*** 337 ベリベリー病 ***
全員の前に粥の入った小さな器が出て来た。
一緒に小さなスプーンと水の入ったコップも出て来ている。
「それではみなさん、この麦粥を食べてみて下さい。
粥と一緒に出て来たスプーンで少量だけ口にして、すぐに水も飲んで下さいね」
「うわっ! な、なんだこれはっ!」
「い、いくらなんでも塩の入れすぎだろう!」
「うう、口の中が痺れている……」
多くの者たちが騒いでいる中で、ゲゼルシャフト王国厨房部の職員たちは項垂れていた。
「おい小僧っ!
俺たち王城厨房員になんてものを喰わせるんだ!」
ゼルゴー厨房部長と副料理長たちは真っ赤な顔をして怒っている。
「あれ?
その麦粥は、あなた方が昨晩ゲゼルシャフト王城の職員用食堂で出されたものですよ?」
「な、ななな、なんだとぉっ!」
「昨日の味付けはブイルト副厨房長さんでしたよね。
普段ならば若い厨房部員たちがこっそり湯を入れて薄めているのですが、昨晩はブイルトさんがその場に残っていたために、やむを得ずそのまま出したそうです」
「き、貴様ら将校が味付けした粥を薄めていたのかぁっ!」
厨房部員たちはその場で俯いたままである。
「最近ではそれでも塩が濃すぎるので、城の職員の皆さんは自宅から弁当を持って来てそれを食べているそうですよ?
それでも、そのような余裕の無い若い方たちは、食堂に水筒を持参してさらに薄めて食べているそうです。
だいたい粥の量の5倍は水を入れないと食べられないそうですねぇ。
しかもここ3か月でますます塩味は濃くなって来ているそうですし」
真っ赤な顔をしたゼルゴー厨房長が、若い厨房員たちに向き直った。
「貴様ら何故それを言わなかったぁ!」
ほとんどの若い厨房員が俯いていたが、数人の年長の男たちが顔を上げた。
「何度もご指摘しましたよ」
「な、なにっ……」
「もっとも、そのたびに酷く殴られましたけど。
上官に反抗したとか言って。
反抗ではなく単なる指摘だったんですけどね」
「それで、可哀そうにヤンゼイの奴なんか何度も殴られたせいで気を失っていましたけど、あんたがたは医務室に運ぶなと叫んでいましたよね。
やはり、私刑は軍規違反だとご存じだったようだ」
「き、貴様ら俺に逆らおうってのか!」
「逆らっているんじゃありませんよ。
事実を述べさせて頂いてるだけです」
「そ、それが逆らってると言うんだぁっ!」
「よく言ってくださいました。
後で他の件も報告していただけますか。
わたしがアマーゲ閣下に報告に行く際に一緒に行って下さい」
「は、はい……」
「も、もしそんなことをしてみろっ!
お前を馘にしてやるっ!
ついでに軍にも手を廻して、予備役も不名誉解任にしてやるぞっ!」
「なるほど、今まではそう言って若い方たちの告発を封じていたんですねぇ。
ついでに軍のどこの誰に手を廻すのかも教えていただけますかぁ?
その方がどなたなのか、アマーゲ閣下もたいへんに興味を持たれると思いますので♪」
「ぬぐぐぐぐ……」
「まあ、今までに不名誉解任になった厨房員さんたちの人事記録を見れば、あなたが誰とツルんでいるのかはすぐにわかりますけどね。
閣下には、解任命令書にサインをした将校をすべて調べ上げるよう、ご助言申し上げましょう」
「がぎぐぐぐぐ……」
ゲマインシャフト王国の厨房員たちの席で手が挙がった。
「ビスケロ厨房長殿どうぞ」
「そ、その『あえんぶそくびょう』という病気は、今見せて頂いたように治るおものなんですか?」
「はい。
今は魔法で治しましたが、魔法以外にも治す方法はあります」
「どうしたらそのような病気に罹るんでしょうか。
あの病気は我ら厨房員たちにとって、とても恐ろしいものだと思います。
ひょっとして、近くにいる者にうつったりするのですか?」
その場の皆が無意識にゲゼルシャフト王国の席から離れようとした。
「いえ、直接にはうつりません。
ですが、こうして一度に大勢が罹ることが多い病です」
「あの、防ぐ方法はあるんでしょうか……」
「あります」
皆がほっとしている。
「この料理学校では、料理の方法を教えることはもちろんですが、こうした病気の知識とそれを防ぐ方法、それから治す方法も教えていくことになります」
「まだあと2つありましたね。
確か『べりべりー』と『まんせいあるこーるちゅうどく』でしたか。
その病についても教えていただけるのでしょうか」
「もちろんです。
これらの病は全て飲んだり食べたりするものが原因で起こります。
厨房の責任者や料理師になろうとする者は、それらを全て知っておく必要がありますので」
「そ、それは医官たちの仕事なのではないのでしょうか……」
「みなさんの国の医官の仕事とは、戦で傷ついた兵の治療がほとんどになります。
ですから、こうした病気の知識は全く持っていないのですよ。
昔、ニホンという国では国中でこの『ベリベリー病』が大流行していました。
そして、大きな戦が起きると、戦地に派遣された軍人のほとんどがより重篤な症状を発したのです。
ですが、軍医たちにはその病の原因と治療法が全く分かっていませんでした。
その戦では多くの兵が死にましたが、敵の武器にやられて死んだ者よりも、この『ベリベリー病』で死んだ者の方が多かったと言われています。
そして、この病に罹ると、手脚が浮腫んで動きが鈍り、眩暈もします。
ですから敵の武器で死んだ者も、この病で動きが鈍くなったことが原因だったかもしれません。
ゼルゴー厨房長さんと副厨房長さんたちの手脚はかなり浮腫んでいます。
また、最近では眩暈も酷く立っているだけでも非常に疲れるようです。
ですから厨房長さんたちは、最近ではほとんど料理もせずに座ったまま部下に命令ばかりしているんですよ。
これもベリベリー病の末期症状ですね」
「ぬぐぐぐぐ……」
「なんと……」
「因みにみなさんは、この『ベリベリー病』のことを『貴族病』と呼んでいますね」
「た、確かに貴族病の症状です。
で、ですが、貴族病を治す方法などは、とてもではないですがわからないのでは……」
「あの病を治す方法は簡単です。
小麦を脱稃して白い胚乳だけを食べるのではなく、全粒のまま殻や胚芽も一緒に食べれば治ります」
「「「 えっ! 」」」
ゼルゴー厨房長と副厨房長たちが固まっている。
「なぜ殻や胚芽も一緒に食べると貴族病に罹らないのか。
また既に罹っているひとが何故治るのか。
これもこの学校で詳しく教えることになるでしょう」
「あの、あなたさまはなぜそのようなことをご存じなのかお伺いしてもよろしいでしょうか……」
「実はわたしはワイズ王国出身なのではなく、別の国の出身なのです。
そうして、わたしの母国では、こうした病を治す方法を何万人もの医官たちが何百年もかけて研究して来たのです。
わたしはその成果を教えてもらったに過ぎません」
「そ、そんなに貴重な秘法を我らにも教えて頂けるというのですか……」
「はい」
その場のほとんどの者たちが感激している。
「さて、この学校のもうひとつの目的は、旨い料理を作れるようになることです。
それでは、我が校が誇る最上級料理師が作った最高の料理を試食して頂きましょうか。
品数が多いためにどれも少量ずつになりますが、その点はお許しください。
また、配膳はわたしが魔法で行います」
各人の前にホンマグロの中トロとアマエビの刺身(切り身)が出て来た。
「こ、これは?」
「海の魚とエビというものの刺身です」
「ひょっとして生のままなのですか?」
「この魚とエビは生で食べられますので。
わたしの国の商会が昨日海辺の村で仕入れて来たものです」
「そ、そのような貴重なもの……」
「ふん!
こんな生のままのものを『料理』と言い張る気か!」
「刺身の横に小皿に入った黒い液体がありますでしょう。
最初は一口だけそのまま召し上がって、その後はその黒いものをつけて食べてみてください。
因みに、その黒い液体は、半年ほどの時間をかけて作られたソースです。
生の魚に非常によく合いますよ」
「旨い……」
「魚が口の中で蕩けていくようだ……」
「この『えび』というものも実に味わい深くて旨いぞ」
「確かに生の魚にこの黒いソースはすごく合うな……」
「それにしても、半年もかけて作ったソースか……」
「ですがダイチ殿、海の魚や『えび』など、高価過ぎてとても王城の食堂では出せないのでは」
「今後、わたしの国の商会がこの魚とエビを皆さんの国に売る予定になっています。
そうですね、その小さな皿の分でしたら、値段は銅貨3枚ほどになるでしょう。
毎日は無理としても、週に1度か月に1度、麦粥とスープに合わせて出したら王城の職員さんたちも喜ぶのではないでしょうか」
「このように旨い物、確かに喜ぶでしょうな……」
「次はウインナーです」
「『ういんなー』ですか?」
「ええ、羊の腸に羊の内臓や肉を入れて茹でたものですね。
まあ食べてみてください」
「こ、これも旨い……」
「肉などという高価なもの……」
「こ、これは肉や内臓だけでなく、他にもたくさん入っているぞ」
「ああ、こんなに旨い物を喰ったのは初めてだ」
「あ、あの!
これは1本おいくらなのでしょうか!」
「街の食堂には1本銅貨1枚で卸して、5本で銅貨8枚で売る予定です」
「そ、それならやはり月に一度は王城の食堂で出してやれるかもしれませんな。
ところで、この『ういんなー』の作り方も教えて頂けるのでしょうか……」
「はい」
厨房員たちがザワついた。
ゼルゴー厨房長たちは悔しそうに歯を噛みしめている。
「それでは次に羊の肉を焼いたものを試して頂きましょう。
まずは13歳の羊の肉をそのまま焼いたものです。
非常に硬いので歯で噛み切るのは無理でしょうから、そのように小さく切ってあります」
「確かに硬い……」
「味は旨いのだが、やはり噛み切れんな……」
「それでは同じ羊の肉を『料理』したものを試してみて下さい」
「こ、これは旨い……」
「なんという柔らかさだ……」
「あ、あの!
これは本当に先ほどと同じ羊の肉なんですか!」
「ええ同じです。
あのように硬い肉も、こうして料理してやることで柔らかくなってさらに美味しくなるんです」
「素晴らしい料理の技ですね……」
「次は粥を試してみてください。
この粥は小麦だけでは滋養が偏るために、小麦以外の穀物を9種類入れたもので、我々が『穀物粥』と呼んでいるものになります。
上に乗っている黒い板のようなものは、昆布と言って海の中に生えている海藻です。
その昆布を食べていれば『遠征病』には罹りません」
「す、すごい……」
「こ、これは、ものすごく複雑な味がする」
「しかもただの麦粥よりも圧倒的に旨い」
「この穀物粥には100グラムにつき塩が1グラム入っています。
普通に暮らしている人にとっては、最も美味しく感じられる量ですね。
ですが、例えば激しい鍛錬をしている兵士などは、汗と一緒に体内の塩が外に出て行ってしまっているのですよ。
ですから、兵士たちにとってはこの粥の味は物足りなく感じられることでしょう。
軍の食堂などでは、1グラムではなく1.8グラムほどにしてやるといいと思います」
「な、なるほど」
「このように、ヒトは体内にある塩の量を一定に保とうとするのです。
その割合は、100分の1を僅かに下回る量でして、例えば体重70キロのヒトでしたら、体内の塩の量は650グラムほどになります。
先ほどのようにもの凄く塩の量が多い粥などを食べると、水を飲みたくなりますよね。
あれは、水を飲んで体の中の塩の割合を減らそうとする行動なんです」
「そうだったんですね……」
「塩という物はヒトにとって絶対に必要なものです。
例えば全く塩を口にしなければ、ヒトは1か月も経たないうちに死ぬでしょう」
「「「 えっ…… 」」」
「ですが、塩を摂り過ぎても死にます。
非常に大量に食べればすぐに死にますし、そこまで大量でなくとも多すぎる量を毎日食べていると寿命が短くなるんです」
「そ、そうだったんですね……」
「同じことは水にも言えるでしょう。
水を飲まなければヒトは3日で死にますが、飲み過ぎても死にます。
例えば、何人かで誰が最もたくさんの水を飲めるかなどという賭けをするのは絶対に止めてください。
そのうちの何人かは死にますので」
「「「 ………… 」」」
「ヒトが1日に摂る塩の量は、男性で8グラム、女性で7グラムがいいとされています。
今小皿に8グラムの塩を盛って出しますのでよく見てください」
「こ、これが8ぐらむ……」
「多いような少ないような……」
因みに……
現代日本では高血圧やらなんやらで塩分制限を課されているひとは実に多い。
通常は8グラム、病によっては6グラムに制限されていたりする。
だが、不思議なことに、この『8グラムの塩』というものを、塩として実際に見たことのある人は実に少ないのである。
また、塩の比重や粒のままの体積当たり重量も知らないのだ。
(塩の比重は2.16。
粒の間に隙間があるため、嵩当りの比重は約1.1、つまり水とほぼ同じであり、塩7ccが約8グラムに相当する)
減塩を相当に気にしているくせに、そうした基本的事実を知らない人に会うたび、そのヒトがアフォ~に見えて仕方無いのである……




