岐路
アキラにとって人生で最も幸せだった日。「あなたの妹よ」と亡き母が見せてくれた小さな赤ん坊を抱いた日。温かくてフワフワで力を入れたらすぐに壊れてしまいそうな妹は、その日からかけがえのない宝物になった。
フニャフニャと笑う姿も泣く姿も可愛くて、友達よりも妹を優先することが多かった。
母は体が弱く妹が三歳になる頃に肺炎に罹ってこの世を去った。
母の死以来、母を溺愛していた父は魂が向けたようになり次第にアキラたちのことすら視界に入れなくなった。ある日突然父はいなくなり、何の予告もないまま妹と二人きりの生活が始まった。
両親ともに親戚付き合いはなく、枷になるだけの兄妹を引き取る人間なんていなかった。
一時的に施設に預けられ、アキラが中学に入学すると同時に狭いアパートに引っ越した。施設に居座り続けなかったのは、妹が施設での暮らしに馴染めなかったからだ。
母ほどではないが体はそこまで強くなく、気弱な性格でいつも影で虐められていた。だから施設から金を家賃を借りる形で住処を変えた。
妹の小学校の教材費。アキラの中学校の教材費や、生活費、食費、光熱費……支払わなければならないものは多く、自分の力で払えるものは何も無かった。
せめて高校で掛かる金は最小限に抑えようと、妹の面倒を見ながら毎日机に齧り付いた。教師から良い評価を貰いやすくするには媚びた笑顔も必要になってくる。疲れた頭で無理やり明るい笑顔を浮かべて、アキラの心は磨り減っていった。妹だけが支えだった。
一度針でつつかれれば何もかも弾け飛んでしまいそうな日々の先で、アキラはラピスと出会った。
最初は短い問答だけだったが、人間関係に疲れていたアキラは淡白なラピスの言葉がちょうど良かった。一方的にアキラがラピスに話しかけることもあれば、向こうの気まぐれで会話が始まることもあった。
いつの間にか同じ机を囲うのが当たり前になり、アキラに初めて妹の他に大事な者ができた。
ラピスがいなければきっと成し遂げられなかった、奨学金での高校の入学。授業に遅れないように予習と復習を欠かさず、バイトもいくつも掛け持ちした。
辛いと思った時、郊外の展望台に行けばいつも決まってラピスがいた。星の下でなら、ラピスは年相応の少年になっていた。
目の下に隈を作れば「妹が心配するぞ」と甘い食べ物を奢ってくれた。
思うような結果が出なければ「そんな時もあるだろう」と思い詰めすぎないようにしてくれた。
アキラにとってラピスは突然現れた光であり、いつの間にか寄り添ってくれている影だ。
頑張っているアキラに神様が優しい悪戯をしてくれたのだろうと、少しだけ考えたこともある。
そして今。
妹か。親友か。アキラは決断を迫られていた。
目の前で静謐な笑みを作るライザの顔と、差し出された手を交互に見る。
状況に置いてけぼりになりそうなアキラにライザは歌うような声音で言った。
「私の手を取れば、あなたはこの世界で最も早い手段で元の世界に帰れます。ただし、振り払えばあなたの望みはどんどん遠くへ遠ざかっていく」
「……!一つ、聞いてもいいか」
「えぇ、どうぞ」
「お前の手段は誰も犠牲が出ないか?」
上手い話には必ず罠がある。大人に騙されることが一番恐ろしかったアキラにとって、この確認は自然と口から出た。
「その問いの答えはノーです。確実に犠牲は出ます。ただし、あなたが好ましくない方が少々傷を負う程度ですけどね」
「好ましく、ない方?」
「主神リーシェ。あの神は胴体が泣き別れになった程度では死にません。この世界から主神以外の方法で出るのですから、管理者にダメージが及ぶのは避けられないことです」
リーシェ。謎と隠し事が多い少女神。穏やかに笑うのに底知れない闇を感じる、不気味な管理者。ライザの言う通りアキラはあまり彼女のことが得意ではない。どちらかと言うと嫌いである。
だがだからといって、故意に傷つけて良いはずがない。
ライザの提案を却下しようと口を開いた途端、出そうとした言葉は次のライザの忠告によって遮られた。
「本当に拒絶していいのですか?時にアキラさん、あなた時間の流れについて考えたことあります?」
「どういうことだ?」
「あなた方が転移してから一ヶ月以上が経過しています。もしも時間の流れが同じであれば、向こう側も等しく一ヶ月以上時が経っていることになります。あちら側にいるあなたの大切な人は、果たしてどうなっているのでしょうね」
ゾワリと今までで一番の寒気が走った。
冷や汗が背中が幾粒も流れ、歯がカチカチと音を立てる。
一ヶ月以上姿を見せない兄。世間はきっと失踪または自殺と考え、肉親がいない妹は一人どこかの施設に飛ばされるのだろう。大きくなるまで育ったら、妹に求められるのは多額の借金だ。
時間の流れが同じとは限らない。
もしも妹の方が早かったら?今頃数年が経ち借金地獄に苦労しているかもしれない。
もしもアキラの方が早かったら?歳を取った姿で会いに行ったとして妹はアキラを認識できないのではないか。
最悪の想像がいくつも頭を過ぎる。どの想像も結末は苦しむ妹の泣き顔だ。
一気に平常心を失ったアキラにライザはニコリと笑いかけた。
「さぁ、決断を」




