手を伸ばした。
あの手が頭に触れたらきっと死ぬ。先に行ってしまった母の元に追いつける。
ホッとした気がした。しかし、胸の奥は冷え切っていった。
「なんで」
「?」
近づいていた手がピタリと停止する。
「なんで諦めなきゃいけないの?」
母親を求める幼子の声のはずだった。同じ口から出た音のはずだった。
死体同様、温度はなく抑揚も無い声音に『侵略者』は一瞬の躊躇を覚えた。
伸ばした褐色の腕を下ろす。
「私たちがお兄さんに何かしたの?」
何もしていない。無辜の民だ。全く関係のない戦いに巻き込まれているだけだ。『父』の命令に偶々含まれてしまっただけだ。
今まで何度も同じような言葉を聞いてきた。疑問、怒り、嘆願、慟哭……数え上げたらキリが無い。
その度に感じる違和感。
こんなはずじゃなかったと、すべてが終わったあとに一抹の後悔を覚える。
これで良かったのだと、すべてが終わったあとに僅かな達成感を覚える。
『惑星』である以上、『使徒』は父たる『オールトの雲』の意志により感情は希薄だ。ジュピターたちと同じように何の感情もなく命令を実行してきた。
はずだったのに。
「間違ってる……」
普段は飄々とした声しか出ないのに、あるはずのない心の葛藤を大いに含んだ呟きは近くで爆ぜた火花と相殺される。
だから、確信を得るために。
芽生えたかもしれない『感情』とやらに名前をつけるために、もう一度はっきりと言った。
「間違ってる」
今度はちゃんと響いてくれた。
ここ最近ずっと波立っていた胸の内側がやっと落ち着く。意志を持つことができて安心したようだった。
「オレはもう『侵略』しない」
突風が吹き荒れる。
血腥いものを全部吹き飛ばした薄水色の風は、辺り一帯に行き渡った。
反逆の意志が十分に乗った風は比較的近場にいた『使徒』の一人に届く。その『使徒』から速やかに全員へ離反が連絡されたはずだろう。
もう少ししたら、余裕のある『使徒』が『衛星』を連れてやってくるだろう。
その前にきっかけをくれたこの子供を逃がしてあげたいと思った。
「君、よく聞くんだ」
同じ目線までしゃがんで、子供の肩に手を置く。
まだ人の機微は分からないため、怖がられ嫌がられていることには気づけなかった。
「風が背中を押してくれる方へ行くんだ。そうしたら誰かが君を助けてくれるから」
「誰かって誰?ママはもういないのに」
「あぁ、君の母親はオレが殺してしまった。だけど君のことは守りたいんだ」
言っていることがどれほど残酷で意味不明なことなのか分からなかった。でも必死になって子供を安全な場所へ導く。
「西から吹く風に背中を押してもらって東へ向かえばいい。……ママにもきっと会えるから」
付け加えた言葉が出てきたのは奇跡だと言っていい。『感情』を知ったばかりの『使徒』にとって、愛はまだ馴染みがない感情だった。そこから派生するあらゆる感情も知らなかった。
だから、母親を求めるなら母親で釣ればいい、と思ったのだ。結果的には会えなくてもいい。残酷な嘘だ。何がなんでも子供を戦地から遠ざけるためだ。道中は風が子供を守ってくれる。
「早く行くんだ」
母親の眼球を持ったまま言われた通りに子供は東へ走り出す。
背後から足音が聞こえた。
どの『惑星』が来たのかと振り向けば、そこにいたのは意外な人物だった。
「ここまで虐殺をしておいて今更何のつもりです」
どうやら一部始終を見られていたらしい。
長く伸びた砂金色の金髪を風に揺らしている青年は、既に刀を抜いていた。
「『眷属』の一人、キリヤで合ってるかい?」
「ええ。そういうあなたは誰ですか?」
「オレは『天王星』の『使徒』だ。名をウラヌス。見ていたなら話が早い、君に取引を持ちかけたい」
キリヤが大きく目を見開いた。
しかし一秒後には目元を険しくさせる。
「『侵略者』と取引をする被害者がいるわけないでしょう。僕はあなたを倒して民を救う。これ以上の蹂躙は許容できません」
「そんな君に耳寄りな話があるんだ。時間が無いからさっさと一息に教えるけど、オレが君たちの味方になろう。オレの力も情報もすべて『アース』にくれてやる。その代わりに君たちは最前線から一度離れて無辜の民の保護に尽力して欲しい」
本当に時間が無いことはキリヤもちゃんと理解しているため、提示された取引を最終的には承諾した。
しかしもちろん条件付きだ。
「民間人の保護はとっくに始めています。地上に生命が極端に少ないのは、リーシェ様が戦いながら無意識下で魂を集め続けているからです。なので、僕は最前線に残りあなたの監視も兼ねて『使徒』と『衛星』の侵略を食い止めます」
「オレを監視しながら?オレが言うのは変かもだけど、別のことに気を取られながら『使徒』を相手にできると思ってる?」
一応ちゃんと『使徒』の一人であるウラヌスは、過信とも取れるキリヤの言葉に失笑した。
ムリムリ、と笑い飛ばそうとした次の瞬間、ゴトンと音が聞こえる。
「は?」
首が転がっていた。『使徒』の物ではない。『衛星』の首だ。面識は無いが朧気に『海王星』の『衛星』であるトリトンだった気がする。
そもそもウラヌスたちは肉体が死んでも身体が消えるだけで死体が残ることは無い。この体は侵略に最も都合がいい形を作っているだけで、本来はみんな星なのだから。
そのはずなのに、トリトンは息絶えても実体を保っている。確実に首と胴体が離れているのに、消える気配すらない。
それ以前に、キリヤには交戦の跡すらない。服は乱れがなく擦り傷もなく、体力を消費した様子もない。刀にも刃こぼれ一つなかった。
ウラヌスは顔が青ざめるのを感じた。
青年の顔を見ると、底冷えする笑みを浮かべた人間がいた。
「あなた方は知らないのかもしれませんけど、『アース』には昔から四つの種族があって得意なことがそれぞれ異なっています。その中でも僕は『戦人族』と呼ばれる人種。つまり」
キリヤは刀の峰で肩を叩きながら、金の両眼に十分すぎるほどの殺気を含ませていた。
「生まれながらに戦いに特化した存在です」




