*** 80 青島嵐児 ***
大地はその日、いつもの通り伴堂ジムに行き、米軍兵士たちを相手に戦闘訓練を行った。
兵士たちの人数も、司令官の命によって大分増えて来ている。
また、どうやらアメリカ本国のSEALs部隊からの出張も増えているらしい。
このころになると、ジム裏のCQC訓練場のスタンドには、若い女性以外にも男性の姿も多く見られるようになっていた。
彼らはもちろん格闘技愛好家である。
自身が格闘家であったり、単に観戦するだけの者だったり、趣味はいろいろだったが、どうやら口コミでここでは本物の最強格闘が見られると知れ渡ったせいらしい。
その中に、秘書らしき者を連れた40代の男がいた。
大地の助役たちとも親し気に会話し、訓練中には異常ともいえる集中力で観戦している。
男の名は青島嵐児。
地元選出の衆議院議員であり、代々続く政治家の家系の4代目である。
曾祖父青島剛蔵は貴族院議員であり、戦後の公職追放で議員辞職したものの、その長男剛毅が戦後初めての衆議院議員選挙で見事当選を果たした。
剛毅が引退すると、地盤を引き継いだ長男剛太郎がまたも当選を果たしている。
この時代の政治家は自身の支持基盤への利益誘導に血眼になり、また、いわゆる金権選挙の時代にあって選挙のたびに札束が飛び交っていた。
特に、当時有権者の9%を占めていたという建設業界に利益を齎すために、のちに収賄罪で逮捕される首相自らが、『日本列島改造論』などというお題目の下に、日本中で無駄な公共事業が繰り広げられていた時代である。
だが、青島家は大変な資産家であった。
県内の市街地を取り囲む広大な山林を有し、金権選挙の中にあっても収賄の必要性の無い日本唯一の政治家と言われていたほどである。
『青島は贈賄で逮捕されることはあっても収賄で逮捕されることはありえない』
当時青島家を表して語られた言葉である。
特にこの3代目青島剛太郎の時代には青島家の資産が飛躍的に増えている。
青嵐市周辺の国道の渋滞のあまりの酷さにバイパス建設の計画が立てられたのだが、どこにどう建設しても青島家の所有地を通らずにはバイパスの建設が不可能だったのだ。
青島家は、もちろん地元貢献ということで用地買収に応じたが、より住民の少ない場所にバイパスが通されたため、国に売却した土地は、長さにして50キロ以上もあった。
そして、生真面目な剛太郎の唯一の趣味が都市計画だったのだ。
彼はこの新しいバイパス沿いの所有地に工業団地を造った。
それも工場排水や煤煙を出さない製造業専用の工業団地である。
そして、小さな山を挟んだ反対側、バイパスから山側に5キロ入ったところに、広大なニュータウンも建設した。
この青嵐ニュータウンは、希望すれば99年の借地権で借りた土地の上に家を建てられたために、一戸建ての価格が異様に安かった。
もちろん、青島建設が20種類もの住宅を工場で大量生産して現地で組み立てたために、建物も割安だったからである。
しかも、その後のモータリゼーションを見越した剛太郎によって、住宅地の地下には網の目のように自動車専用道が作られ、車庫も全て地下にあった。
もちろん、その車道トンネル内には巨大な換気扇が回り、当時画期的な集塵処理も為されているという徹底ぶりである。
地上部分は歩行者専用道路と自転車専用路に分かれていて、住民の安全には十分な配慮が為されていた。
目標は歩行者の交通事故死ゼロである。
丘陵地の底部には学校や病院、商業モールなどが誘致され、のちには単身者用や若い家族向けの高層マンションも林立するようになった。
標高の高い地域に住む住民たちのためには、1000円以上の買い物をするとゴルフ場用の電動カートが中心部から住民と荷物を運んでくれる。
運転するのは主に若い主婦や学生アルバイトだった。
さらに隣の工業団地や青嵐市への通勤には、当初は朝夕のバス便大増発でなんとかしたものの、遂にはモノレールまで通してしまったのである。
その都市景観は、特に住宅地の最高地点から見ると素晴らしく、海外の都市計画賞をいくつも受賞したほどであった。
青島家は、バイパス用地の売却では儲けたが、ニュータウン建設ではさほどに儲かったわけではない。
各種設備投資の負担が大きかったからであり、僅かに土地の分譲費の分がプラスになった程度である。
だが……
このニュータウンは、青島一族に決定的な利益を齎したのである。
美しい都市と職住近接の環境に満足している住民たちは、選挙のたびに自然に青島剛太郎に票を入れた。
つまり、金銭的な利益はさほどでなかったものの、青島家は最終的に50万人が暮らすニュータウンという巨大な票田を手に入れたのである。
剛太郎も、選挙期間中はもちろん毎日のようにモノレールの駅前や中央広場に立って選挙演説をした。
そのとき剛太郎はマイクもスピーカーも使わなかった。
自分が作った理想の街に騒音公害を起こさせたくなかったからである。
選挙期間の初日には肉声で懸命に演説する剛太郎の姿があった。
それが日を追うにしたがってガラガラ声になってくる。
投票日前などは秘書の差し出すハンカチを血に染めながら語っている。
そうした変化を毎日通勤する住民たちが見ていたのである。
もちろん野党候補も来て同じ駅前でスピーカーを使った演説も始めるのだが、怖い顔の住民たちに取り囲まれて『ウルサイ!』と怒鳴られ、すぐに涙目で帰っていった。
中にはそれでも演説を続ける図々しい候補者もいたが、そうすると高層マンションの屋上から『○○党候補○○ウルサイ!』『選挙演説ではスピーカーを使うな!』などという垂れ幕が下がり始める。
それでも止めないと、抗議の立て看板も林立し始める。
もちろんこれらは選挙妨害に当たるために、候補者たちは警察に通報するのだが、やはり地元住民が多かった警察官たちの対応もおざなりである。
実際に選挙が終わると地区ごとの得票数も公表されるのだが、野党候補者たちは、青嵐ニュータウンでの得票数ヒトケタなどという屈辱を味わって、次の選挙からは演説には来なくなった。
こうして青島剛太郎は6期連続で衆議院議員に当選し、しかも開票速報に於いては開票開始から5分以内に『当選確実』が出続けるという快挙を成し遂げたのである。
この剛太郎は、歳をとってから生まれた長男を嵐児と名付けた。
青島嵐児。略して青嵐である。
政治家一族として、この4代目にも期待は非常に大きかったのだ。
初代剛蔵は逓信大臣、2代目剛毅は厚生大臣、3代目剛太郎は通産大臣の要職を占めたが、青島家の悲願は内閣総理大臣を出すことにあった。
だが……
この4代目青島嵐児の興味は政治には無かった。
甘いマスクでありながら誠実そうなイケメン、加えて地盤も鞄も看板も持ち、プリンスと呼ばれる彼の興味は、すべて軍隊と格闘技にあったのだ。
いわゆるミリオタ、格闘オタである。
『東大か早慶に受かったら東京での下宿を認めてやる』
親にそう言われた嵐児は懸命に勉強し、青嵐高校から本当に東大法学部に合格してしまった。
なにしろ、ジェーン年鑑(註:日本語版は無い)を読むために、小学校高学年の頃から家庭教師をつけてもらって英語を勉強していたほどの男だったのだ。
そうして、下宿先を秋葉原のマンションにしたのである。
因みに卒業後のことも考えて、賃貸ではなく購入にしてもらっていた。
電気街には歩いて行けたし、後楽園ホールにも市ヶ谷の自衛隊本部にも横須賀の海上自衛隊基地にも習志野の陸上自衛隊駐屯地にも1時間以内で行けたからである。
大学在籍中に訪れた自衛隊の基地祭、駐屯地祭は合計で50か所に及んだ。
後楽園ホールには200回行った。
潤沢な小遣いでラスベガスにも行った。
もちろんMMAなどのタイトルマッチを見に行くためである。
だが、嵐児はカジノなどのギャンブルには目もくれなかった。
彼の持論は、
『格闘技に番狂わせ無し』
『格闘技では強い者が勝つ』
だったので、運の要素が大きいギャンブルは好まなかったのである。
そうして、東大卒業後は父剛太郎の秘書として働いていたのだが、25歳のときに不幸にも父剛太郎が脳溢血を起こして倒れてしまう。
その結果、半身麻痺と言語障害が残ったために、議員辞職を余儀なくされた。
そうして嵐児26歳の冬、初めて衆議院議員選挙に立候補することになったのである。
このとき、父と同じようにニュータウン中央広場で選挙演説をする嵐児の横には、驚いたことに車椅子に乗った父剛太郎がいた。
剛太郎は、寒風吹きすさぶ中でもドテラを身にまとってずっと座っていた。
早朝から10時までと、夕方4時から6時まで選挙演説を続ける嵐児の横には、常に剛太郎が居て、黙ってにこにこしながら道行く人に手を振っていたのである。
10時から4時まで嵐児が青嵐市内で選挙演説をするときには、毎日は同行しなかったが、それでも2日に1回は横に座ってやはりにこにこと手を振っていた。
この姿を見た青島家後援会婦人部隊の面々は号泣した。
そうして、彼女たちも毎日数百人が嵐児と剛太郎の後ろに並んだのである。
もちろん泣きながら『なにとぞ青島嵐児をお願いいたします』と体を90度に折って連呼するのも忘れていない。
その言葉も涙声のせいであまりよく聞き取れなかったが……
おかげで選挙期間中の青嵐ニュータウンでは、コンビニやスーパーの弁当の売り上げが凄かったらしい。
主婦たちが選挙運動で疲労困憊になるため、夕食はお父さんたちも弁当で我慢させられたのである。
また、カイロや腰に貼る大判シップの売り上げも凄かったそうだ。
コンビニとスーパーは、選挙が始まると弁当やカイロや湿布薬を大量入荷するようになっている。
この凄まじい選挙活動は、当然全国区のニュースにもなっていた。
そうして、全国的な関心を集めた選挙の結果、嵐児はニュータウンの有効投票数のうち99.8%の得票を得、選挙区全体でも90%の得票率という驚異的な結果で当選したのである。
選挙区の投票率まで全国1位の座を勝ち取ったほどであった。
こうして嵐児は26歳から衆議院議員として働き始めたのである。
東京での議員事務所はもちろん、永田町や麹町などではなく秋葉原に置いた。
意外なことに嵐児は真面目に働いた。
永田町や霞が関での雑巾がけも厭わず、国会閉会中はそれなりに地元にも帰って後援会の会合にも顔を出した。
なにしろ衆議院議員であるおかげで東京で暮らせるのである。
後楽園ホールや横須賀基地、習志野駐屯地に行く回数は減ってしまったし、日本全国の基地祭や駐屯地祭やラスベガスに行ける回数はもっと減ってしまったが、嵐児はへこたれなかった。
そう……
嵐児には野望があったのである。
それはもちろん青島家や後援会の望む将来の内閣総理大臣などではなく、防衛大臣になることだったのだ。
有力後援者の美人の孫娘と結婚もしたし、子供も生まれた。
浮気もせずに家族との時間も大事にした。
また、父から引き継いだ秘書団も、大いに嵐児を助けた。
なにしろ秘書として10年以上真面目に働いていると、市議会議員や県議会議員選挙で青島家の後援を得られるのである。
おかげで元青島家秘書の市議会議員や県議会議員は合計で12名もいた。
かくして青島一族の影響力は盤石になっていったのである。
そして当選を重ねること5回。
青島嵐児は、開票開始から1分で『当確』の出る選挙戦を続けた結果、ついに防衛大臣になって初入閣することが出来た。
首相から防衛大臣就任の打診が来た時、嵐児は号泣して喜んだという。
ただ……
かつて剛太郎の第1秘書であり、今は嵐児の秘書団顧問を務めている杉田には一つ懸念があった。
それは、もう少し、もう少しだけ嵐児に地元にいる時間を増やして欲しいというものだったのだ。
(全国の自衛隊施設を視察し、大臣として粉骨砕身努力するのもいいが、選挙は水物だ。
先生にも今少し地元を歩き回って貰いたいものだ……)
そうした中、杉田は若い秘書たちが格闘技のDVDを見て騒いでいるのを目にしたのである。
もちろん嵐児の影響で、若手秘書たちも全員がミリオタか格闘オタだった。
というか、そういうメンバーしか採用していなかったのだが……
「杉田顧問、このDVD凄いんですよ」
「中学3年生が、格闘技ジムの師範とガチスパーやってこれを倒しちゃうんです」
「それもこのジム、青嵐市内にあるようなんですわ」
杉田はそのDVDを嵐児に見せてみた。
そして……
格闘技に関しては異様に目の肥えている嵐児には、大地の実力は本物だとすぐにわかったのである。
(しかもこの若者、本当の本気を出していない……
もし本当に本気で戦ったら、間違いなく世界チャンプだろう……)
しかも若手秘書たちによれば、大地は米軍のCQC指導教官たちと毎日戦闘訓練を重ねていて、その場には見学用のスタンドまであるらしい。
そのときから、嵐児は国会閉会中には必ず地元に帰るようになった。
そうして、秘書の杉田を伴って、毎日のようにスタンドの最前列で大地の訓練を見学するようになったのである。
その場にいた佐伯も須藤も静田も、もちろん嵐児の顔は知っていた。
嵐児にしても、市の有力者たちのことを知っていた。
そうして、これも毎日のようにスタンド最前列に陣取って大地を見守る4人とは、すぐに会話もするようになっていったのである。
時には訓練終了後、大地の話を肴に5人で酒を酌み交わすこともあった。
嵐児は大地が7歳の時に両親を失い、その後育ててくれた祖父も去年失って、天涯孤独の身であることを知って涙した。
そうして、大地の祖父を恩人と崇める3人が大地の後見人になっていることも聞いて感動したのである。
(この世に於ける恩義の価値というものも、まだまだ捨てたものではないな……)
しかもその少年は、逆境に歪むことなく県立青嵐高校に首席で入学し、加えてまだ1年生だというのに高校の空手部員や柔道部員たちに師範代として慕われていたのだ。
とうとう嵐児はその場で感動のあまり大泣きしてしまったほどである。
また、米軍兵士たちとのCQC訓練では10人を相手取ってこれを粉砕し、しかも訓練終了後には親し気に流暢な英語で会話をしている。
女児3人の父親である嵐児は、本気で大地を長女の婿に欲しいと思った。
あまり社交的ではなく、政治家には向いていなかった娘たちに代わって、後継者にしてもいいほどだと考えたのである……