*** 359 法衣貴族監督部 長官補佐 ***
ロゴス家令の説明は続いていた。
「ですがみなさま、ご当主さまがもしその書面にご署名されていなければ、今頃この栄えあるボツリヌス子爵家は、借り麦の返済が出来なかったとして男爵家に落とされ、そのご領地の半分近くが国に没収されていたのですよ」
「そ、そんなもの!
領兵と農民兵を結集して抵抗すれば、あ……」
「そうです。
それを行ったヴェストファーレン伯爵とその寄子貴族領は、僅か人口106人の極小領地に封じ込められてしまったのですね。
しかもそのうちの半数以上である50名が貴族家関係者でして、家臣や農民はたった56名しかいないのですよ」
「「「 ……… 」」」
「ですから、今ボツリヌス家が子爵位に残れているのも、フォッケウルフ閣下とご当主さまのご英断によるものなのです。
たとえ新国法の内容を知っていたとしても、それを受け入れる以外の道は無かったでしょうね。
もしくは、そもそも王家から借り麦を受けなければよかったのです。
麦を借りていなければ返済の必要もございませんでしたので」
「だ、だが、その麦は臣下に配ってやったではないか!」
「領兵の扶持麦は本来年2石の約束でしたが、領内の不作のために7斗しか渡していませんでした。
そして、借り麦の一部分を使って、領兵には追加で3斗ずつ配っただけでした。
残りの大半の借り麦は、皆さまの衣装代と酒代に消えています。
翌年も不作であった場合は如何返済なさるおつもりだったのでしょうか……」
「そ、それはフォッケウルフ閣下が、全員が返済出来ずと言えば、王家やケーニッヒも認めざるを得ないだろうと仰ったからであって……」
「それが罠だったのですよ」
「「「 !!!!! 」」」
「フォッケウルフ伯爵閣下を初めとして、その寄子貴族家の方々は、まんまとあのダイチ閣下の罠にかかってしまったのです。
返済する気の無い麦を借りて散財してしまった時点で、もはや法衣貴族化を受け入れるか、内戦を起こそうとして封じ込められてしまうかのどちらかの未来しか残されていなかったのですから。
その罠に確実に喰いついてもらうために、あの借り麦は期限は有っても利息は無かったのです」
「「「 …………… 」」」
「わたくしは、新国法が発布されてから施行されるまでの間に、新国法を読み上げてご説明するご進講を提案させて頂きました。
それは、もし新国法施行までに180名の家臣を退職させていれば、退職金を払う必要が無かったからなのです」
「「「 !!!! 」」」
「ついでに申し上げれば、ご当主さまとご長男さまと家宰さまはそのご進講の途中で寝てしまわれ、加えてお起こし申し上げようとしたわたくしに退出を命じられたのですから、その責任はご長男さまにもあるのですよ」
「はうっ!」
今度は長男が皆から睨まれている。
「それでは、平民に落とされないための方策としてもう一つ。
みなさまは読み書き計算を学ばれる必要がございます」
「なぜだ……」
「それは国法に潜む貴族家に対する罠に対処するためでございますね。
ご自分で法を読み、その真意を理解されるのが目的です」
「な、なにを言うか!
お前のような者が読み、それを我が一族に伝授すればよかろうっ!」
ロゴス家令は子爵家の者たちを見渡して微笑んだ。
「国法や契約書を読み上げてご進講申し上げた際に、僅か1分で皆さま寝入ってしまい、起こそうとしたわたくしめを怒鳴りつけて退出させたのです。
そんな皆さまが、本当に我が伝授を聞いて下さいますのでしょうか。
それよりも、わたくしめが申し上げたことをご理解されずに法を犯し、そのため降爵されたことでわたくしを逆恨みされ、無礼打ちになさる未来しか見えませぬ」
「「「 あぅ…… 」」」
「まあそうなれば、一介の平民であるわたくしが、栄えあるボツリヌス貴族家を平民に落とすことになるので名誉なことでもありますが、わたくしが生き返るわけではございませんので」
「「「 ………… 」」」
実はこの『法律などの難しい文を読んだり聞かされたりするとすぐに眠くなってしまう』『酷いときには平易な小説を読んでいても、すぐに眠くなってしまう』『故に自分から文章を読もうとしたことはない』というヒトは、現代日本でもかなりの人数がいるのである。
さらには、説明文や論説文を読んでも、その中身をほとんど理解出来ない者もいる。
これは一種のLD(学習障碍)であり、その対策も処方も未だ確立されてはいないのだ。
LDとは、一般には『字を思い出せず書けない』という者を言うようだが(重度LD者には、自分の名前すら書けなくなる者もいる)、『字は書けるが文章を読んでも理解出来ない』という者もまた多いのである。
(例えば取説を読まずに家電の操作方法を常に人に聞こうとする者などである。女性や老人に多い)。
教師たちはこうしたLDなどについての精神医学系知識が極めて乏しいため、文章を読んでも理解出来ない生徒たちを単なる『怠け者』と見做している。
受験の科目に国語が有り、その中に説明文や論説文があるのは、こうしたLD者を排除しようとする社会的差別であろう。
また、学生を採用する企業も、業務に関連する法規やマニュアル、社内文書などを読めない/読めても理解出来ないという人材を採用したがらないのは当然であると主張している。
以前、『なろう』に掲載されている小説のあらすじに、『頭カラッポにして読める作品です!』と書いてあったのを、『頭カラッポなひとでも読める作品です!』と見間違えて驚愕してしまったのは完全な余談である。
(その小説は、ふりがなを多用して表現も子供向けになっていた。
あながち読み間違いではなかったと妙に感心してしまったのを覚えている)
つまりこれは、文章は理解出来なくとも、奇矯な表現やフィーリングだけでも楽しめると言っているのだと思われる。
これは完全に単なる筆者の感性によるものなのだが、漢字にふりがなを多用するという行為も、著者として読者を侮っている行為としか思えないのだ。
要は、『お前らこの漢字読めないだろ』と言っているのに等しいのだと思っている。
従って、筆者が漢字にふりがなを振る時は、その漢字が常用漢字ではない場合(例:総攬把)、いくつかある読み方の内、読者にそう読んで欲しい場合(例:(女子ではなく、女子と読んで貰いたい場合)、もしくは日本語の表現力不足を補う場合(例:強請るではなく、強請ると読んで欲しい場合)などである。
発達障碍閑話休題。
「それから、申し遅れて済みませぬ。
わたくしは、明日よりお暇を頂戴したく思います」
「な、なんだと!
許さん! 絶対に許さん!
お前はこのボツリヌス子爵家に留まり、あのダイチとかいう若造の奸計から我が子爵家を守るのだ!」
「あの……
国法第3条の規定により、民は様々な自由を有することになったのですよ。
その自由の中には『職業選択の自由』というものもあり、これは誰にも強制されること無くその職を選べるというものであります。
そしてもちろん、その自由には今までの職を辞する自由というものも含まれているのです。
もしも職を辞そうという被雇用者を雇用主が妨害した場合、その雇用主は例え貴族家と雖も国法違反で捕縛されてしまうでしょう」
「な、ならばお前を昇格させてやろう!
そこに座り込んでいる無能な家宰を馘にして、お前を次期家宰としてやるぞ!」
「ひぃっ!」
ロゴス家令はまた微笑んだ。
「実はわたくしは、王都で他の貴族家の家令の方々とお話させて頂いている間にさるお方さまの目に止まりまして。
宰相府に新設されます『法衣貴族監督部』という宰相閣下直属の部署に招聘して頂けたのです」
「なに…… 宰相府だと……」
「そのお方さまによれば、わたくしが提唱した『貴族家従業員の生存確認制度』というものにいたくご興味を引かれたそうで、その立ち上げをしてくれとのことでした。
その生存確認のために『法衣貴族監督部』を訪れた貴族家家臣たちには、その貴族家の様子を尋ねることも出来るでしょう。
これによって法令違反もかなり容易く見つけることが出来ると思われますと申し上げたところ、その場で長官補佐職への採用を申し出て頂けたのです。
因みに長官職は宰相閣下がご兼務されておられますので、実質的にその組織の長はわたくしになります。
そして、既に辞令も頂戴しておりまして、その人事は宰相府の広報にも記載されておりますのです」
「「「 ………… 」」」
「つまりまあ、万が一わたくしを無礼打ちになどされると、それは宰相府の長官補佐を殺害したことになり、その方や無礼打ちを命じられた方が縛り首になるのは当然として、その貴族家は全財産没収の上平民に落とされて国外追放になるでしょう」
「「「 !!!!!! 」」」
「そ、その『法衣貴族監督部』とやらは何を監督するというのだ!」
「まあ、貴族家の内情に詳しいわたくしに貴族家を監督させて、法を守らせるだけでなく、法令違反の罪でどしどし貴族家を降爵もしくは改易させよというご要望のようですね」
「な、なななな……」
「お、お前にはこのボツリヌス子爵家に対する忠誠心というものは無いのかっ!」
「実は僅かながらも忠誠心は残っていたのですが……
先ほど、ご当主さまがご長男さまに『拷問にかけてでも解決策を吐かせよ!』とお命じになられた時点で、残された僅かな忠誠心が雲散霧消してしまったのですよ」
「なっ……」
「老婆心ながら申し上げますが、通常そのようなお言葉を聞いた家臣はお家に対する忠誠心を持たなくなりますのでお気を付けくださいませ。
ましてこれからの新国法の下では、臣下は忠誠心ではなく雇用契約によって雇われた者になるのですから」
「「「 ………… 」」」
「それではみなさま、これにて失礼をばさせて頂きますが、ボツリヌス法衣上級子爵家がこれからも存続出来ることを、心よりご祈念申し上げておりますです。
ですが、その道は非常に困難な道でしょう。
なにしろ法を犯せばすぐに貴族家が無くなってしまうのですから。
法を読んだこともなく、内容も知らず、その法を遵守することを家臣に頼っておられるようでは、いつ何時どなたかが捕縛されてお家がお取り潰しになるかわからないのですぞ。
その家臣が全てを知っているわけではありませんし、その家臣が申し上げたことを皆さまがご理解下さるかどうかもわからないのですから」
「「「 ……………… 」」」
「それではみなさま、ごきげんよう」
それからしばらくして。
同じフォッケウルフ伯爵の寄子であったトキシン子爵の王都邸では、当主の法衣上級子爵閣下が大笑いしていた。
「聞いたか家宰よ!
あのボツリヌスめは法衣貴族となって王都邸に居を移す際に、家臣をそれまでの200名からなんと20名にまで減らしたそうじゃ!」
「それはそれは。
あのボツリヌス子爵めは、貴族の権勢というものを全く理解しておりませんな。
家臣の数がたったの20名とは」
「わはははは、下賤なる商人でも下僕を50人は抱えておる者はいるだろうに。
あ奴も平民以下に成り下がりおったか!」
因みに、このトキシン子爵家の前家令は字が読めたために国法も読んでいた。
だが、当主の『家臣は全員召し抱えたままでいること』という命令を聞いて、高齢を理由に隠居を申し出、当主の遠縁の者に家令職を譲っていたのである。
そうして元の子爵領にある平民街の家に避難していたらしい。
家臣全員召し抱えは不可能であると奏上しても、それが聞き届けられずに降爵になった場合にも、その理由を奏上しなかった(=阿呆な貴族家当主に理解させられなかった)という罪を問われて、どちらにしても無礼打ちになると気付いたためである。
前家令はまだ貴族家家臣の安否確認制度については知らなかったが、もし知っていたとしても、あのプライドが高く激昂しやすいテトロ当主に無礼打ちにされる未来しか見えなかったからだった。
もちろん新たに家令になった者も、貴族家遠縁の者であるという嗜みとして、読み書き計算などは下賤の者のすることだと忌避していたために、誰も国法に隠された罠には気づかなかったのであった。
そうして、テトロ当主の命令を遵守するために、新任の家令は200人もの家臣の家族を王都邸の周囲に住まわせなければならなかったのである。
ここで法衣貴族年金の大半が尽きていたが、新家令は引き算すら出来なかったためにこれにも気づいていなかった。
加えて、1月末に支払わねばならない家臣たちの給金も、いくらになるか全くわかっていなかったのである。
そしてもちろん、トキシン法衣子爵家が200名もの家臣を召し抱えたままだという事実は、生存確認に訪れる家臣たちを通じて、宰相府に新設された『法衣貴族監督部』の初代長官補佐、ロゴスの耳にも届いていたのだ。
翌月になると、ロゴスは新国軍の兵1個中隊を借り受け、部下と共にトキシン法衣子爵家に査察に入った。
そうして家臣たちから給金未払いの事実と、子爵家の現金資産の残高を確認すると、国法に基づきトキシン法衣子爵の王都邸を接取して競売にかけたのである。
(因みに応札したのは唯一ゲマイン商会だけであり、最低目標価格より僅かに上乗せした価格での落札に成功している)
家臣たちには1月分の給与に加えて退職金1か月分も支払われたが、それで財産も競売の売り上げもほぼ無くなったらしい。
家臣の家族が住む家も全て賃貸であり、その家も明け渡さなければならなかったために、家臣の全員が雇用者都合の退職をすることとなったからである。
哀れトキシン法衣子爵とその一族は、僅か1か月にして家臣はいなくなり、無一文になった上で住む邸さえも失ったのだった。
テトロ・ド・トキシン法衣上級子爵家当主は、衝撃と怒りで発狂寸前だったらしい……
激昂のあまり、思わずロゴス長官補佐を無礼打ちにしようとしたところを国軍兵士に取り押さえられている。
そのために、『公務執行妨害』と『殺人未遂』の罪で捕縛され、その咎で爵位も剥奪されてしまったのだ。
新国法施行以前の常識では、貴族を捕えられる者も裁ける者も王族か上位貴族のみだった。
それが、こともあろうに平民に捕縛されて牢に収監されてしまったのである。
それまではまだ法衣子爵位は持っていたために、もしも大人しくしていれば、あと10か月少々でまた法衣貴族年金が受け取れたはずなのに……




