*** 368 焚火 ***
翌日夕刻。
ダンジョン侵略軍の行程が終わった場所には、広い野営地の横に大きな看板が立っていた。
『↑直進:ワイズ王国ワイズ商会まで1500キロ。
→右折:ダンジョン国まで550キロ。
ダンジョン国までの道筋には約25キロおきに野営地と水場あり。
ただし、魔獣出没多し』と書かれていたが、読めた者は誰もいなかった。
ただ、サトシーの案内で右折することだけはわかったようだ。
翌日、一行はダンジョン国に向けて進発した。
その道は幅が5メートルもあり、461人程度の軍の行軍には最適な道だった。
その左右の森も、何故か下生えが刈り取られていて森の中とは思えぬほどに視界が通っている。
行軍の先頭は奴隷と奴隷兵だった。
奴隷は長いロープで10メートルほどの間隔を空けて5人が繋がれており、そのロープの端は奴隷兵1名に結び付けられて、6人ずつの分隊が形成されている。
この分隊が1列になって5組先行していた。
彼らの役割は魔獣が出て来た際にはまず喰われろというものである。
進軍路の左右に対する警戒としては、道から20メートルほど森に入った地点に奴隷分隊を配置し、これを餌として本隊は逃げることになっていた。
当初は、横方向分隊は交互に配置していく予定になっていたが、森の中が非常に歩きやすい状態であったために、従士長閣下の馬車横方向では左右3列ずつの奴隷分隊が行進している。
魔獣が大きく強敵であった場合は、奴隷たちが喰われているうちに従士と領兵が馬車を守りながら後退する手筈になっていた。
もし魔獣がそれほど強力でなかった場合には、食料とするために弓隊の攻撃の後に奴隷兵たちが仕留めることになっている。
非人道戦術の極致と言っていい方法であるが、貴族軍にとっては極めて損害が少なく合理的な戦略だと見做されていた。
翌日の行軍中にも魔獣は出なかった。
「なあ、大森林って魔獣だらけだって聞いてたんだけど、なんで何も出て来ないんだ?」
「さあ、俺たちペストン侯爵軍の威容に恐れを為したんじゃないか?」
「だといいんだがな……」
「それにしても寒いな」
「まあ冬だからな」
「これ、馬から降りて歩いた方が体は暖まるかも」
「そうだな。
だが、軍事行動中に勝手に下馬すると処罰されるぞ」
「半当直交代で歩くとか」
「うーん、指揮官殿に言って閣下に許可を頂こうか」
従士たちからの要望を受けてボケマッチョ指揮官は司令官閣下に進言に行った。
「閣下、従士たちより要望が上がっております」
「なんだ」
「半当直で馬から降り、徒歩行軍訓練を行いたいそうです」
「ふむ、許す」
「ありがとうございます」
「あーボケマッチョよ」
「はい」
「毛布を持って参れ。尻が寒くて敵わん」
「畏まりました」
もちろん毛布で覆っても周囲が寒いのは変わらない。
その日の行軍も単調な道が続いた。
「それにしても同じような景色の道が続くな」
「まるで昨日と同じ道を歩いているようだぜ」
「この道といいあの野営地といい、誰がこんなに立派なもんを作ったのかな」
「さあ、そのだんじょんとやらが作ったんだろ」
「こんなもんを500キロに渡って作ったんか」
「大きな声では言えんが、ペストン侯爵領の街道より遥かに立派だな」
「きっと侯爵さまよりずっと裕福なんだろうな」
「それほど裕福なら、きっと鉄製武器以外にもお宝がたあんまりあるぞ」
「へへ、俺たちにも余録がありそうだな」
サトシーも不思議に思っていた。
(いつの間にこれほどまでの道を整備したというんだ。
モンスター共はダンジョンから離れただけで飢え始めるというのに。
ああ、俺がダンジョンポイントを使っちまったから、ダンジョンに居ても飢えてるだろうけどな、はは。
今ごろは全員飢えて死んでいるかもしれん。
それなら容易くドロップ品倉庫に入れていいな)
その日の野営地に着くと、夜にはさらに冷え込みが厳しくなった。
外気温はマイナス3度である。
奴隷兵と奴隷たちは魔獣警戒のために周辺にドーナツ状に配置されていたが、臭いからという理由で従士や領兵たちからの距離はかなり離れている。
もちろん彼らは結界で覆われており、その内部気温は25度に保たれていた。
近くで見れば奴隷たちが寒そうにしていないのが不思議だっただろうが、彼らが遠くにいたために、従士隊や領兵たちは気づいてはいなかったようだ。
今日も泥酔して寝入っていた従士長閣下は、夜中に寒さで目が覚めた。
「誰かある!」
「はっ、ここに」
「天幕内で焚火をせよ! 火を絶やすな!
あと毛布も持って来い!」
「ははっ!」
実は焚火というものはさほどに暖かくない。
暖められた空気が上に昇って行ってしまうからである。
例えば、冬山のテントでは天井付近の温度が10度、床面付近はマイナス10度などという現象がザラに起きる。
このため低い寝台に横になっている従士長閣下はほとんど暖まらなかった。
もちろん焚火から赤外線は出ているが、それも火から離れて毛布にくるまっていればほとんど恩恵は無い。
「莫迦もの!
なぜ天幕の入り口を開ける!
寒いので早く入り口を閉じよ!」
「あ、あの……
閉じた大天幕の中で寝ている間に火を焚くと、何故か中のヒトが死んでしまわれることがあります」
「な、なんだと!」
「ですので領軍の軍事教練では、夜間大天幕内での焚火は厳禁となっているのです……
戸外の焚火の周囲で寝ているときにはそのようなことは起きません。
ですから、せめて入り口を開けて戸外の環境に近づけようと思ったのですが……」
「ええい! それではありったけの毛布を持って来いっ!」
「ははっ!」
また、氷点下の環境ではいくら毛布を被っても体はあまり暖まらない。
外気温で毛布自体が冷やされてしまうからであり、つまり冷たくなった毛布が身につけた衣服の熱を奪っていっているのである。
氷点下の屋外環境で体を暖める方法とは、
『暖かいものを食べて体を動かす』>『暖かいものを食べる』>『体を動かす』>>>>『毛布などを被る』となる。
このとき、食料の接取を怠ったまま体を動かし続けていると、ハンガーノックを起こして気絶することがある。
氷点下以下の環境での気絶は死に直結するので要注意。
また、酷寒の環境では普段に倍するエネルギーを必要とする。
平均的な成人男性の必要カロリーは日に約2000カロリー。
その8割が基礎代謝に使われ、さらにそのうちの約半分が体温維持に使用される。
極寒の環境ではこの体温維持の負担が大きく、その分大量のエネルギーが必要になるのである。
また、アルコールの過剰接取は厳禁である。
酒は飲んだ時には血流が良くなって体が暖かく感じるが、同時に毛細血管も拡張しているためにその後体温が奪われる速度も速いのだ。
冬山のテント内で凍死している者の血中アルコール濃度はかなり高くなっていることが多い。
このために、従士長閣下は酔いが醒めるほどにより寒さを感じていた。
余談だが、ヒトの体は寝ている時でも200CCほどの汗をかく。
現代日本の冬山登山では羽毛シュラフの外側にゴ〇テックス製のシュラフカバーを被るようになってきているが、実はこのシュラフカバーに保温の役割はあまり無いのである。
氷点下20度ほどの環境で幕営すると、朝起きた時にシュラフとシュラフカバーの間にフレーク状の氷が出来ていることがあるのだ。
つまり、両者の間の冷たい空間で水蒸気として出て来た汗が凍ってくれているのである。
起きてすぐこの氷を掻き出すと、翌日も乾いたシュラフで寝られることが出来るため、大変快適である。
(ぐずぐずと二度寝しているとこの氷が溶けてシュラフが濡れてしまう。
そうなると次の晩にはシュラフが凍っていてとても悲しい……)
ある日、やけに寒い夜が明けて目が覚めた時、筆者のシュラフとシュラフカバーの間にフレーク氷が無く、レイヤード(重ね着)していたジャケットとセーターの間にフレーク氷が見つかったことがある。
もう少し寒くて体と肌着の間に氷が出来ていたら、読者諸兄も今ごろこんな駄文を読まなくても済んでいたことと思う。
寒話休題。
この夜、寒さに耐えかねた従士と領兵たちは炊事用の竈の周囲に集まって来ていた。
そうして、一晩中火を絶やさぬように薪をどんどんとくべていったのである。
むろん従士長閣下も下僕に命じて大型幕舎内で薪を大量消費していた。
(ストレー、道周辺の森掃除は終わってるか?)
(はい、南北道の左右30キロに渡って薪になりそうな倒木や落ちている枝は全て収納済みです。
また、進行方向前後50キロの周辺には、毎晩水を撒いて落ち葉も湿らせています)
(ご苦労)
数日後。
「あの、ボケマッチョ指揮官殿」
「なんだ」
「奴隷たちに森の中で木を拾わせてもよろしいでしょうか。
元々炊事用の薪はそうやって調達しながら行軍する予定でしたし、皆さまが夜薪をかなり燃やしていらっしゃいますので、そろそろ持って来た薪が足りなくなってきました」
「そうか、それでは道の左右の森を歩かせている奴隷共にそのように命じろ」
「はい」
その日の夕方。
「あの、指揮官殿」
「なんだ」
「行軍中の奴隷共に木を拾ってくるように命じたのですが、倒木や落枝が全く無かったと言うのです」
「そんなもの奴隷たちの怠慢であろう!
明日は領兵の監視をつけろ!」
「はっ」
その夜、周囲の気温はマイナス5度になっていた。
そのために、従士長閣下の朝食用を除いて、薪は全て燃やし尽くされてしまったのである。
翌日の行軍では、領兵たちも大勢森に入った。
だが、誰も薪になりそうな落木は見つけられなかったのである。
あるのは何故か湿った落ち葉だけだった。
「申し訳ございません従士長閣下。
薪を使い果たしたため、領兵と奴隷たちに森の中を探させたのですが、薪を見つけることが出来ませんでした。
明日には銅斧で枝を落として薪を用意させますので、今晩は焚火無しでご容赦頂けませんでしょうか」
「なんだと!
な、ならばサトシーに我が天幕の中で一晩中火魔法を使わせろっ!」
「あ、あの、わたくしの火魔法は1分が限界なのですが……」
「ちっ! 使えん奴め!」
従士長も従士たちも、碌に装備も持たない中で、マイナス8度の環境は堪えたようだ。
天幕の中で筵に包まっていても、寒さのあまり眠ることが出来ないのである。
気温25度の結界に包まれている奴隷たちはぐっすりと寝ている。
胃への直接栄養補給もあって元気いっぱいだった。
翌日は行軍を一旦停止して薪集めが行われた。
領兵の監視の下、奴隷たちを木に登らせて銅斧で枝を落とさせたのである。
これを別の奴隷が銅鉈で小さくして、大量の薪が集められていったのだ。
従士たちの幕営地では早速火が焚かれた。
だが……
「なんだこの薪は!
なぜ火を囲んで薪の山を置いてあるのだ!
これでは我ら従士が火に当たれんではないか!
すぐにどけろっ!」
「従士さま、これは……」
「喧しいっ!
従士の命令が聞けんのかっ!
無礼打ちにするぞぉっ!」
「は、はい。
すぐに片づけますです」
そして……
従士たちは早速焚火を囲んで暖を取ろうとした。
だが、その焚火から猛々と煙が出始めたのである。
「な、なんだこれは!
なぜこんなに煙が出るのだ!」
あの、生木を燃やしたらそうなるのは当たり前ですね。
薪は最低でも半年、出来れば1年近く乾燥させたものでないと煙でエラいことになりますから。
「これは火の大きさが小さいからに違いない。
参謀殿、もっと焚火に火魔法を入れてやってください」
「わ、わかった」
サトシーの魔法で火は大きくなった。
だがその分、煙の出もまたよくなったのである。
従士たちは風上に陣取った。
従士長閣下も従僕たちに椅子ごと抱えられて焚火の真ん前にいる。
だが、シスくんのいたずらで風向きがくるくる変わる。
従僕たちはその度に従士長殿の巨体と椅子を抱えて動きまわっていた。
嗚呼、あの焚火の周りに置いてあった薪は、最初の焚火で煙が出るのは仕方ないにしても、せめてその後は煙が出ないように薪を乾燥させようとするものであったのに……
自分では薪を燃やしたこともない従士たちの無知が、従士たちを煙で苦しめているとは……
「サトシーよ、まだ寒くて敵わん。
火魔法により、もそっと火を大きくせよ」
「はっ!」
焚火の上にさらに枝が積み重ねられた。
その中に直径20センチほどの火の玉がふよふよと飛んで行く。
ばうん。
焚火の火が10倍ほどに膨れ上がった。
もちろんストレーくんのいたずらで、火魔法の着弾とともにガソリンが転移されたのである。
「「「 うあちゃちゃちゃちゃぁぁぁぁぁぁ―――っ! 」」」
従士長殿を初め、従士たちの顔面を火が襲った。
一瞬の事とあって深刻な火傷を被った者はいない。
だが、前髪と眉毛と睫毛が焼失し、全員が火星人のような顔になっていた。
そして、氷点下の環境で焚火をしたことがある方はよくお分かりだろうが、こうした裸火ではほとんど体は暖まらない。
火を見て暖かくなった気分にはなるが、体温はほとんど上がらないのである。
彼らは竈に火を移して暖かい粥を食べようやく少しは暖まったが、それでも行軍もせず薪作りもしていなかったので、暖かくなるまでには至らなかったのであった。
その分、麦粥は大量に消費された。
「あの、ボケマッチョ指揮官殿。
これより薪集めと同時に、奴隷たちに狩りや採集も行わせてよろしいでしょうか。
遠征開始前の作戦会議では、途中食料調達もしながら行軍することになっておりましたし」
「それではそのように命じろ。
ウサギや鳥を狩って、従士長閣下に召し上がって頂くのだ」
「はっ」
もちろん、行軍路の左右30キロにいた鳥獣やそこにあった木の実などは、既にシスくんによって遥か離れた地に転移させられている。
「なんだと!
あれだけの数の奴隷で森に入って、ウサギ1匹獲れなかったというのか!」
「は、はい、如何なる動物もいなかったそうでして」
「むう……
それでは奴隷共の食事を減らせ!
2日に1度の食事を5日に1度にするのだ」
「は、はい……」
奴隷たち:
「な、なあ、もう4日も何も食べていないのに、なんでオラたちひもじくねぇのかの」
「んだんだ、不思議なこともあるもんだ」
「それに領兵殿や従士殿たちが酷く寒そうにしているのに、オラたちはぜんぜん寒くないの」
「魔獣も出て来ないし、なんでだろうかのう……」
「きっと神さまがオラたちを憐れんで助けて下さってるんだべ……」
惜しい!
憐れんで助けて下さってるのは神さまじゃあなくって神の使徒さまでした!




