流浪人の少女
アズリカの統治地域である『リズィグル』へ向かうため、装備を整えたラピスたちは山を登っていた。
数日分の食料や飲料が詰め込まれたバックパックを背負い、道無き道を進んでいく。体力はどんどん削られていった。
登録所で恙無く司祭になったのが一昨日のこと。準備を進め、女神祭当日で大いに賑わうセルタを発ってから半日が過ぎた。
ライザの話では、セルタとリズィグルは隣合っているため到着するのにそれほど日数は掛からないと言う。しかし道が険しいため体力がない者は途中で諦めてしまうのだとか。
切り立った岩山に囲まれた窪地にあるリズィグルは、標高が高い場所にあるため酸素が薄い。さらに、凶暴な竜が山の頂上付近を根城にしているため、司祭になって間もない人は脱落せざるを得ないらしい。
一般的な話に漏れず、ラピスとアキラも既に息が上がりきっていた。
吸っても吸っても肺が満たされず、脳が酸素欠乏症を起こしかけている。酸素が薄く勾配の急な山道を登る体力があるほど、二人は体を鍛えていなかった。片や星空オタク。片やバイト漬け高校生。仕方の無い話である。
ラピスより幾分かマシなアキラが手を引いてくれるから、ようやく山の中腹を過ぎたところまで到達することができた。
「ハァッ……ハァッ……!がんばれラピス……!あと、少しで頂上だぞ……!ハァッ……知らんけど!!」
励ましたいのか突っ込まれたいのかよく分からない声が降ってきた。いつもなら小突きながら突っ込んだだろうが、そんな余裕はなかった。
「アキラ……!ゼェ……ゼェ……!お前……!手汗、滑る……!」
「うるせぇ……!水を、節約しなきゃ、ならないんだ……!ありがたく……ハァッ……!吸い取っとけ!」
「俺の手は……!スポンジか!?」
こんな馬鹿みたいな会話をしていなければ気がおかしくなりそうだ。
意味のないように見えて意味しかない応酬を何度か繰り返していると、生い茂っていた木がようやく途切れた。
広がった視界に移ったのは、息を忘れてしまう絶景だった。
高いところから落ちる無数の滝。滝の数だけ掛かる虹と澄み切った水が日光を乱反射する。秘境と呼ぶに差し支えのない光景に、しばらく言葉を失った。
「……綺麗、だな」
ポツリと、達成感を滲ませたアキラの感想にただ頷く。まだ目的地に到着していないのに、まるでこの場所がゴール地点のような気がした。
虹を映した金の両目が絶景の向こう側を見据える。指先ほどの大きさだが、都市が見えた。あれが『貞潔』を司る眷属、アズリカの統治地域だろう。
気が遠くなりそうな距離だが、足を進め続ければ着くはずだ。
「だいたい二十キロ前後か?」
同じく遠くの都市に気づいたアキラが目測で距離を測る。都市の大きさにもよるので実際は違うだろうが、目安をつけることは大切だ。
小一時間ほど休憩を取り道を急ぐ。司祭に登録されてから三日以内にリズィグルに到着しなければ、眷属に会う資格がないと判断され登録をキャンセルされてしまうからだ。
腹を満たし水分を取り仮眠した少年たちは、目を奪われた絶景の中を進む。
剥き出しの岩肌から生えた木々が風にざわめき、叩き落ちる水がせせらぎを生む。
都市が見えたことで生まれた余裕と大自然のリラックス効果で足取りは軽かった。
日が落ち辺りが薄暗くなった頃には、森を抜けて本格的な岩山地帯を進んでいた。
手頃な洞窟を見つけて野宿の準備を始める。星を観察する際もよく野宿をしたので、ラピスの手際は良かった。
焚き火を起こして食材を煮込むラピスの隣でアキラが四肢を投げ出す。
薄い酸素にも徐々に慣れ、視界もクリアになっている。前半の辛さが嘘のようにラピスの体は軽かった。
簡単なスープを食べ終え、パチパチと爆ぜる火を無言で見つめる。
体が弛緩し瞼が落ち始める頃、耳がある音を捉えた。
獣の唸り声である。
「ラピス……聞こえたか、今の」
「あぁ。洞窟の中じゃない。外から聞こえた」
思い出されるのはライザの忠告だ。岩山には竜が住み着いているからくれぐれも気をつけるようにと、再三言われた。セルタから最も近い場所にいるにも関わらず、アズリカの司祭が片手の指で足りる程しかいないのは難関な道を攻略できなかったためだ。その最たる要因が、人も動物も見境なく襲う竜だった。
急いで火を消し慎重に周囲を伺う。
有り得ないほど静かだった。風は吹かず虫は鳴かず動物の気配もない。だが獰猛な唸り声は確実に聞こえる。
間違いなく近くにいる。左右交互に視線を飛ばすが竜の姿は確認できない。
ふと、猛烈に嫌な予感が背筋を駆け巡った。
「……!上だ、アキラぁ!!」
隣で一緒になって様子を窺っていたアキラの首根っこを引っ張って、全力でその場を離れる。次の瞬間、荷物を置き去りにした洞窟が瞬く間に崩壊した。
一歩遅ければバックパックと心中する羽目になっていただろう。
ホッと安堵の息をついたことを責めるように、耳を劈く雄叫びが夜の空気を切り裂いた。
本能的に耳を塞ぐ。しかし這うように頭に絡みつく叫びに足から力が抜けた。
「ラピスっ!」
腰を抜かす寸前で踏みとどまったアキラがこちらに手を伸ばす。友の声に目を開けたラピスが見たのは、友の姿よりも圧倒的な存在感を放つ爪だった。
「ぁ……」
死ぬ、と確信する。展望台から落下した時よりも濃厚に感じる死の気配に、迫り来る爪が遅く見えた。体は縫い付けられたように動かない。ピタリと首に鋭い鎌が宛てがわれたように、一ミリも動くことができなかった。
大きく見開いた瞳を抉るように凶悪な爪が迫る。
スローモーションのような世界の中で、自分の頭が弾け飛ぶ瞬間を否応なく確信した。
風が巻き上がる。同時に、迫っていた鈍い銀色が弾かれるように消えた。
代わりに見えたのは、目を惹き付けられる艶やかな緋色の長髪。白い衣が翻り、柔らかい風からは微かに花の香りがした。
尻もちをついたラピスの前に立ち竜を退かせた人物が、無事を確かめるようにこちらを見下ろした。
ドクン、と。目が、頭が、心が、釘付けになる。アズリカに会った時よりもはるかに大きい衝撃だった。
胸が切ない痛みを訴える。探していた星に会えた気がして、ラピスはその人から目が離せなかった。
「怪我はありませんか?」
澄んだ声に辛うじて頷く。やんわりと目元を和ませた少女は、赤い髪を風に遊ばせて再び竜と向き合った。
身の丈ほどもある巨大な斧を掲げ、冷然と言い放つ。
「哀しき竜よ。あなたが滅ぼしたい相手はここにはいません。即刻、ここから立ち去りなさい」
言葉を理解したのかもう一度唸り声を上げた後、竜はどこかへと飛び去っていった。
小さくなっていく竜をしばらく見送っていた少女は、斧を光の粒子に変えて消すとラピスに視線を合わせるように膝をついた。
「恐ろしい竜は去りました。もう安心して大丈夫ですよ」
未だに腰が抜けているラピスに駆け寄ったアキラが、何度も少女に頭を下げた。
感謝の言葉を何度も繰り返すアキラを見て、彼女の木漏れ日のような瞳が細くなる。
「ここを通るということは、あなた方は『貞潔』の眷属の司祭なのですね。リズィグルはもう目と鼻の先。案内しますので、着いてきてください」
白い手を差し出されおずおずと握る。ゆっくりと立たされて、頭一個分下にある少女と目線を交わした。
「あの、助けてくれてありがとうございました。君の名前を聞いてもいいですか?」
緊張のあまり、英語を訳した日本語のように形式的な言葉になってしまった。
身を硬くしているラピスを安心させるように、少女は春のような微笑を浮かべる。
「私は……リー……リー……リーシャです。各地を放浪している流浪人です。それと、敬語は結構ですよ」
偽名なのだろうか。名乗る際に悩む素振りを見せた命の恩人に、偽名でも構わないと頭を下げる。
リーシャの案内で進む岩山は、まるで場所が変わったかのように穏やかな気持ちで進むことができた。