影の子
赤い瞳。褐色の肌。長い黒髪。かつては『憤怒』を司っていたこと。今は『貞潔』の司祭であること。
己に価値を付与する事柄ほど不安定なものはなかった。シノブという少女にとって、孤独はいつも背中にひっそりと侍っていた。
旧眷属の中で唯一、この世界の出身であることも。
現司祭の中で唯一、旧眷属だったことも。
一族が仕えた主とや結局、距離を近づけることが出来ないままズルズルと長い月日が経過した。
蘇り、交戦するかつての仲間の一人を見ていつしかシノブの心に、忘れていたはずの感情が復活する。
「あぁ……邪魔だな」
鍔迫り合いの最中、あまりにも淡白な声音で零されたただ一つの溜息と言葉。声に余計な感情が乗らなかったからこそ、相手はシノブが発した情動を正しく受け取った。
「ワタシの台詞なんだけど」
得物を片手に気に入らなそうに鼻を鳴らすのは、水色の髪の眷属。『貪食』を司るベルゼバブだ。右手で地面に突き立てられているのは、テーブルナイフを武器として扱えるサイズに大きくしたものである。
互いに実力は拮抗し掠り傷がいくつかついている程度。勝敗を決定するには至らない膠着状態に、シノブは分かりやすく眉間に皺を寄せていた。
「ワタシはとてもお腹が空いている。オマエに構ってる暇はないのだ!」
普段なら淡々と聞き流していた言葉にも彿々としたイライラが湧き上がってくる。
「私だって暇ではない。元『憤怒』の眷属として、あなたに引導を渡してやろう」
『貪食』と『憤怒』は旧眷属の中では最も不仲な二人として定評があった。
常に腹が減っている少女と、常に苛立っている少女。心穏やかな時が少ない両者は会う度に睨み合っていた。
味方同士だったため戦いに発展したことは無い。実際にどちらが優れているのかは分からないまま、『貪食』は討伐された。『憤怒』は解放された。
しかしシノブには負ける気が全くない。
片や三千年前に敗れた者。片や三千年前から研鑽を積んで来た者。普通に考えて負ける道理はなかった。
だから少し……油断していたのかもしれない。
何度目か分からない鍔迫り合い。シノブの予想通り優勢に立ち、空腹が限界だと膝をつくベルゼバブ。勝ったと確信し大鎌で首を刎ねようしたその時。
なぜか視界が自身の下半身を見上げていた。
「……え?」
小さな驚きが口から零れる。
ゴポリと血を吐き出すのと同時に切断された下半身の断面から血液が噴き出した。
急激に寒くなる体。暗くなっていく視界。即死の怪我を負ってなお思考が定まっているのは、元旧眷属と『貞潔』の司祭の恩恵があるからだ。
それもほんの数分の猶予に過ぎない。間違いなくシノブはここで死ぬのだ。
「ああ……あのときで最後にしようと思ったのに、ワタシはまたやってしまった」
後悔が滲んだベルゼバブの声。完全に構図が逆転した状況に目すらも動かせない。愕然と見上げるだけだ。
何秒か頭を抱えて項垂れたあと彼女は表情を一転させて満面に笑った。
「ま!仕方ないか!命に感謝してオマエを食べてあげよう」
重心を失って崩れ落ちた下半身に手をかけたベルゼバブは、大口を開けると頬袋いっぱいにそれを咀嚼し始めた。
耳を塞ぎたくなる音が遠くなりつつあるシノブの耳を犯していく。自分の体が食べられている事態に吐き気が込み上げた。競り上がってくるのは血反吐だけだ。
何とかしてアズリカに状況を伝えなければと思うのに 、瞬きすらできない。急激に視界が暗くなり寒気すらも感じなくなっていく。いよいよ近づいてきた絶命の時に、シノブが取れた行動は追憶に耽けることだけだった。
☆*☆*☆*
物心ついた頃から、女王の影の護衛として教育をされた。誰かを守ることは当然の生き方であり、女王を守ることは少女とその家族にとって誉高いものだった。姿が見えなくなって久しい女王の存命を信じて、両親を身命を賭した。
少女に代が変わる頃、当時の神が『憤怒』の眷属として己を見出し精神を汚染した。
なぜ絶対神がシノブを見出したのかは不明なままだ。だけど所詮ただの気まぐれで些細な暇潰しだったのだろうと
今なら直ぐに察することが出来る。
シノブが『眷属』になってしばらくして、女王が公に姿を見せた。赤い髪と翡翠の瞳が特徴的な可愛らしい人だった。熾烈な強さと優れた統治力は瞬く間にシノブに伝わった。
『憤怒』となる前のシノブだったら、主の帰還に涙をn流して喜んだだろう。しかし少女の精神は変質し湧き上がった感情は怒りに塗りつぶされていた。
今さらやり直そうとする女王への怒り。
今さら引き返せない『憤怒』への怒り。
今まで何も出来なかったはずなのに、どうしようもできない状況はもどかしくて仕方がなかった。
その後、『憤怒』の人格からアズリカによって解放してもらい、シノブは一族の役割に戻ろうとした。
公に出た女王を守るため、自分はもっと強くなる必要がある。
強い主の手を煩わせることがないように実力を高める必要がある。
一年ほど修行をしようと思った。シノブが自分の実力に納得できる状態に仕上げようと思った。
神討伐に向かった女王に胸を張って任を名乗り出れるようにと。
それだけが当時のシノブにとって唯一の生きる目的だった。
結果は全く違うものだった。
女王は帰ってこなかった。アズリカもリーシェも他の者たちも帰ってこなかった。漠然と唯一絶対神が消えたことは感じ取り、新たな神が誕生したことも悟った。
飛ぶ勢いで『魔境谷』に向かったシノブが見たものは、傷だらけの討伐メンバーたち。敗走してきたというより、何かに無理やり追い出されたような雰囲気だった。
神が討伐されてから三日後のことだ。
その中に見覚えのある人物を三人見つける。
当時は知らなかったが、直接的には神討伐に参加しなかったラーズ、アルロ、アネロだった。
疲労が色濃い三人に駆け寄り、満身創痍のラーズの肩を掴んで問い質した。
主の安否を。恩人の無事を。
彼自身も状況をよく飲み込めていなかった。帰ってきた返答は「分からない」だった。
シノブはもう怒ることはしなかった。
悲しみに暮れて、嘆きに身を投じた。体を動かす気力もなく、薄暗い谷で膝を抱えて無意味に時間を消費した。
時々様子を見に来ていたアネロが、腕に赤ん坊を抱えるようになった頃。
迷宮の入口からひょっこりと小さな子供が現れた。
若草のショートボブ。新緑色の両目。体は随分小さくなったがアズリカに瓜二つだった。
茫然自失するシノブとアネロに少年は笑ってこう言った。
花が綻ぶような笑顔で「久しぶり」だな、と。
☆*☆*☆*
そこまで思い出してシノブの脳は機能を停止した。
下半身を食べ終わったベルゼバブが糸が切れた人形のような上半身に視線を送る。
辛うじて聴覚を残すのみとなったシノブを一片も残さずに食おうとしたベルゼバブ。
何も見えないシノブの鼓膜を少女の声が揺らした。
「待ちなさい。その方の亡骸をそれ以上冒涜することは許可できません」
ああ、この声は。
暗闇の中にいたシノブの人生がまた輝きを取り戻した時、隣にいた赤ん坊の声だ。三千年、守って、守られて、見守った小さな宝物。
最期に聞いた声があの子のもので良かったと思いながら、シノブの息は完全に絶えた。




