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知恵者の書物

 念話で意思の疎通を図ってきた眷属キルスは、赤く光る瞳を妖しく輝かせた。その目はまるで獲物を見定めた猫のようであり、ラピスに少しの恐怖心を抱かせる。


 半ば強制力のある問いかけに答えることができずにいると、眷属は勝手に話を進めた。


「実はわたくし、世間一般には"ルシャ"という名を名乗っております。ですがまぁラピスさんは世間一般の括りには該当しませんので真名を明かさせていただきますね?」


 何の話の前置きなのかキルスは、ラピスは特別だとでも言うように言葉を紡いでいく。問いかけるような口調はどうやら彼の癖なようで、実際に賛否を問うているわけでは無いことを悟った。


「あまり警戒なさらず肩の力を抜いてください。アズリカさんがあなたに教えない秘密のお話、聞きたくはありませんか?もしかすると、その頭痛も少しはマシなるかもしれませんねぇ」


「……結構だ。アズリカが俺に話したがらない話題を、まだ信用のない人物から聞く気は無い。それに初対面だが俺はお前が嫌いだ」


 口にはせず、念じるようにして相手へ回答を告げる。ラピスからの念話を受け取ったキルスは、はて…と首を曲げた。


「わたくし、ラピスさんに嫌われるようなこと何もしてませんが。……少なくとも今は」


「後でするつもりだったのか?」


「いいえ?今も先も致しませんよ。わたくしが言っているのは過去の事です」


 激しく興味をそそられる話題に無意識に眉がピクリと震える。目敏くラピスの反応を見つけた眷属は笑みを一層深めた。


「興味、湧いてきました?」


 これはマズイと焦りを募らせた。完全に相手のペースに乗せられたようだ。

 理性と欲求の狭間で頭を抱えていると、不意に念話が音を立ててブツリと切れた。焦点が合っていなかった視界を回復させてキルスを見ると、真紅髪の少女が平手で彼の後頭部を叩いているところだった。


 リーシャとよく似た色合いだが、彼女より顔つきが少しだけ鋭い。赤髪もリーシャより若干暗く、瞳は森の湖畔のようであった。


 キルスを引っぱたいた少女がじっとラピスを見つめる。心の奥底まで見透かしそうな不思議な虹彩に無意識に背筋が伸びる。

 ガチガチに緊張したラピスに興味を失ったのか、湖畔の双眸は横のアズリカへ向けられた。


「おいアズ坊。ぬし、此奴のことはちゃんと見張っとらんか。今もそこな小僧とコソコソ密通しておったぞ」


「ソイツには後で主神から罰が下るだろうから、あと二十回くらいの往復殴りで許してやってくれ」


 二十回も往復で殴ったら実際は四十回殴られたことになる。

 たった一撃でも机に頭をめり込ませているキルスに待ち受ける運命はあまりにも厳しいものだった。


 それをなんの躊躇いもなく告げるアズリカと実行しようとする少女に、ラピスとアキラの顔が青くなる。


 サンドバッグを金属バットで殴り付けたような鈍い音がしばらく響く。目の前で起こっているだろう惨状を視界に移すほど、まだラピスの肝は据わっていなかった。


 俯いてやり過ごしていると、驚いたことに再びキルスから念話が飛ばされる。殴られている最中だと言うのに……『忍耐』とはそういう意味だったのだろうか。

 ラピスのくだらない思考は次の瞬間吹き飛ぶことになる。


「ラピス、お前はあの場所へ行くべきだ。主神に滅ぼされ今は現存する最古の古代遺跡となっている"ラズリ"に。お前には原点を目にする資格と義務がある」


 間延びした口調でもなければ、問いかけるような口調でもない。殴られている顔に笑みは浮かんでおらず、真剣な眼差しは藤色を帯びていた。不思議な事だが、今の彼の言葉なら信じても良いような気がして。それ以上に"ラズリ"を見たいという衝動が湧き上がって。

 ラピスは堪らず待機していた円卓の間から走り出した。


「おいラピス!?」


「待て!今はダメだ!!」


 呼び止めるアキラの声と気になるアズリカの制止を振り切って、ひたすらバベルの階段を降り続ける。途中で面倒になって咄嗟に窓から身を乗り出した。

 そこは地上三十メートル以上の高所。飛び降りれば生身の人間ならば即死。そうでなくても大して鍛えていない司祭でも重症を負うだろう。


 だが……見えない糸に導かれるように身は宙へと踊り出す。重力に逆らわずまっすぐ落ちていく体。風に激しく叩かれた髪が顔に当たって痛い。


(できるだろ!俺はできるはずなんだ……!)


 目の奥を焼かれるような、抉られるような。

 頭の中を棘のついた虫が這い回るような、脳を締め上げるような。

 光の細い光線が心臓を焼き貫いたと錯覚した体が激痛の悲鳴を撒き散らす。

 歯を食いしばったのは僅か一秒。目を血走らせ、暁へ変わった双眸を空の遥か向こう……欠けることのない満月へ向ける。


 訳の分からない怒りと胸を掻き毟りたくなる悲しみを力に変えて、ラピスは血を吐くように叫んだ。


「"スペースエンチャント エアリエル"!!」


 地面から風が吹き付ける。叩きつけられる寸前だった体は見えない布団にキャッチされ、ラピスの足はフラつきつつも無事に地面を得た。激痛の余韻に状態を揺らしていると、不意に左手に重みを感じた。


 赤い本だった。


 分厚いくせに、ページはどこまでも真っ白。印字を忘れた広辞苑のようだ。表紙にも題名はなく、装飾があった場所には窪みがあるのみ。

 とてつもない懐かしさが目尻に雫を作る。手に馴染む本をそっと閉じると、目に映った窪みに寂しさを覚えた。


「伏せろ!!!」


 感慨に浸っていたラピスを現実に引き戻したのは、男の大きな叫び声だった。本能的にしゃがみ込んだラピスの頭上を見覚えのある白い物体が弾丸のように吹っ飛んでいく。塔の壁にぶち当たって落ちたソレは、ちょうど問題になっていた『ノヴァ』だった。

 バベルに傷一つついていないことを視認しつつ、後方に目を向ける。


 キリヤと対照的な漆黒の着物が良く似合う青年だった。キリヤは髪を下ろしていたが、彼は高い位置で一つに結んでいた。目つきは悪いが、すぐ下にある三本の切り傷のおかげで猫のようにも見える。


 青年は抜き身の刀を鞘に収めると、スラリとした白い腕を伸ばしてラピスの胸ぐらを掴んだ。

 程よく筋肉がつき血管が浮いて腕が羽織の裾から肘まで覗く。蜂蜜色の瞳は矢のように細められていた。


「お前……」


「……首が、苦しいんだが……」


 控えめに訴えると乱暴に手を離された。しかし息つく暇もなく叱責が飛んでくる。


「お前、今がどんな状況が分かってんのか?テメェにほいほい出歩かれると困んだよ。テメェが見てぇことも知りてぇことも会議が終わったら全部知る機会が来る。それまで大人しく椅子に座ってやがれ」


 首根っこを引っ張られてズルズルと引き摺られる。せっかく飛び出してきたのにまた戻されそうになっている状況に、少年は講義の声を上げた。


「俺がどこに行こうとお前には関係ないだろ!?」


「はぁ?馬鹿な上にガキなのかテメェは?黙って椅子に座るって意味が理解できねぇようだな。なんなら椅子に座ってる方が楽な体にしてやろうか?」


 青年の左腕が鞘から刀を引く抜く。まさか足を斬り取られるのかと青ざめたラピスの耳に、別の何かが引き裂かれる音が聞こえる。視界の端を飛んだのはまたしても『ノヴァ』だった。


「『ノヴァ』こんなに出ちゃまずいんじゃないのか!?」


「チッ!だからテメェのせいだっつってんだろーが!!次々と面倒事起こしやがってクソが!」


 なんと言う言われよう。だが本当にラピスのせいなら青年の苛立ちも理解できる気がする。なぜなら振り向いた先には十体以上はいる『ノヴァ』が攻撃の矛先をこちらに向けているのだから。


「俺、なにか手伝えるか?」


「黙ってそこにいろ。付与も使うな。いいから黙ってろ」


 みじかい会話の間にもどこからか湧いてくる宇宙からの侵略者。

 恐らく眷属だろう青年は腕も立つだろうに凄まじい緊張感を発していた。そういえばアズリカが眷属にとって『ノヴァ』との戦いは危険だと言うようなことを教えてくれた気がする。もしや相性が圧倒的に不利なのだろうか。


 ラピスを守るように立った金髪の背中を見上げる。

 青年と『ノヴァ』がジリジリと距離を詰めていると、突然空から何かが降ってきた。


 土埃が舞い上がり、同時に青年の緊迫感が和らぐ。

 耳を塞ぎたくなるような悲鳴が響いて一瞬で静かになる。


 数回展開された閃光を繰り出した乱入者はゆっくりと土埃の中から歩み出る。その人物にラピスは固まり言葉を失った。

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