流水
母は心配性な邪神だった。
それもそのはず。邪神はその名前の通り、世界に嫌われる存在だったからだ。
元いた世界について覚えているのは、転移する直前の記憶と邪神の立ち位置だけ。『邪神族』の少女にとって、神が独立して存在すること自体が考えられないことだった。
だけど、この世界の在り方を考えれば納得できないこともない。
何を中心に世界が廻っているのか。この違いによる結果だということは理解できた。
生まれた頃から迫害を受け、『神』でありながら決して『神』にはなれない存在。それが『邪神族』だった。
だけど……ああ、だけど。
この世界なら違う。強者は絶対の立場に立てる。気に入らないやつはねじ伏せて。嫌いな奴は食い散らかして。気に入ったものは使い潰せばいい。
なんて素敵な世界だろう。なんて自由な世界だろう。なんて暮らしやすい世界だろう。
だから許せない。
アイシャを害そうとする者。アイシャに牙を剥く者。アイシャの平穏を蹴散らそうとする者。
その全てを喰らい尽くす。そして……そしたら今度はアイシャがこの世界の神になるのだ。アイシャだけが幸せな世界。何を食い散らかしても文句を言われないアイシャだけの世界を創り上げる。
せっかく蘇ったのだから。せっかく唯一神が弱っているのなら。今この機を逃してはならない。
邪魔な狐を喰らって、目障りな眷属を平らげたら次は神を腹に収めよう。『邪神』が淘汰される時代に終わりを告げよう。
アイシャが、アイシャこそが最後の『邪神』なのだから。
☆*☆*☆*
「……───」
「リーシェ?」
海色の半球体がある遥か先の光景を見つめ少女は瞠目する。左右で色彩の違う瞳は彼方を見据え、小さな唇は結ばれたまま。
しかしやがて笑みを形作りながらゆっくりと開かれた。
「いえ、何でもありませんラピス。この戦いもそろそろ終盤に差し掛かってきました。私たちも次の行動をしないと……」
「『怠惰』との交渉に行ったアズリカ達からはまだ何の連絡もないな。あの海の半球体は『貪食』と交戦中のアイシャが作ったんだろうが、アレは一体?」
金の目を眇めてリーシェと同じ方角を見るラピス。ドーム型のような海がそこにはあった。
アイシャと戦場を共にしたことはない。だが、『巫女』という役職。彼女の両親のことを考えれば、海を作り出す力は違和感を覚えた。
「あれは『伝説の力』です。私やラピス、シュウナのように唯一絶対神と『月』によって授けられたのでは無い。この星自身が与えた神性。私たちが『全知全能』を目標に創られたのなら、アイシャは『森羅万象』を操作する存在として生まれた、と言えば一番わかりやすいでしょう」
リーシェが言った『全知全能』とはすなわち、『神』に至る資格を持っているということ。
『森羅万象』とはこの世界に起こりうる全ての自然現象のことであり、所有者本人自体は至って普通の存在である。
なるほど。こうして分類すると確かに全く別物の力だということがわかる。
「……星自身の意志、か。それはお前のその両目の色にも関係してるのか」
問いではないその言葉は確認だった。
蒼碧色の右目。浅緑色の左目。『アース』の外見を、『地球』を彷彿させるその色合い。そしてリーシェが何度も言った『星の権能』。
偶然と考えるには少し一致点がありすぎるとラピスは思うのだ。
「リーシェ。お前は……どこに向かってるんだ?」
答えを聞くのが怖かった。
ラピスは少女のことが本当に少しだけ怖かった。少女が遠くに行こうとしているのでは無いかと怖かった。
だけど何も教えてもらえないまま、少女が出した結論に辿り着かれるのはもっと怖かった。
リーシェは三千年前から何も変わらない。
陽だまりのような微笑も。烈火のような戦意も。
何も変わらない……何も変わらない方が異常じゃないか。
人は状況や言葉一つで変わる生き物。良い方向にも悪い方向にも進める生命体。本人が意識せずとも性格は少しづつ大人びっていったり、素をさらけ出すようになったりする。百年にも満たない寿命の中ですら大きく成長するというのに、リーシェは何も変わらないのだ。
三千年のほとんどを眠って過ごしていたから?不変の神だから?
違う。リーシェは多分そうじゃない。
まるで、変わることを……成長することを諦めたみたいだ。
「俺はお前のやりたいこと、暮らしたい日常のために何でもやる。だけどこの旅のゴールにお前が居ないんじゃ何の意味もないんだ。俺が歩く道の隣にはリーシェがいて欲しい。リーシェが歩く横には俺が並びたい。リーシェもそうだろう?」
「ラピス」
凛と、張った弦のような声で名を呼ばれる。
いつの間にか下げていた視線を上げれば、やっぱり微笑む少女がいた。
「大丈夫。私はどこにも行きません。……だけどその話はこの戦いを終わらせてからにしませんか」
言い終わりと同時に黒い影がリーシェの真後ろに降り立つ。漆黒の長髪を揺らして現れたのはフェンリルだった。ライザが死んだことで拘束を逃れたらしい。
「リーシェ。先程、シノブが死んだ」
「っ!?」
脳裏に青年と瓜二つの背の低い少女が浮かぶ。三千年前は敵として。今は味方として邂逅した元『憤怒』の少女の悲報に後頭部を殴られたような気分だった。
「相手は誰なんだ?」
怒りと悲しみで震える声を絞り出せば間髪入れずフェンリルは答えた。
「今アイシャが交戦中の『貪食』だ」
そう言って黒いマントの中で抱えていたらしいシノブの遺体をリーシェに見せる。
見るのも辛いほど損壊した体にラピスは今度こそ言葉を失う。
下半身が消えた体。潰された両目。身体中の傷をよく見れば深いところは骨が少しだけ覗いていた。
そっと地面に横たえられた随分と軽い遺体を前にリーシェが片膝を着く。少女の横顔は何の感情も宿していなかった。沸き上がる感情を堪えている様子もない。
「なるほど、それでアイラがアネロの最後の魔法を破壊したのですね」
「ああ。戦いに巻き込まれる前に回収してきた」
そう言うフェンリルも淡々としている。
「無茶だとは思うが蘇生できたりしないか?今は少しでも戦力が欲しい時だろ」
何だよ、それ。
「残念ですが魂は既に砕かれています。輪廻から呼び出すこともこうなっては不可能です」
なんでそんなに冷静なんだよ。
「そうか」
それだけかよ。フェンリルはずっと一緒に行動してきたのに。
「シノブが負けたとなれば『貪食』はかなり強力な眷属なのでしょう。昔、私が戦った時はそんな印象は抱かなかったのですが」
リーシェ。お前、変わっちまったんだな。変わってないなんて、そんなはず無かったんだ。
「あの時は『貪食』が全力を出す前に決着が着いたからだろ。それに今は眷属の人格と転生者の人格の区切りがあやふやになってる。そのせいで変に力を増しているのかもしれない」
リーシェだったらこんな時、悲しんで戦意を奮い立たせて、被害が拡大する前に敵を倒しに行っていた。
「厄介なことになりました。アズリカが応援を要請した『怠惰』がどう動くか、ですね」
「俺が……!」
「いいえ、ラピス。あなたには別の仕事があります」
俺が行くという言葉は一瞬で遮られ否定された。シノブから視線を上げた少女の表情はやはりなんの感情も見出せない。
「……っ!」
「……怒り出したい気持ちも悲しい心も分かりますが、今は効率的に動かなければ。どうか理解してください」
もう何が何だか分からない。頭がぐちゃぐちゃになっている。
だからだろうか。ラピスの震える肩に心配そうに手を伸ばした少女の手を振り払ってしまったのは。
「あ、ごめん……リーシェ、ちょっと気が動転して……」
「構いません。ラピス、あなたは好きにしてください。この後も大きな戦いがある。力を温存して欲しいのです」
本当に何も感じていない顔にまた胸が痛くなる。リーシェのことは大好きだ。けどリーシェはもう、自分のことなんてどうでもいいのだろう。
何故か急に恥ずかしくなってラピスはその場から転移した。
少年が消えた空間をリーシェはしばらく見つめ続けていた。
「……フェンリル」
「ん?」
「人間って難しくてままならないものだったんですね……」
まろやかな頬に流れた数滴の涙を青年だけが知っている。
リーシェは人間じゃない。どれだけ外面を人みたいに取り繕っても、少女は世界ただ一人の神だ。微笑みだけが変わらないのは、唯一それだけが神が浮かべることができる表情だったからだ。
リーシェはもう喜怒哀楽が希薄になっている。この少女を構成するのに影響した人物への感情の上下は変わらないが、それ以外の人物には何の感情も湧かない。
神の一部から創られたフェンリルも似たようなものだ。
シノブは行動を共にした期間こそ長かったが所詮はその程度。外見が似ていることにも特になんの感情もなかった。
「ま、だからこそ面白いんだろ。同じ個体がいないってことは」
「もっと勉強しなきゃ、ですね。さ、時間がありません。フェンリルは各眷属の元へ向かって状況の確認をお願いします。シュウナが目覚めていればこの手紙も一緒に」
多分、これをラピスに頼みたかったのだろう。フェンリルにも別に頼みたいことがあったはずだ。
「おう。主神はどうするんだ?」
「私は―――」
☆*☆*☆*
水中での戦いはほぼ拮抗していたが、どちらかと言えばアイラの劣勢だった。
ペース配分のために尾の数は九本に戻し、水を自在に操って戦う狐人。
不自由なフィールドをものともせず、正面からの攻撃にも不意打ちにも柔軟に応戦する邪神。
邪神の姿は数分前よりほんの少し変わっていた。
交わしきれなかった傷口から次々と木のツタのようなものが生えていた。再生と吸収を象徴する植物の特性を用いているようだ。どこかで木の根でも齧ったに違いない。
邪神が傷を負っていても狐人が劣勢な理由は他にもある。
少しづつではあるが、水へ完全に適応しつつあるのだ。
意識してエラ呼吸していたのを、意識せずとも行えるようになったと言えばいいだろうか。つまり戦いに全ての意識を注ぎ込むことができてきているということだ。完全に適応されれば、アイラは地形の利を失う。
僅かな焦りで隙ができたのか、アイシャが飛ばした水の槍がアイラの腹を勢いよく貫通した。
「ガッ……まさか、もう……?」
水中でのアイラの攻撃方法は魔力で水を極限まで圧縮して打ち出す戦法だ。あの邪神は真似をするように同じ方法で攻撃を繰り出してきた。それはつまり、既にほとんど適応しているということに他ならない。
小さくは無い風穴から溢れる血液が周囲の水を染める。
アイラの意識がフッと遠ざかる。
その命が器から零れる寸前で九尾が儚く輝く。一番外側にあった尾が透けて消えていくのと同時に、致命傷が快癒していく。
アイラも分からない事象だったが、『伝説の力』を解放したことで少しはしぶとくなったらしい。尾の数だけ致命傷を癒せると考えれば良いのだろうか。
何にせよ戦いは続行できる。
間髪入れず槍を放出してくるアイシャに短く舌打ちをし、負けじとアイラも水を圧縮させた。
生成された刃の数、二十。
ここは自分の土俵だと豪語するように、敵の倍の数を操ってみせた。
「甘いな」
背後から響く声。
青ざめるアイラの首が半ばほど噛みちぎられる。
また尾が消える。
回復する少女を見てアイシャも仕組みを理解したらしい。一定の距離を取った邪神が嘲笑した。
「ワタシを化け物だと言う割に、オマエも中々の怪物だな。尾の数は後七つ。どこまで保つか見物だ」
歯を噛み締める。だがすぐ後にある方法を思いついた。
恐らくアイラは彼女には勝てない。だけどあの人ならきっと……。
「そうやって調子に乗っていなさい。最後に勝つのは私たちよ」
この世界において犯罪は厳しく取り締まられる。セルタで強盗をした男が落雷とともに故郷に送還されたみたいに、必ず天罰が下る。神の御業によって。
人殺しは最も重い罪。落雷による送還とは比にならない罰が与えられる。
「あなたは今二回私を殺したわ。その前はシノブを食い殺している。天罰が下るには十分すぎる業を背負ったわね」
「何を言って……」
怪訝に眉を顰め言葉の真意を確かめようとする邪神。しかしすぐにハッと頭上を見上げた。
そこにいたのは美しい水色の髪の少年。淡い青色の下で真っ赤な瞳がうっそリと笑っている。
「……誰」
望んでいた人物とは正反対の髪色の人間に、気の抜けたアイラの声が響いた。




