*** 386 中華帝国サッカー事情 ***
話は数年前に遡る。
中華帝国の皇帝陛下は、ご幼少のみぎりより、帝王学教育に於いて『直接の命令は慎むこと』と教え込まれていた。
建国皇帝陛下が書き記され、代々伝えられている『至尊の教え』には、『皇帝の勅命は下策也、無言をもって皇帝の意のままに臣下を動かすことこそ最上也』と記されてあるからである。
その分家臣は皇帝陛下のご意向を汲むことに長けていなければならなかった。
陛下が御自らご要望を口にするようなことはあってはならないことであり、すべてのご要望は陛下が口にされる前に叶えられるべきものだったのである。
そんな陛下のサッカー好きは有名だった。
毎週日曜深夜には、同じくサッカー好きな皇太子殿下と共に、欧州各リーグの試合を生中継で御覧になられていたのである。
どちらのクラブが勝っても負けてもご機嫌であり、ワイングラスを片手にいつもにこにことサッカー中継を御覧になられていたのだ。
時にはおなじサッカー好きの高官をお呼びになり、一緒にサッカーを語りながら中継を見られていたこともあったという。
これにより、当然のことながら中華帝国中枢部のメンバーもサッカー中継をよく見るようになった。
皇帝陛下に呼ばれ、サッカー中継の観戦を共にさせて頂くことはこの上ない名誉であり、コネが重視される中華帝国社会では最も重要なことでもあったのだ。
このために、共産党中枢部のメンバーも実に熱心にサッカーを見るようになっていた。
ルールも知らない者が陛下や殿下とご一緒に中継を見て、万が一にも御不快な思いをさせてはいけないとの配慮からである。
最近では欧州の有力クラブに対し、中国企業が共同オーナーとして出資するケースが多い。
実際には如何な有名クラブに出資しても収益性は低いのだが、元々のオーナーたちは収益を求めて出資しているのではなく、所有する企業の宣伝や名誉を求めて出資していたのである。
また、特に欧州主要リーグ上位チームの試合などでは、そのチケットを入手するのは極めて困難だった。
ホテルのコンシェルジェに大金を提示しても得ることは難しい。
ようやく手に入れても、それはピッチの選手が豆粒にしか見えないような席だったりするのである。
ところが、クラブの共同オーナーになればスタンドにはオーナー席やオーナーゲスト席が用意されているのだ。
ここでは十分なゆとりのある席でカクテルなどの供応を受けながら試合が見られるのである。
中華帝国の大企業経営者らは、その後ろ盾や影のオーナーになっている政府高官貴族を接待するために、こうしたオーナー席の確保を必要としていた。
招待客らは皆試合中に泥酔して周囲から顰蹙を買ったりもしていたが、そんなものは追加でクラブに出資して黙らせればよい。
招待客も、『自分は欧州の○○の試合に招待されてVIP席で試合を観戦したことがある』という事実だけで充分箔がつくのでそれで満足だった。
いつの日にか、皇帝陛下と皇太子殿下が直接の観戦を望まれた際には、高官閣下たちと共に周囲を護衛で固めてご覧になって頂けるようにしなければならない。
そのためにも、中国企業にとって有力クラブへの出資は必要な投資案件だったのである。
そうした日々が続く中、高官たちは相談をするようになった。
「この上は、陛下にも直接スタジアムでワールドカップのサッカーを見て頂きたいものだ」
「だが、外国では護衛も満足に出来んぞ。
座席も窮屈だしな。
万が一それで陛下が御不快な思いでもされたら大変だ」
「ということは、我が帝国にワールドカップを誘致するしかないか」
「それならば陛下のお席はテニスコートほどの広さに出来るな」
「その広さなら、ハーフタイムに寛いで頂けるように、スタンドに風呂やマッサージルームも作れるの」
「いや、メインスタンドを全て陛下の御席にして、完全武装護衛も1個師団配置しよう。
当然御席は全てを防弾ガラスで覆ってな」
「それでは外務省にFIFAに連絡を取らせ、我が国でワールドカップを開催するよう命じさせろ。
賄賂予算はいくらかかっても構わん」
「はっ」
1週間後。
「FIFAの返答について報告せよ」
「それが……
総額50億ドルもの賄賂を提示したのですが、我が帝国でのワールドカップ開催は断られました」
「何故だ!」
「ワールドカップ出場経験の無い国での開催は、今まで一度も無かったからだそうです」
「むぅ!」
「開催国は本大会までの予選を免除されます。
そして、開催国がグループリーグで敗退したのは過去南アフリカ大会の1度だけだそうで、このときは開催地が欧州から遠かったこともあり、現地で決勝リーグが盛り上がらなかったそうなのです。
ですから、開催国にはある程度の実力が必須で、ワールドカップ出場経験か最低でも最終予選で上位の成績が必要だと言われました」
「そうか、それでは何としてでも6年後か10年後のワールドカップ出場を目指すぞ。
もしくは最終予選上位だ。
そのために、国務省はサッカー振興局を作れ。
特に若手育成に注力し、欧州からコーチを呼んで特別強化体制を取るのだ。
これも予算はいくらかかっても構わん」
「ははっ!」
こうして、中華帝国では尋常ならざる熱意をもってサッカー振興が開始されていたのである。
同時に上海近郊に10万人収容の超巨大スタジアムも建設され始めていた。
若手選手の育成には、欧州から法外な報酬をもって元国代表監督とコーチ陣をなんと80人も招聘している。
肝心な選手については、22歳以下のサッカー選手が500人も集められて育成されることになった。
だがしかし、その500人全員が中華帝国貴族の子弟だったのである。
さすがは世界随一のコネ社会であった。
最年少は公爵閣下の嫡孫6歳である。
6歳では例え10年後のワールドカップ開催時でも16歳であり、出場は困難と思われるが、どうやら公爵閣下が孫に『元サッカー中華帝国代表候補』という箔をつけてやりたかったという爺心だったそうだ。
この500人は12のグループに分けられ、毎日練習と練習試合に明け暮れた。
学業は当然全て免除である。
そんなものは代表候補を外れてから家庭教師でもつけて学べばよい。
だが……
「今日はもう1時間も練習した。
余は疲れたので休むこととする」
「30分も試合に出たので疲れた。
早く交代させろ」
「なぜ余を試合に出さぬ! 侯爵である父上に言いつけるぞ!」
「いや、試合に出るのはせめてドリブルが出来るようになってから……」
「なぜそのようなものが必要なのだ!
余は侯爵家の嫡男であるぞ!」
「余はフォワードがよい。
守備なぞは下級貴族子弟にやらせろ」
「外は寒いので室内練習に切り替えることを命じる」
「なぜ侍従が2人までなのだ!
伯爵家では10人の侍従侍女がついておるのだぞ!」
「宿舎の個室が狭い。
ゲーム部屋を用意せよ」
呆れかえった代表監督と主要コーチ陣はほとんど練習に出て来なくなった。
彼らは選手を育成するノウハウは持っていたが、やる気のないガキの躾をするノウハウは持っていなかったからである。
国務省サッカー振興局の局長が代表監督を呼びつけて育成の進捗状況を聞いた。
監督は今まで溜まっていた不満をぶちまけ、候補選手たちの言動を記した文書を提出して、この者たちを代表候補から外さない限りワールドカップ出場や最終予選上位の成績は絶対に無理であると語った。
子爵家当主でもある局長はその文書を読み、なぜこの言動が問題なのかは理解出来なかったようだ。
侍従が2人しかいないとは確かに劣悪な環境であるし、寒い戸外での1時間以上もの練習は貴族には耐え難い苦行である。
だが局長は、取り敢えず監督の言い分は理解した。
なによりも大事なのは、政治局員閣下方のご命令であるワールドカップ出場か最低でも最終予選上位の成績なのである。
そのために、局長は監督に特例として代表候補の任命権と中華帝国人民からなるサポート部隊300名を与えたのである。
本来代表監督には代表候補の招集権があるのが当たり前だが、如何なる外国人にも帝国内の権力を与えないという不文律があり、代わりに代表監督には3000万ドルもの年俸が支払われていたのである。
すべてはカネで解決しようとする真に中華帝国らしい発想であった。
おかげで500人の候補の内498名が代表候補を外されたが、馘になった代表候補たちは、これでもう寒い中で走ったりすることも無く、元代表候補という肩書も得られたことで満足げに帰って行っている。
すぐに国内の中学生大会や高校生大会にコーチ陣が派遣され、有望な選手たちを集めて代表候補とした。
また、貴族家子弟用に『特別貴族コース』を作って1か月だけ所属させ、元代表候補の肩書を量産出来る体制も整った。
ついでにこのコースに入る際には、国務大臣閣下がその貴族家から巨額の賄賂を受け取る制度も出来たらしい。
この貴族コースでは、1か月で辞めさせられても文句を言う者は1人もいなかった。
既に『元代表候補』の肩書は得ているし、毎日1時間もの練習をさせられたせいで酷い筋肉痛になって碌に歩けなくなっていたからである。
これで『代表候補を外れたのは不運にも体を壊したため』と言えるのだ。
一方で平民出身の候補たちは毎日歯を喰いしばって練習をしていた。
またサッカー振興局の局長が代表監督を呼びつけた。
今年度予算が余りまくっているので、更なる強化策を打ち出せという命令を伝えるためである。
監督は少々の逡巡の後に答えた。
「それでは欧州のプロサッカークラブのサテライトに、代表候補たちをサッカー留学させてみたら如何でしょうか。
通常であれば各クラブのスカウトの推薦が無ければ無理ですが、中華帝国企業が出資しているクラブならあるいは……」
こうして中華帝国国務省サッカー振興局には、サッカー留学生支援部が創設されたのである。
だが、中華帝国企業が出資しているプロクラブやそのサテライトクラブとの交渉は難航した。
当然である。
彼らは勝つため、勝てる選手を育成するために超必死になっているのである。
子守のような仕事をしているヒマはない。
企業幹部は焦った。
このままでは国務省の、ひいては党政治局のご意向に沿えないではないか。
そこで企業幹部は各サテライトチームに移籍金の支払いを提案したのである。
この逆移籍金も当初は数百万ドルの提示だったものが、相手先がそれでも了承しなかったために高騰し、とうとう1人当たり1000万ドルもの高額になった。
この金額であれば、欧州の各クラブサテライトはその年間運営費の3割近くを得ることが出来るだろう。
こうして巨額の逆移籍金を欧州各クラブに支払い、20人の欧州留学組が組織されたのである。
だが、その裏では激烈な推薦闘争が行われて札束が飛び交い、結果として欧州サッカー留学生に選ばれたのは全員が上級貴族家の子弟だったのだ。
彼ら20人は政府専用機で欧州に旅立った。
受け入れ先は各国各地20の有名クラブのサテライトである。
どうやらどのサテライトクラブも複数人の子守をするのは面倒だと、受け入れは1名に限定したらしい。
サテライトクラブに合流した留学生たちは、驚天動地の衝撃を受けた。
なんと歓迎の晩餐会は開かれないというのである!
しかも通訳や護衛や侍従の寮への入室も断られてしまい、通訳たちは近隣の街から1時間もかけて通勤しなければならなくなったのだ。
夜間の通訳や着替えなどの世話は誰がするというのだ!
貴族家嫡男に自分で体を洗えというのか!
さらには、なんと宿舎は4人部屋だというのである。
しかも同室者はギラギラした目をした人相の悪い平民である。
教養も無いせいか、世界で最も高貴な言葉である中国語すら喋れない下賤な愚か者共だった。
留学生は通訳を通じてクラブ側に猛然と抗議した。
中華帝国侯爵の父上に言いつけるぞとも言った。
だが、呆れかえったクラブ側の返答は『嫌なら帰れ』だったのである。
さらに、食堂での食事も全員が同じ部屋でしかも定食だった。
給仕にワインを要求した留学生は鼻であしらわれている。
この寮ではアルコールは厳禁だったのだ。
さらにはゲーム機の持ち込みまで禁止されてしまっている。
留学生は、これは人権侵害だと訴えたが、答えはやはり『嫌なら帰れ』だった。
クラブの責任者は『中華帝国人が人権を主張するのか』とも驚いていたが、中華帝国の人権は非常に強固に守られているのである。
もちろん人権は貴族にしか無いのだったが……
そして、極めつけはなんと毎日の練習時間が6時間もあったのだ!
彼らは生まれてこの方、1時間以上の運動は散歩ですらしたことが無かったのである。
この為中国語で『余は疲れた! 宿舎に帰って休む!』と喚いたが誰も聞いていなかった。
もちろん練習中には護衛も通訳も侍従もピッチに入ることは出来なかったからである。
それで仕方なく1人で宿舎に帰ろうとしたのだが、なんと宿舎の入り口が施錠されていたのだ。
(もちろん盗難防止のため)
これにブチ切れた留学生は、本当にそのまま帰国してしまった。
つまり彼の留学は15時間で終わってしまったのである。
練習時間は1時間であり、そのうちの50分はウォームアップとストレッチだったのだ。
これは他の留学生たちも同じだった。
最短はこの留学生の15時間だったが、最長でも3日間しかもたなかったのである。




