少女神の目覚め
霧の森から戻ったマルスは、迷宮最奥部を有り様を見て多くの感情が渦を巻いていた。
シュウナの仮体が瀕死の重傷を負い、竜に助けを求めるために霧の森へ行った。竜の姿が既にないことを確認しとんぼ返りしてくれば、眠っていた主神も忽然といなくなっていた。
長い間神体が眠っていた棺は内側から強引に破壊され、氷の破片が溶けることなく床に散乱している。
焦りや驚きに勝った安堵が溜息となって外に吐き出された。
そして同時に不安が募る。
主神が長い眠りについたのは三千年の中でも二回だけ。
一回目は神として存在を確定させた直後に行使した『異世界転移』の影響だ。この世界の枠を大きく超えて、人間を別の世界に送ることは莫大な『神性』が必要である。一度使えば決して少なくない『神性』を枯渇させてしまうほどの大食らいのスキルだ。
そして『神性』とは神にとって非常に重要なものである。『神性』を失えば活動することが難しくなるため、人間でいう『活力』や『体力』と同じ意味を持つ。命そのものと言えるだろう。
眠りにつき、僅かに回復した『神性』で現在の世界に基盤を作ったのが二千三百年前のこと。しかしリーシェ自身の自我が表に出ることは叶わず、独立した神の意識が動いた。
この現象はラピスが昔使った『バーサーカー』と似た状況だ。自我は深い眠りにつき、付与された人格が体を動かしていた。
そして数ヶ月前に地下深くで静かに目を覚まし、ラピスをこの世界に『転移』させたことで二回目の眠りについた。
実は一度目の『異世界転移』より二度目の方がより多くの『神性』を消費したのだ。
一度目はただ異世界に飛ばすだけで良かったのだが、二度目は飛ばした世界を特定するという大仕事があった。『異世界』に干渉すること自体が大量に『神性』を消費する。しかしリーシェは無数の『異世界』を何度も覗き観察していた。これだけで既に一度目より遥かに多い『神性』を使っている。そうしてやっと見つけたラピスは、崖から転落中だったため『神性』の回復を待つ暇もなくスキルの使用を実行したのだ。
もちろん『神性』は枯れ果て主神は二度目の眠りに入った。一度目の『神性』をすべて回復させるのに三千年かかった。二度目の消費に対する眠りはたったの三ヶ月足らず。
考えずとも回復期間が短すぎるのは明白なのだ。
だからこその不安。
全体の一割も回復できていない『神性』は、彼女に『技の力』の使用すらも躊躇わせるだろう。『伝説の少女』ではなく『神』であるリーシェにとって『神性』は水と同じくらい必要不可欠なもの。
それでも希望を少女神に託すしかなかったのも事実。
「頼むから、無事に帰れよ」
砕け散った破片を跨いでマルスも戦場へ向かう。
前神の望みも主神も望みも『アース』の繁栄と平穏だ。ならば眷属であるマルスが戦う理由は十分だった。
☆*☆*☆*
赤い髪の少女と黒髪に灰色のヴェールを被った青年。両者の間に流れる緊迫感は、周りを牽制している『ノヴァ』に恐怖を覚えさせていた。
「こっちの体では初めまして、ですね。『月』の管理者……クレセントと呼んだ方が良いでしょうか」
「好きに呼ぶといいよ。名前なんて所詮僕にとっては無意味だから」
クレセント。『月』を意味する言葉を名前として当てはめたリーシェは、青年の無表情の返答に目を細めた。
白い腕を持ち上げて、真っ直ぐクレセントを指さす。直線上には赤緑の艶やかな宝石が胸に下げられていた。
「それ、返してもらいますよ」
宝石が淡く光り、本来の主人の元へ帰ろうと一人でに揺れる。揺れはやがて本格的な抵抗となり、繋いでいた鎖ごとクレセントの胸を離れていく。
手のひらに収まった宝石を見つめて、少女は労いの言葉をかけた。
「長い間、私の代わりに頑張ってくれてありがとうございました。平穏な暮らしの記憶ごと、私の中でゆっくり休んでください」
宝石を口に入れてゴクンと飲み込む。その瞬間、白いワンピースしか着ていなかったリーシェの姿が『神』に相応しい姿へ変貌を遂げた。
ホログラフ体が纏っていた軍服モチーフの色鮮やかな衣装に変わり、右手には槍とも剣とも言えない細長い武器が握られる。
クレセントはグルリと捻れたそれを見て嘲笑気に似た笑みを見せた。
「まるでおまえを象徴してるみたいな武器だな」
深紅の前髪の下で、碧色と黄檗色のそれぞれ色の異なる瞳が強い眼光を放つ。父から受け継いだ美しい翡翠の輝きを残さない両目は少女の変質を意味していた。
瞳とは生き物の状態に合わせて細かに表情を変える。
嬉しさや喜びには喜色。
悲しさや寂しさには哀色。
感情の変化を雄弁に語るのはいつだって瞳だ。
「私はもう、リーシェと名乗るのは相応しくないのでしょう。優しい母と強い父に名付けてもらった名を使うには、私は変わりすぎてしまった。……一度死んだ時点で"リーシェ"は終わったのです」
今リーシェを息を吹かせているのはリーシェの命ではない。リーシェを守るためにスティが残した彼女の命の欠片だ。だから瞳はスティの『魂』の色を引き継いでシトラス色に変わっている。
「あなたは見えずとも分かるのでしょう。私には『神』の力を行使する力が残っていないことに」
「『管理者』としての眼を使わなくたって、おまえが纏う覇気で知ってるよ。だからこそ言ったんじゃないか。捻れてる武器がおまえみたいだって。それで?おまえは一体何を差し出して僕と相対できているの?」
クレセントの計画は完璧だった。
本来、主神の目覚めは牽制の意味の"兆候"があるだけで、ずっと先のことだった。"兆候"の第一段階が出ても、第二段階が何百年も先になることが多い。実際、枯渇した『神性』は全く回復していなかった。
ある程度の『無理』と残された『秘策』を使わない限り、主神は絶対に覚醒できないと確信していた。
だからこそ、このタイミングで『アース』攻めに打って出た。『ノヴァ』で地上を蹂躙。クレセント自ら出向き『眷属』を無力化。主神が作った世界を壊し、正しい星の路線に進む方向を直す。
覚醒しないうちに主神の棺を回収し、『月』で保管することで万が一にも対処ができるようにするつもりだった。処罰対象と距離が離れているのはデメリットが大きいのだ。
「おかげで計画は台無し。おまえの自己犠牲、ちょっと甘く見てたらしい」
着実に近づいてくる月を背にクレセントは爪を噛んだ。
「恩人から貰った命が何よりも大事なんじゃないの?今していることは、それと真逆の行為だよ」
「この命は大事です。そして、私の望みは幼い頃から何も変わっていません」
先程伸ばした腕の代わりに、今度は槍剣を突きつける。迷いのない笑みを浮かべてリーシェはすっかり口慣れた望みを言った。
「平穏に暮らしたい。ただそれだけなのです。……だから『星の権能』を私に移植しました。どうしても、あなたが邪魔だったので」
「奇遇だね。僕もおまえが邪魔なんだ。その覚悟、無駄に終わることに早々に気づいてさっさと死になよ」
言うと同時に、牽制のために浮遊していた『ノヴァ』が一斉に降り注ぐ。空を舞うツバメのような速さで猛進してくる敵生命体にリーシェは雷を落とした。
「地上を蹂躙なんてさせませんよ。換装、"ミョルニル"」
武器の形状が一瞬で変化する。雷の装飾が美しい鉄槌を握り締めたリーシェは、クレセントに向かって空を蹴った。




