*** 397 アルス中央大陸全域避難 ***
諮問委員会副座長は冷静に座長に話しかけた。
「入学試験に限らず、試験というものは、すべからく学生たちの学習到達度を計るためのものと思います。
その試験で満点や満点近い点が取れるということは、既に大学や大学院で研究生活を送ったり、社会に出て行く前に必要とされる学習到達度としては充分なのではないでしょうか」
「何を言う!
学問の中でも特に国語や外国語は長く苦しい刻苦精励の時を経て初めて身に着くものじゃ!
その努力を忌避してだんじょんなどに頼るとは!」
「あの……
科学や数学は、いくら研究しても果てがありません。
永遠に進化して行くことでしょう。
ですが、国語を含む語学は、ある一定以上の水準に到達出来ればそれで充分なのではないでしょうか?
それがたまたまダンジョンの恩寵で得られただけなのです」
「なんだとキサマぁ!」
「ですが、そう仰る毒善先生も、ダンジョンの恩寵は受けていらっしゃいますよね?」
「なに…… 恩寵だと……」
「えっ、先生はダンジョンに行かれたことが無いんですか!
日本の70歳以上の人は、ほぼ半数がダンジョンに行っていますよ?」
「そ、そのような胡乱な場所には断じて行かん!」
「あの…… わたくしは重度の高血圧症をダンジョンの恩寵で完治して貰いました。
おかげであの酷い塩分制限食からも解放されています。
それも治療費用は全て日本政府持ちです」
「なに……
か、カネがかからんと申すか!」
「ええ。
ついでに妻とも相談しましてね。
貯金を叩いて2人ともあの自費診療の『若返り』の恩寵も受けて来たんですよ」
「わ、わわわ、若返りじゃとぉっ!」
((( あー、PCも使えず、テレビも見ないで象牙の塔で踏ん反り返ってるとこうなるのかー )))
「ええ、若返りです。
わたくしは来年70歳になりますので、あの恩寵で約20年寿命を伸ばして貰ったことになります♪」
言われてみれば、この諮問委員はアラフィフに見えるほどに若々しくなっていた。
「!!!!」
「それほどの恩寵を受けたわたしが、『言語理解』の恩寵を不正だと言うのもどうかしてますよね♪」
「な、何故誰もわしに寿命が延びることを教えなんだのじゃぁぁぁぁぁ―――っ!」
(((( ………… ))))
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
話は3か月ほど前に遡る。
アルス中央大陸北部海岸沿いでは東西全域に渡って海氷が着岸した。
どうやら今年の大寒気団は、55年前のものよりも遥かに規模が大きいらしい。
あの海岸沿いの村でも、強い北風に吹き寄せられて海岸には堆く海氷が積み重なっていた。
いわゆる海氷丘が形成されていたのである。
もちろんこの氷丘は海岸に積み重なってしまっているので、南風が吹いても海に戻って行くことは無い。
このため、大地は互助会隊に指示し、すべての避難所の民に海岸での貝掘りを禁止させている。
氷丘が崩れでもしたら即死は免れないからであった。
貝掘りは主に小さな子供たちの仕事であり、いくらリポップするとはいえ子供たちのトラウマになるのは間違いないからである。
また、流氷着岸想定範囲の外にあった漁村にも流氷が着岸する気配を見せたため、急遽転移で互助会隊を派遣して海岸民たちに避難を呼びかけさせた。
この者たちの多くをデスレル平原中央部の避難施設に収容したため、シスくんは施設を大幅に増設している。
これによって、新たに300万人の民が避難所に収容されることになったのである。
やはり北の海は食料が豊富なために住み着いていた民も多かったようだ。
また、大陸北部の降雪も深刻だった。
それら地方の多くが平均3メートル以上もの積雪に覆われてしまったのだ。
外気温はマイナス30度である。
地球であれば在り来たりな気温であるが、ここアルスの家屋はほとんど木の枝と麦藁や樹皮で出来ているために倒壊したものも多い。
寒さも深刻だった。
もちろん灯油も木炭もなく、金属器が無いために薪すら貴重なのである。
つまり暖房もほとんど無いのだ。
こうした環境ではマイナス30度の気温は命を脅かすのに十分だった。
これに対処するため、大地はストレーくんに指示して、中央大陸北部の民たちを一旦すべて完全時間停止倉庫に『収納』させた。
あそこならば食事などの必要も無い。
これらの民については、順次普通の時間停止倉庫に移した後に、まずは暖かい食事が振舞われる。
そして、民たちが落ち着いた後にはテミスちゃんが説明を行うことになっていた。
この説明会では避難施設に移るか元の村に帰るかのヒアリングが行われるのだが、もちろんほとんどの民が避難を希望した。
デスレル平原避難施設の準備が整い次第、そちらに転移して行く予定である。
ダンジョン国幹部会では、そのままストレーくんの倉庫に避難させたままでもいいのではないかという意見も出たが、やはり大陸の民は大陸で生きて行くべきだという理由で、こうした方法が取られることになっている。
当初、避難は民たちに限定して堅牢な住居に住む王族や貴族たちは放置していたのだが、王族貴族は誰も竈や暖炉に火を入れることが出来ず、凍死者が続出したために仕方なく同様に収容することになった。
だがしかし、ほとんどの王族貴族が重罪を犯していたために、1日ほどの療養の後にテミスちゃんの面談を受けることになったのである。
この面談では、このまま元の場所に帰るか神界の刑務所に服役するかの選択を問われるのだが、多くの王族貴族は激怒しながら元の場所を選択した。
だがやはり2日ともたずに凍死してまた神界に保護されたのである。
こうしたことを繰り返すうちに、神界刑務所の終身刑犯が激増していった。
中には10回の凍死の果てに泣きながら刑務所を選択した王もいたらしい。
それでもまだ大陸には1200万近い民がいる。
街や村の数だけでも10万近いのである。
大地はこれらの村々に対し、互助会隊5000を派遣して避難勧誘に当たらせた。
如何にレベルを上げているにしても、とんでもない重労働である。
この為に、ストレーくんの時間停止倉庫内には互助会隊専用の休息施設が作られた。
どれだけ任務が忙しくとも、ここに籠ればいくらでも体力の回復が図れたからである。
避難民の世話をする人手については、すでに数か月前に避難して来ていたデスレルの民や出稼ぎの民たちがいた。
これら400万人の内のほとんどが雇われて、互助会隊婦人部の指導の下、新たな避難民たちの世話に当たったのである。
尚、この仕事の総責任者は、それまでにこうした経験を充分に積んでいるイタイ子になった。
だが……
総責任者であるイタイ子が避難施設を視察していると、すぐに迷子係のお姉さんたちが寄って来て捕獲され、迷子センターに連れて行かれてしまうのである。
自分はこの施設の総責任者なのだと、拳を握りしめて力説しても全く信じて貰えない。
イタイ子は涙目になりながら必死に逃げるのだが、四方八方からお姉さんたちが押し寄せて来てたちまち捕獲されてしまうのだ。
まあそれだけこの施設の運営が上手くいっているということなのだが……
そこでイタイ子は『変身の魔道具』を身に着けて大人の姿で歩くことにした。
だが、これがとんでもない美人さんだったのだ。
おかげで今度はお兄さんたちが鼻の下を伸ばして四方八方から押し寄せて来るのである。
とうとうイタイ子は、視察の時にはシスくんの分位体に大きな大人の姿に変化してもらって連れて行ってもらうようになった。
(身長200センチ&ムキムキ♪)
この大人シスくんに肩車してもらって歩き廻る(歩かせ廻る?)のは結構気に入っていたらしい。
イタイ子は、500年前に分位体の体を与えてくれた父とも慕う初代ダンジョンマスターを思い出すらしく、シスくんの肩の上でよく涙ぐんでいた。
「のうシス…… これからもずっとこうして肩車をしてもらえんかの……」
「もちろんだよイタイ子ちゃん♪」
「ありがとうの……」
イタイ子のプロポーズには気づいていないシスくんであった……
避難民のサポートのために雇われた者たちには、もちろん日給銅貨20枚の賃金が支払われていた。
シスくんが南海岸での採掘や貯水場作りの傍らせっせと銀や銅やニッケルも集めてくれていたおかげで、銀貨や銅貨はそれぞれ数十億枚もあったのだ。
普通であれば、これらのマネーサプライは中央大陸にハイパーインフレを引き起こしただろうが、これらの賃金はそのほとんどがダンジョン商会や3カ国の国営商会の支店で使われたので、その吸収も出来ていた。
大地に必要だったのは、日本の静田物産に商品を仕入れて貰うことだけだったのである。
静田物産グループは連結利益が10年前の100倍になり、日本最大の商社になったそうだ。
もちろんタイ王国もサイアムグループを中心に空前の好景気に沸いている。
特に、ダンジョンで若返った世界中の金持ちたちが、そのまま国に帰らずにタイ王国の海洋リゾートで休暇を取るようになったのである。
中にはそのままリゾートホテルを買い取って永住してしまう大金持ちもいた。
通常こうしたリゾートの接客従業員には最低でも英語が喋れることが求められるのだが、リゾートホテル側の費用で従業員は英語どころか世界中の言語が喋れるようになっている。
また、無人島などにリゾートを作る際には常に電気ガス水道などのライフラインや汚水処理が問題になるのだが、これも全てダンジョン産の『魔道具』で供給・処理出来るようになっていた。
こうして、タイ王国の観光収入は国全体のGDPの30%をも占めるようになっていったのだ。
そしてGDPそのものの総額も、このままのペースで上昇して行けば10年以内に日本のGDPを凌駕しそうな勢いだそうである。
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アルス中央大陸のヒューマノイド居住地域が大寒気団に覆われる中で、住民の避難・移住は順調に進んだ。
最終的に、大地は中央大陸約2500万の民の内、そのほぼ99%を保護することとなったのである。
(どの世界にも1%程度は偏屈者がいるものである)
このうち約600万人は王侯貴族や農村部の村長一族などの犯罪者であり、ダンジョン刑務所に収監されているが、大地はこの数を思ったよりも遥かに少なかったと安堵していた。
これにより、ワイズ王国で仕入れをしていた各国の行商隊は失業の危機に晒されることになった。
だが、元々冬の間は、積雪で立ち往生することを怖れて彼らの商業活動はさほどではない。
冬の間の時間を使って、大地は彼らに大陸中央部に6000か所ほど作るつもりの中規模行政区や1000か所の大規模行政区の中心街で商会を経営しないかと持ち掛けた。
もちろん仕入れはワイズ商会のままであり、売値は指定するものの仕入れ値は常に売値の半額である。
また、料理学校の卒業生を雇って食堂も併設可能だとも伝えた。
行商隊の多くはこうした店で営業する商会に転じていくだろう。
迷っていた商会長も、毎日自分の店であの料理が食べられると聞いて、この提案に飛びついて来たそうだ。
商会員も皆ニコニコである。
そしてもちろん、避難民には当面の食料が要る。
まずは少なくとも半年分、1250万石相当の穀物が必要になるだろう。
大地は自分で備蓄していた穀物1000万石を全て放出した。
これらを調理する巨大料理工場がワイズ王国、ゲゼルシャフト王国、ゲマインシャフト王国に作られ、避難民を主体にそれぞれで20万人ずつが雇われている。
そして……
5か月後には食料が足りなくなるという危機を救ったのが地球のダンジョンだった。
地球ダンジョンは、営業開始からわずか1か月で1500億ドル近い利益を稼ぎ出していたのである。
大地はもし地球ダンジョン開設が遅れていたらと想像して冷や汗をかいていた。
当初ダンジョン来場者は1日当り10万人ほどに過ぎなかった。
主に各国の病院に於いて集中治療室に入っているような重篤患者たちである。
これに加えて世界の富裕層が若返りや高身長、瘦身などを求めてやって来ていたのだが、これら来場者を合わせた平均施療単価は1人平均で約5万ドル、10万人で合計50億ドルにもなっていた。
これは小麦ならば2000万トン(≒1億3000万石)、米でも800万トン(≒5200万石)を購入出来る金額である。
もちろん、地球に於いて疾病や障碍で苦しむひとが減るにつれ、そして『言語理解』の普及が広がるにつれ、ダンジョンの売り上げは落ちて行くことだろう。
だが、その頃にはアルス中央大陸に数万か所の『模範村』が出来ているはずである。
その総農業生産は2年以内に数千万石に到達することと予想された。
まあ、いくら穀物が余っても、ストレーくんの倉庫があるので特に問題は無い。
また、大地はサイアム食品に出資して全世界に多くの支社を出してもらった。
農産物の買い付けをアメリカや欧州だけに限らず、世界全域で行って貰うためである。
地球の人口が約80億人ということは、少なくとも世界の農業生産は80億石以上あるということになる。
たとえこのうち毎年5000万石を購入したとしても影響はさほどでは無いだろう。
因みに日本からの農水産物オファーについては、鰹節などごく一部の食品を除いて全て断っている。
これは例えば小麦に関して言えば、アメリカ産の標準小麦が1キロ僅か23円ほどなのに対して、日本産小麦は高いもので1200円、安いものでも500円もするからであった。
この為に、世界の農業国が神界の農産物大量買付けに沸き立つ中で、日本は全く恩恵を受けられなかったのである。
農家の票を期待して統制の下に高価格政策を取って来た歴代政権のツケが回って来た結果と言えよう。




