竜の牙、王の都
日が沈み、星が主張を始める空を一人の少年が横切りに移動していた。
どこに行くのか。何を目指すのか。金切り声を上げる心を持て余した少年に分かるはずもなく、眼下の景色は目まぐるしく変わっていく。
空が完全な暗闇に包まれた頃、ようやく落ち着きを取り戻したラピスは力なく地面に降り立った。
こちら側の世界に来て初めて目にする荒野の真ん中で、崩れ落ちるように頬を地面につける。
このまま消えてしまいたいと何の前触れもなく思った。空から降り注いだ雨のように溶けて消えてしまいたいと。
どんなに体から力を抜いてもこの身が地面より下に沈むことはない。ラピスが間違いなく生きている証明として、石が刺さった頬に血が滲んだ。
アズリカから話を聞いても依然として記憶は戻っていない。
それでも、胸にぽっかりと開いた大穴は拡大を続け、虚闇となってラピスを飲み込もうとする。
うつ伏せだった体を仰向けに起こし、一等星に負けじと輝く三等星を見つめる。あの星々の中で今も赤髪の少女神が戦っていると思うと、どうしようもない罪悪感が頭の中をグチャグチャに掻き乱す。
「……ごめん……」
無意識のうちに零れた謝罪。言わずにはいられなかった懺悔。
この言葉を伝えたい人はたくさんいる。いると分かっているのに、実際に誰に伝えれば良いのか分からない。
ラピスは被害者だと、きっと誰もが口を揃えて言うだろう。誰も悪くないから月に全力で対抗するのだと。
そんなわけない。そんな甘言で許されていいはずがない。
ラピスに神に至れる資格が少しでもあったなら防げたはずだ。平穏を願い戦い続けた少女に対し『忘却』という結末を叩きつけることはなかったはずだ。
視界が黒に染まる。
閉じた瞼の奥で水面のように揺らめく笑顔が見える。この世の何よりも儚く、気を抜かなくてもすぐに消えてしまいそうな笑顔が。
覚えている。リーシェが異世界へ逃がした魂は、彼女との日々を、友との冒険を確かに覚えている。
忘れているのはラピスの頭だ。どんな難問も簡単に解いてきたこの頭はいつも肝心な時に大切なことを忘れる。
アキラのこともそうだ。
妹のために生きてきた彼が一刻も早く帰りたがっているのは知っていた。
━━━知っているつもりでいた。結局のところ何にも知らなかった。アキラの焦燥も恐怖も孤独も。
アキラは馬鹿じゃない。アキラはずっと気づいていた。自分がこの世界でたった一人異物であることを。
どんな恐怖だろう。今までの常識が通用しない世界にいきなり放り出されるのは。
どんな恐怖だろう。関わっていたはずの親友が別世界の住人だった事実を知るのは。
どれほど恐ろしいだろう。いつ帰れるとも分からない状況で肉親の様子が何も分からないのは、
漠然とした恐怖ほど心を叩きのめすものはない。気持ちを暗くさせるものはない。
馬鹿なのはラピスだ。知識だけは一丁前のガキは自分の方だ。アキラに甘え、アズリカに甘えていたのは自分の方だ。
無知で愚者で道化だったのはラピスだった。
「ごめん……」
何も知らなかった子供はただ謝ることしか出来ない。
「ごめん……」
誰も聞き届けない謝罪を繰り返す愚者は泣く資格などないと唇を噛んで涙を堪える。
「ごめん……」
一人手のひらの上で踊らされていた間抜けなピエロは、今だけは涙の仮面をつけることが出来なかった。
不意に。
風が止んだ。ラピスを撫でるように吹いていた夜の微風が不自然に途切れて、代わりに獰猛な肉食獣の唸り声が響く。
目元を隠していた腕をどかせば、開けた視界に見覚えのある怪物が佇んでいた。
紫黒の鱗。唾液が滴る牙は空腹の証。
白銀の爪が顔のすぐ横に突き立てられる。触れた耳が少しだけ切れてチクリとした痛みを自覚した。
力なくくしゃりと笑いかける。
「……また、会ったな」
二度目の邂逅。一度目は司祭として正式に認められるための試練の最中だった。この爪が眼前に迫って死を悟った瞬間にリーシェが助けてくれた。
恐怖と驚愕に彩られた記憶を思い起こし、二度目の邂逅ではそれらがないことに気づく。
感傷的になっていたからか、横に裂けた口から垂れる唾液がまるで泣いているように見えた。紫根の瞳は静かにラピスを見定めている。
こんな小さい人間一人食い散らかしたところで腹は膨れないだろう。
そんなことを冷静に考えていると、目の前で顎が大きく開いた。
無茶な飛行移動のせいで満足に動かない体はあっという間に巨体に覆われる。
何十本もの牙が無秩序に体を貫く。避けようのない未来を確信した時、横たわっていた体が浮遊感に包まれた。
気がつくとラピスは空にいた。
服の襟を竜に咥えられて竜の気の向くままに移動中だった。
驚きすぎて声も出ない。獲物を巣穴まで連れ帰って保存食にする習性でもあるのだろうか。リスじゃあるまいし空駆ける竜がそんなケチなことはしないと考えを改める。
突風のせいで不安定な体勢で煽られること十分。
視界の奥に都市が見えてきた。近づけば近づくほどはっきりと見えてくる全貌に息を呑む。
それは遺跡だった。
栄えていた時は世界の中心だったと言われても疑わない立派な城が、荒廃した都市の中央に残されていた。その光景はまるで、国民に見放された王のようであり、王に見捨てられた国民のようでもあった。
「あれは……まさか!」
声を出した瞬間、竜の牙から乱暴に投げ捨てられた。高度二キロの上空から為す術なく体が落下していく。落ちていく先には取り残された王城があった。
「……ぁ」
悲鳴でも絶叫でも悪態でもなく、掻き消されてしまいそうな小さな声が漏れる。
魂のどこかに残っている記憶が無視できない既視感を訴えていた。
既視感の正体を突き止めるより早く、ラピスの体が石畳に叩きつけられそうになる。
動かない足。尽きた体力。何も出来ず死を覚悟した時、出してもないのに『知』の本が虚空に飛び出た。激しくエメラルドグリーンの光を放ち、呼応するように都市の地面全体が淡く明滅する。
一体何が起きたのか現時点では何も分からないが、こんな思考ができている時点でラピスが生きていることはすぐに分かった。
眩しさで閉じた目を開ければ、今日何度目かわからない驚きに見舞われる。
都市が繁栄していた。
ラピスが電池にでもなったかように、止まっていた時計が時を刻み始めたように、文明が息ずいていた。
人はいない。王もいない。けれど都は勝手に身支度を整える。割れた地面がくっつく。原型を留めていなかった建物たちは次々とあるべき姿を取り戻す。
ともすればそれは、主の帰還を歓迎しているようにも見えた。
唖然と尻もちをつくラピスの前に竜が降り立つ。なんの感情も宿さない獣の目はじっと赤い本に視線を注いでいる。
もしかして、と竜が言いたいことを察した。
「『知』の力とこの都市……『ラズリ』は何か深い関わりがあるのか?俺の生まれ故郷という点以外でも、俺と結ぶ何かがあるのか?」
竜の大きな口がゆっくりと開かれる。
【王都ラズリはお前と『知』の力があってこそ富と繁栄を築いた場所。お前がいなくなった後、王都の滅亡は阻止できない結末だった】
聞こえたのは青年の声だった。軽やかな声音に敵意はない。何が目的でラピスに情報を与えるのか。そんなこと些事に思えるほど、竜の言葉は興味深かった。
【知りたければ進むといい。何もかもを見失う前に。何もかもが消えてしまう前に。過去の自分くらい知識として知っておくんだ】
竜はそれだけ言って天高く飛び去ってしまう。
移動と会話の間に多少は回復した体力で付与をかけ直すと、走るよりもずっと早いスピードで導かれるように王城へ急いだ。




