リーシェとラピス
思い出すのも忌々しいあの出来事。それは実に三千年も昔の話。しかし決して忘れることができない後悔の思い出。
まだ現在の眷属がただの人間だった時の最悪の事件。
約三千年前。世界には唯一絶対神がいた。『技』と『知』を司る者が夕暮れの夜明けに誕生するという、嘘みたいな伝説と一緒に語り継がれた幽霊のような神が。
この世界の神とは最初から全知全能の存在として在るわけではない。数百年に一度、反転現象と共に伝説の力を宿した普通の子供が生まれ落ちる。幸せな家庭を築こうとした。或いは子孫繁栄を願った親から産声を上げて誕生する。
彼女もそうだった。
彼女の名はリーシェ。リーシェ・フィリアル・アクレガリアイン。人間の旅人と魔人族の王族がすべてを捨てて授かった愛の結晶。誰も踏み入らない深い森の奥の小さな家で、リーシェは幸福な人生を歩むはずだった。少女の身に『技』の力さえ宿っていなければ、この物語は何もかもが変わっていただろう。
そしてもう一人。この物語で紡がなければならない人物がいる。
彼の名はラピス。ラピス・ラズリ。四つの大陸のうち人間が多く暮らす『西の大陸』の最も発展した王都の王子だった者。宿した力は『知』。大陸最大の文明都市として都市を栄えさせた齢十四の少年。自由のために。愛のために。喜んで身分を追放された星好きの少年。
伝説の力は本来『知』も『技』も同じ人物に授けられる。しかし神の悪戯によって力は分かたれ、皮肉にも二人の少年少女の運命を結びつけることになった。
少女と少年は平穏な村で出会い、数々の苦難と冒険を乗り越えてやがて恋をした。
平穏に暮らしたいという少女の願いを少年は力の限り応援した。
自分を見失っていた少年の『死にたい』という願いを少女は否定し、生きる勇気と目的を見つけさせた。
多くの仲間、友を見つけて少女たちは『絶対神打倒』を目指して立ち上がる。イタズラに運命を翻弄する神に手を伸ばそうと踠き、足掻いた。
ようやくたどり着いた神がいる部屋であの事件は起きた。
当時、一人だけ姿が見えなかった少女が神として少年たちの前に立ち塞がったのだ。
そしてこう言い放った。「立ち去ってください」と。
世界に住まう生き物はすべて『世界のシステム』に管理されている。しかし一度システムの管理下から外れれば世界の異物として認識され、関わった者から記憶を奪われる。
少女は一度死んでいた。回復できない怪我を負い心臓が止まった。しかし、リーシェを虐げることでしか愛することができなかった育て親の女性が成し遂げた奇跡で再び息を吹き返した。
その時点で既に、リーシェの『神格化』は始まっていた。
試練に立ち向かい運命を乗り越えた者が次の神に選ばれる。この世界における神とは、努力し続けた人間が無理やり統制者に召し上げられること。望んだい平穏に絶対に手が届かない高みの椅子へと縛り付けられること。
ラピスが神に選ばれなかったのは、リーシェの方が神に近い存在に至ったから。たったそれだけの理由で、平穏な暮らしを願った少女は孤独な永遠を約束された。
蘇生し『世界のシステム』から弾き出されたリーシェ。自覚した神の力によって、親しい者から記憶が奪われることを食い止め続けたが、連れ戻そうとした少年たちとの戦闘の結果その制御は途切れてしまった。
リーシェの目の前でリーシェが愛した者から思い出を取り上げられ、剣を突き立てられた。最悪のタイミングだった。
神になった少女は鋼で貫かれた程度では死ねない。だが精神は危うくなり、正常な判断は難しくなる。既にその時には、戦いに加わっていた七人の戦士たちは魂の眠りについていた。そのうちの六人が現在の眷属である。
記憶を奪われずにいたのはアズリカだけ。
リーシェのスキル『異世界転移』によってラピスは別世界へと移され、アズリカは少女と『ある約束』をして魂の時間を凍らせた。
リーシェは自身の体を氷の棺に閉じ込め、直接の会話が必要なやり取りは限りなく本体に近い思考のホログラフに任せた。
リーシェが月を破壊しようと躍起になるのは、ただ平穏に暮らしたいから。その平穏にはラピスがいなければならないから。システムの介入なんてなかった少年が隣にいて欲しいから。
もう自分のような孤独を他の誰にも味合わせないために。
リーシェが調律神として君臨して三千年。次代の神候補が生まれなかったのは、『伝説の存在』のサイクルを管理していた月から権利をもぎ取ることに成功したからだ。だが代わりに生まれるはずだった『伝説の存在』に授けられる力はすべてリーシェへと集積された。
膨らみ続け自我を奪いかねない『神性』に抗うために、リーシェの本体は今も眠り続け『神性』を焼滅させる業火に包まれている。
「俺たち眷属は、魂を仮初の体に閉じ込めることで行動を成立させている」
これまでの戦いで奪い取ったのは、『伝説の存在』の管理ともう一つ。レイラ。グレイス。シュウナ。ゼキア。キリヤ。キルス。この六名が死んだ事実そのもの。
一度息を止めた体では魂を囲うのに不十分。だからこそ、リーシェはいくつものスキルを併用して『檻』を用意した。守るために。消えて欲しくないから。協力を得ようと考えて。
月自体は六名の魂を回収したことを認識していない。その認識ごとリーシェが回収した。しかし六つの魂は自覚している。「自分は既に死んでいる」ことを。その矛盾が『ノヴァ』との相性不利の状況を作り出す。
もう一度死んでしまえば今度こそ六人は死ぬ。取り戻すことができなくなる。厳重にプロテクトがかけられ、最悪の場合即刻抹消される。
死ななくても矛盾を抱える魂に付け込まれて、思考を管理される可能性もある。
「リーシェが『ノヴァ』との戦いに眷属ではなく司祭を駆り出したいのは、同士討ちの結末を避けるためだ。仮に眷属が六人全員が月に操られた場合、その時点で月の破壊は不可能に近くなる。彼我の戦力差が圧倒的になってしまうからだ」
すべてを思い出させるつもりでアズリカは語り続けた。思い出してすぐに殴り飛ばせるように拳を握りながら。
本当は今すぐにでもボコボコに殴りたいくらいだ。それでも堪えているのは、ラピスが何も悪くないことをちゃんと理解しているから。
明確な悪は月であり、ラピスは被害者だ。
しかし最終的に殴るのはそうしないとアズリカの溜飲が下がらないからだ。こればっかりは理屈じゃない。男と男の約束に則ってラピスの澄まし顔を不格好にする。いっそ見るに堪えない面を晒してリーシェに嫌われればいい。
大真面目な顔で物騒なことを考えているアズリカには気づかず、ラピスはしばらく考え込んだ。
話で聞いても実感は湧かないのか。それともありすぎる心当たりに戸惑って逆に冷静になっているのか。
意外にも落ち着いた様子でラピスは俯けていた顔を上げた。
「事情は分かった。お前がなんでいつも俺を気に入らなそうに見てたのかも分かった。無事に記憶が戻ったら誠心誠意この顔を貸すとして……」
アズリカの思考は読まれていたらしい。
「なら、急がないとな」
ラピスが寝台から離れる。
動かないはずの足はフワフワと宙を浮いていて、彼の体をそよ風が優しく撫でている。
「スピリチュアル・エンチャント『エアリエル』。とりあえず、風の精霊に力を借りて移動の問題点は解決した」
何てことのないように言っているがアズリカは困惑した。この世界には神がいるだけで精霊など存在しないからだ。
「俺はこれからアキラを探しながら記憶を取り返す糸口を見つけに行く」
「え……ちょっ、待っ」
制止も虚しく空いていた窓から出ていってしまったラピス。らしくない性急な行動に戸惑うばかりだ。
追いかけようとしたアズリカに窓際に立っていたキルスからストップがかかった。
「今は一人にして差し上げた方がよろしいかと。平然としているように見えて、存外ショックを受けていたようでしたので」
アズリカからは背中しか見えなかったラピス。窓際にいたキルスは出ていく直前の少年の表情を見て思うところがあったらしい。
アズリカは茫然とラピスが消えた空を見上げることしかできなかった。




