*** 403 独立 ***
人民解放軍ハッカー部隊も解散させられた。
中華帝国政府は、各国政府に対して軍によるハッキングを公式に謝罪し、同時に過去10年間の各国へのハッキングの手口とその成果の詳細を提供したのである。
各国政府は大驚愕した。
あれほどの資金をつぎ込んでガードを固めていた自国システムが、まるでザルだったことを思い知らされたからである。
さらに、国策企業ファーウェイウェイの5G技術によって、中華帝国版エシュロンを作ろうとしていた試みもその手口も公開されたのである。
この情報公開によって、地球の通信技術はますます発達して行くことと思われた。
中華帝国軍部に於いて反乱を使嗾する元軍人貴族の逮捕・投獄数が数万人に達したために、軍部に於ける貴族の影響力は無くなった。
こうして反乱や革命のリスクも無くなった為に、皇宮府は立法府、行政府、司法府に対して、それまでの猟官活動に於ける贈収賄だけでなく、全ての贈収賄行為の取り締まりを徹底強化するよう『助言』が行なわれたのである。
そもそもは以前から贈収賄禁止法は存在していたのだが、完全に有名無実になっていてそのようなことを気にする者もいなかったのだった。
この取り締まりのために、シスくんの労作である『直近の大口贈賄者上位10万人、大口収賄者上位10万人』の名簿が提供された。
この為に治安警察は目が回るような忙しさになったそうだ。
ここに至って、賄賂収入が全く無くなったことに気づいた貴族元老たちは愕然とした。
今まで利益誘導を図ってやっていた企業に怒鳴り込んでも、逮捕を怖れた企業経営者たちはまったく賄賂を出さないのである。
あまりにしつこく経営者に食い下がった貴族は、その様子を密かに録画されて治安警察に提出されてしまい、逮捕収監されてしまう事態も起きている。
裁判で有罪判決を受けても元老の地位を失うことは無いが、その生活は牢の中であった……
賄賂が全く手に入らなくなり、それまでの収入が100分の1以下になってしまった貴族元老たちは、仕方なくスイスやケイマンの口座からネットバンキングを通じて預金を下ろし、遊興費に充てようとした。
ところが、これも誰も気にしていなかったのだが、それまでは外国為替規制法というものもあったのだ。
(昔は日本にもあった)
これは、年間の海外への資金持ち出しを一定額以下に規制する法律だったのである。
或る日、この法律に違反していたとして、全ての貴族家に巨額の罰金支払い命令書が届いた。
期日までに納付が無ければ口座資金が差し押さえられるとの通達もついている。
貴族たちは鼻で笑った。
何のためのスイスの銀行やタックスヘイブンの銀行だと思っているのだ。
差し押さえなど出来るはずはなかろう。
ところが、罰金支払い期日が過ぎると、すべての海外口座の残高が莫大な罰金額の分だけ減ってしまっていたのである。
半数ほどの口座は残高がゼロになっていた。
(足りなかった分は貴族家当主宛てに督促状が届いている)
もちろん銀河最先端のコンピューターであるシスくんの仕業である。
シスくんにとっては、地球の金融機関のセキュリティーシステムなど、紙以下の障壁であった。
ごく一部、目端の利く貴族は罰金支払い期日までに口座資金を下ろし、金塊などに代えて自宅金庫に移していたが、支払期日になるとやはり罰金の分だけ金塊が消え失せていたのである。
端数の分をスッパリと切り落とされた金塊を見て、貴族たちは呆然としていたそうだ。
これらによって得られた資金は実に国家予算5年分に匹敵していた。
つまり建国以来90年間で、貴族たちはそれ以上の額の賄賂を受け取っていたか横領をしていたということになる。
これら資金は皇宮府の『助言』により、全て中華帝国人民のために使われていくことになるだろう。
まずは法人税と所得税の大幅な減税が行われている。
さらに中華帝国外務省は、皇宮府の『助言』に基づき、まず最初にスプラトリー諸島の領有権と領海権の放棄を公式に宣言した。
次に尖閣諸島の海底資源については、日本国政府に共同開発を申し入れ、日本国の政治家たちを慌てさせている。
日本にはそんな技術も予算も無かったからである。
政治家と官僚たちは、新たに降って湧いたこの利権を巡って、早速激烈な内部抗争を始めていた……
中華帝国政府はまた、台湾の旧国民党政府に対し、国民投票を行った結果であれば中華帝国として正式に独立を承認すると申し入れた。
さらに、新彊ウイグル自治区と香港に対しても、厳正な国民投票の結果、3分の2以上の賛成があったならば中華帝国として正式に独立を承認する用意があると発表したのである。
この発表に台湾と新彊ウイグルと香港は沸き立った。
独立運動組織がさらに活発に運動を始め、それぞれ1か月以内に独立の是非を問う国民投票が行われることとなったのである。
そして、どの地域も90%以上の圧倒的多数をもって中華帝国からの独立が選択されたのであった。
だが……
香港では、中華帝国の治安維持警察が本国に完全撤退したこともあり、独立運動派による初代大統領を巡っての政治闘争が、そのうちに暗殺主体の暴力闘争になってしまったのである。
どの独立運動派も、新たに発足する香港共和国の大統領や政権の中枢を狙って盛大に抗争を始めてしまったのだ。
なにしろこの闘争に勝利して大統領になれれば、すぐにでも新生香港共和帝国の皇帝即位を宣言出来るのである。
その側近や閣僚になれれば上級貴族になれるのだ。
そうなれば賄賂は受け取り放題だろう。
こうした独立派のセクトは実に85もあった。
この抗争は次第に激化し、香港の巷はデモ隊と警察の衝突どころか、これら85のセクトが入り乱れて戦う市街戦の場と化したのである。
これを見たほとんどの住民たちは中国本土へ避難して行った。
香港に拠点を置く外国資本も、現地法人を閉鎖して本国に引き上げて行っている。
世界有数の高さを誇っていた香港の土地価格もあっという間に暴落し、それまでの30分の1以下になった。
家賃は50分の1である。
世界各国は香港を渡航禁止地域に指定し、航空会社も香港便を停止した。
こうして、独立を果たした香港は、今度は世界有数の世紀末暴力都市になってしまったのである。
市内ではセクト間の抗争によって毎日多くのビルが炎上していた。
もちろん対立するセクトの幹部や構成員を、その拠点ごと焼き殺そうとする放火によるものである。
不運にも犠牲になってしまった一般市民は、リポップ後に『心の平穏』の魔法をかけてもらって中華帝国の避難民施設に収容されている。
こうしたセクトのうち30ほどは、中華帝国本土に逃れて亡命政権樹立を宣言した。
だが、中華帝国政府にも人民にも全く相手にされず、その鬱憤から本土でも互いに武装闘争を始めてしまったのである。
このために傷害罪や傷害未遂罪、凶器準備集合罪などによって、全員が中華帝国治安警察に逮捕されてしまっている。
新彊ウイグルの場合は、いちおう普通の政体が出来た。
中華帝国政府はこの政体を認め、独立の承認と国交の樹立を発表している。
その後、当然のことながら、それまであった中華帝国人民解放軍の基地から軍の撤退が始まった。
これに伴って、旧支配層であった漢民族もそのほとんどが中華帝国国内に避難を開始したのである。
これもまあ当然のことである。
だがこれに対し、ウイグル族の過激派が複数回に渡って襲撃を仕掛けてしまったのだ。
独立闘争に勝利した自分たちに酔い、撤退して行く中華帝国軍を負け犬とでも思ったのだろう。
人民解放軍は、決して武力を行使するなという厳命をよく守り、民間人を必死で守りながら粛々と撤退を続けていった。
もちろんシスくんはこの集団を結界で覆って守っている。
皇帝陛下と皇太子殿下、周恩来来大臣の3人だけは、この犠牲者無き撤退はアスラさまのご加護だと察し、深く感謝していた。
ウイグル族の襲撃者たちは、いくら攻撃しても鬼畜漢民族たちに全く被害を与えられないことに憤慨し、その襲撃も次第にエスカレートしていった。
遂には大砲や携行式ミサイル発射機まで使用されるようになっていったのである。
このときの詳細な映像は全世界に公開された。
おかげで、ウイグル共和国の国連加盟申請は圧倒的多数で否決されてしまっている。
さらに新生ウイグル共和国では静かな大混乱が始まった。
元々強制労働収容所が閉鎖されて、5000万人に及ぶ収容者が解放されてしまっていたのだ。
これは、元々の新彊ウイグル自治区の人口のうち60%を占めていた人数である。
彼らは主に農場で強制労働をさせられていたが、その食料生産が全く無くなってしまったせいで、米や麦など一部基礎食料品価格の上昇が始まっていた。
また、消費財は地元で賄われることが多かったために、消費の低迷も始まった。
つまりはスタグフレーションの兆候が見られ始めていたのである。
これに加えて、50万人を超える人民解放軍部隊とその家族がいなくなったことにより、消費財がさらにダブつき始めた。
軍とは、生産を全くせずにただ物資を買ってくれるだけという最高の消費者だったのである。
さらに追い打ちをかけたのが、富裕層である漢民族500万人の本国帰還だった。
これによって、新ウイグル共和国の景気は決定的な落ち込みを見せたのである。
新生ウイグル共和国のGDPは前年比マイナス80%になると予想された。
この程度のことも予想出来ず、手も打っていなかったウイグル共和国政府は、完全にその無能さを露呈してしまったことになる。
これに慌てたウイグル共和国政府は、まず外交使節を北京に送って援助の要請を行った。
だが、自国民の本国への帰還に際して襲撃を仕掛けられた中華帝国政府の反応は冷たかった。
未だに襲撃犯を逮捕もしていない無法国家に対して援助は出来ないと突っぱねたのである。
過激派の襲撃犯の中には、大統領の長男や現職閣僚まで含まれており、また雑多な粗暴犯や窃盗目的の者も多く、襲撃失敗後には全て逃げてしまっていた。
このため、襲撃犯の逮捕などは政治的にも実際にも到底不可能だったのである。
また、ウイグル共和国の通商使節団が、中国商工会議所を訪れて投資を呼びかけた。
だがしかし、『社員の安全が守れない』という当然の理由で全て断られてしまっている。
そう。
如何なる理由であれ、テロ行為が放置され、人口が決定的に減ってしまった国では、好景気などは有り得ないのである。
3年後にはウイグル共和国はOECDによって世界の貧困国リストに指定されてしまうのであった。
その結果、再び中華帝国に帰属するか否かの国民投票が行われ、帰属賛成派が多数を占めたのであるが、中華帝国政府から公式に拒否されてしまっている。
だが、中華帝国はあらゆる援助は拒否したものの、ウイグル共和国人民の移民は妨げなかった。
国境沿いの幹線道路に設けられた移民受け入れ所では、各地の農業法人などへの紹介も行われている。
この際には神界の協力で犯罪行為のチェックも行われ、該当者は本国に帰還するか中華帝国で刑に服するかの選択を迫られていた。
その結果、懲役5年以上の重罪犯は、ほとんど全員がウイグル共和国内に残ることを選択し、共和国内の凶悪犯比率は跳ね上がって行ったのである。
このために、善良な市民はますます中華帝国に移住を試みるようになった。
ウイグル共和国政府は国境に検問所を設けて人民の流失を阻止しようとしたが、当の国境警備隊が集団で亡命してしまう事態も頻発している。
こうして、5年後にはウイグル共和国の人口は50分の1以下になってしまい、国家としての体を為さなくなってしまったのであった。
台湾でも混乱が起きていた。
暫くの間は完全独立を祝うお祭り騒ぎが続いていたが、それが一巡すると軍事費を大幅に削減しようとする政府と軍部の対立が激化したのである。
街頭では毎日のように軍事費削減に反対する軍人たちのデモが見られるようになり、警官隊との衝突にエスカレートし始めている。
さすがに双方とも武器は使わなかったが、どちらもマッチョが多かったために、台湾市街は凄まじい肉弾戦の場と化したのだ。
うっかり見物などしていると、この衝突に巻き込まれてボコボコにされてしまうのである。
このため、台湾は世界中の国に『渡航注意情報』や『渡航制限』を課せられてしまっていた。
これにより海外との貿易が大幅な落ち込みを見せ始め、そのGDPはマイナスに転落する見込みとなったのである。
これら3カ国には共通する点が有る。
それは、独立を目指してはいたものの、いざそれが為された後のビジョンが全くもって描かれていなかったという怠慢である。
権力に反抗するだけなら、そこいらへんのヒャッハーにも出来るのだ。
こうして、中華帝国から正式に独立した3カ国は悲惨な状況に陥ったのであった。
一方で中華帝国本国では、貴族たちが元老院に封印されて劇的に景気が回復しつつあることもあって、内モンモンゴル自治区、寧夏回回族自治区、チベベット自治区、広西チワワン族自治区など帝国各地で盛り上がっていた独立の機運は急速に萎んで行ったのである。
中華帝国首脳部(=皇宮府)から見れば、患部を切除手術することによって健康な体を取り戻したということになるだろう。




