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*** 316 シェフィーちゃんの鰻料理 ***

 


 シェフィーちゃんはまず大きなボウルに氷を入れて、たくさんの塩と少しの水を加えた。

 その中に鰻を入れて低温仮死状態にする。

 その間にケトルで湯を沸かしていたが、湯気が出始める前に火を止めていた。


 ついでカバンの中からノズルの付いた短いホースと布タワシを取り出している。

 板長の目が細くなった。



「あの、タレも作ってみてもよろしいでしょうか」


「もちろんだ」


 シェフィーちゃんは板場に置いてあった2種類の味醂と3種類の日本酒、3種類の醤油とをそれぞれ小皿に取った。

 それを全て匙に取って舐めてみてから大きな器に入れているが、その量はそれぞれで違っていた。

 どうやらブレンドさせてタレを作ろうとしているようだ。

 味醂と酒と醤油の銘柄は静田がメモしている。


 シェフィーちゃんはそこで手を止めた。


「どうしたんだい?

 タレは作らないのかな」


「あの、味醂と日本酒を煮切るときに鰻の骨と半助(鰻の頭のこと)を焼いたものを一緒に入れたいと思いまして……」


 副板長が仰け反った。

 タレに焼いた鰻の骨と半助を沈めておくのは鰻料亭の秘伝である。


 板長は笑顔になった。


「わかった、好きなようにやってごらん」


「ありがとうございます。

 それであの、灰汁抜き塩はありますか?

 隠し味に少し入れたいと思いまして」


「ここにあるから自由に使いなさい」


「はい」



 このころになると、板場の板さんたちがみんな集まって来ていた。

 この板場でタレを作ることを許されているのは、板長以外では副板長だけである。

 板さんたちは口を開けてシェフィーちゃんを見ていた。



 タレの準備が整うと、シェフィーちゃんは鰻をまな板の上に乗せた。

 低温仮死状態になっている鰻はほとんど動かない。

 シェフィーちゃんはそっと手を合わせて目を瞑った後に、鰻の頭の横にすぅっと鰻裂きを滑らせた。

 鰻は微かに身を捩らせただけである。


(よほど上手に脊髄と大動脈を裂いたようだな……)



 シェフィーちゃんはシンクの中にまな板ごと鰻を持って行き、まずはケトルのお湯を鰻に注いだ。

 ちょうど60度にしてある湯からは微かに湯気が上がっている。

 そのままケトルをコンロに戻して今度は沸騰させていた。


 次は布タワシで鰻の体をやさしくこすり始めた。

 尾の方から頭の方にかけて軽く絞るように擦っている。

 要は鰻の体表のぬめりを落としながら血抜きをしているのである。

 ほとんどの鰻屋が手間を惜しんで省略する作業だった。


 次にシェフィーちゃんは蛇口を捻ってノズルから水を出し、ノズルを鰻の体に差し込んだ。



 捌いた魚を水に晒すのはご法度である。

 水の溶解能は実に強く、すぐに魚の旨味が水に溶けて流出してしまうからである。

 板さんたちは多くが手を伸ばしかけながら板長と副板長を見ていた。


 だが……

 板長と副板長だけは知っていたのだ。

 これは、鰻の産地で獲れたての鰻を刺身で食べさせるときの血抜きの技法だったのである。


 鰻の血は高温で無毒化されるものの、そのままでは有毒だった。

 ギリギリ火が通った柔らかい鰻にするには、やはり血は出来る限り取っておきたいのである。

 鰻を開く前に腹腔や動脈に水を入れれば、鰻の身から旨味が出て行くこともない。


 この手間も惜しんで省略する鰻屋が多いが、その分鰻は焼かれ過ぎて固くなってしまう。

 絶妙な焼き加減の鰻を供するには必要な作業だったのである。



 ようやく下処理を終えたシェフィーちゃんは、目打ち釘を打ってから鰻を捌き始めた。


 びっ。しゅっ。するっ。


 軽快な音と共に、鰻が背開きにされて行く。

 開かれた鰻から骨を剥がすと、彼女はその骨に顔を近づけてまじまじと見ている。


(小骨は14本残っているわね)


 彼女は鰻裂きの先端を使って器用に小骨を取り出した。

 あっという間に全ての小骨が取り除かれている。

 その後はヒレを外し、内臓を取り出してキモを分けた。

 熟練の職人も及ばぬ早業である。


 このとき、板長と副板長だけが気づいて硬直していた。

 鰻の身にどれほど小骨が残っているかどうか知るために、まず剥がした骨を見てからどこにどれだけ小骨が残っているかアタリをつけるとは。

 これこそが『裂き』の奥義のひとつである。



 その後は身を切り分けて、串を打って行った。

 その手際には全く躊躇いも無い。


 裂き3年、串打ち8年と言われる作業があっというまに終わった。



 シェフィーちゃんは炭火グリルの一段低くなっている場所に骨と半助を置き、高い段で軽く鰻を炙った。

 その後はすぐに火から降ろし、ケトルの湯を張った蒸し器に入れている。


 暫くすると、よく焼けた半助と骨を鍋に入れ、まずはグラニュー糖、味醂2種類と酒3種類を入れて火にかけた。

 手早くかき混ぜながら灰汁抜き塩も入れて煮切りを作って行く。

 その間にも時折蒸し器に目をやっていた。


 最後に醤油を2種類入れて、ひと煮立ちさせてから火を止めた。

 火を止めてからも別の醤油を5滴ほど入れていたが、これは香り付けである。

 その後はグリルの炭を少し脇に避けていた。


(そうだ、そのままでは炭の量が多すぎたからな……

 それにしても、そんなことまでわかるのか……)



(あと5秒、4、3、2、1……)


 シェフィーちゃんは蒸し器の火を止めて鰻を取り出し、すぐに炭火の上に置いて白焼きを始めた。

 それからは、じっと鰻を見つめたままである。


(本当にすごいなこの子は……

 新米はすぐに鰻を動かしたがるものなのに……)


 暫くするとシェフィーちゃんは鰻をタレに漬けてから焼き始めた。

 また顔を近づけて鰻の焼き加減を見ている。

 しばらくするとまたタレに漬けて鰻を裏返した。


「おい」


「へい」


 副板長さんが小さな器を8個用意してくれた。

 その中にご飯も入れてくれている。

 鰻の身が水っぽくならないように、ほんの少し固めに炊いたご飯だった。


 シェフィーちゃんがグリルから鰻を取って再度タレに漬け、まな板に載せて串を外してから小さめに切り分けてご飯の上に乗せた。


 板長と副板長が鰻から外された串をまじまじと見た後に目を合わせている。


(おやっさん、串に鰻の身が全く残っていやせん……)


(ああ、すげえな……)



「お待たせしました。

 ようやく出来上がりましたので、どうかご賞味くださいませ」



 板長が器を持って鰻を口に入れた。


 目を瞑って一言「旨ぇ……」と呟く。


 副板長も鰻を口に運んだ。


「う、旨い……」


「なあ、蒸し加減も焼き加減もタレも完璧だな」


「はい……」


「ははは、まるで先代が最盛期に作ってくれた鰻丼を食べているようだ。

 なあお嬢ちゃん、これ誰から作り方を習ったんだい?」


「本を見て自分でも何度か作ってみて覚えました」


「すげぇな、明日からでもこの板場の板長を任せてもいいぐれぇだ。

 おい、お前ぇたちも頂いて勉強しろ」


「「「 へ、へい…… 」」」


「う、旨ぇ……」

「蒸しも焼きも完璧だ……」

「さらにこのタレも旨ぇ……」

「これに比べたら俺たちの作ったもんなんざぁ、ただの焼き魚だな」


「馬鹿野郎! 情けねぇこと言ってんじゃねぇ!」


「「「 す、すいやせん…… 」」」



 板場の隅では佐伯と静田もミニ鰻丼を口にして満面の笑みを浮かべている。

 女将も頂いていたが、目がまん丸になっていた。



「なあお嬢ちゃん、久々に初心を思い出させてもらったよ。

 これこそが俺の師匠だった先代の味だ。

 ありがとうな」


「こちらこそありがとうございました♪」


「そうだな、お嬢ちゃんは俺の一番弟子、いや兄弟弟子にしようか。

 一応年上の俺が兄弟子でお嬢ちゃんが妹弟子な」


「光栄です♪」


 板さんたちは皆ショックを受けているようだった……





 シェフィーちゃんは川の民の村でも鰻丼を作っていた。

 70人の弟子たちが真剣な表情でそれを凝視している。



 料理場の隅では炊飯の魔道具が湯気を上げていた。

 見た目は羽釜そっくりの魔道具である。


 因みに、羽釜とは米を最も旨く炊ける釜として知られているが、分厚く重い羽と呼ばれる蓋のせいで、軽い圧力釜としての効果を持っているのである。


 その羽釜型魔道具の下にある熱の魔道具には、いくつかのボタンと液晶表示がついている。

 料理場の隅には温度計と湿度計に加えて気圧計まで設置してあり、その数値を魔道具に打ち込むと、最適な炊き加減、すなわち『初めちょろちょろ中ぱっぱ』を再現してくれるのである。


(実際には『初めちょろちょろ』は弱火という意味ではなく、釜の中の湯の温度を70度前後の状態で10分ほど保つという意味なのだが)


 ここは標高300メートルほどの場所であり、気圧と気温によっては水の沸点が100度からかなり下がってしまう。

 これを調節して『中ぱっぱ』のときに、釜の中の湯の温度を米を炊くのに最適な110度にしてくれるという超優れ物な魔道具であった。


 大地に美味しい炊き立てご飯を食べて欲しいと願うシスくん入魂の逸品である。

 同じような釜で固めの麦粥を炊くものもあった。



 シェフィーちゃんは、簡単な説明をしながらどんどん鰻を捌いていった。

 尚、この川村で獲れた鰻はあまりに太く巨大だったために、背開きにするのではなく3枚に下ろして半身にして使っている。

 背開きなどにしてしまうと、幅が30センチ近くになって完全に丼からハミ出てしまうのである。



 見習いたちが真剣に見つめる中、シェフィーちゃんは次々に鰻を捌いていった。

 鮮度を保つために、1尾捌くごとにトロ箱に入れて見習いたちが時間停止倉庫に持って行っている。


 20尾の鰻を捌き終わると半助と骨が焼かれ始め、タレ作りが始まった。

 日本で買って来た味醂と酒と醤油がブレンドされ、グラニュー糖や灰汁抜き塩と半助や骨も使ってタレが作られていく。


 3回に分けて、中型寸胴3杯分のタレが作られた。

 寸胴2つはすぐに時間停止倉庫に仕舞われている。



 この地の大型鰻を使うと、1尾から優に8人前の鰻丼が作れる。

 試食用のミニ鰻丼ならば16人前であった。


 シェフィーちゃんは黙々と鰻に串を打ち、軽く炙って大型蒸し器に入れ、また白焼きにしたあとタレに漬けて焼き始めた。

 ひとつとして見習いには任せられない熟練の技である。


 焼きの合間をぬって、シェフィーちゃんは蒸らし終わったご飯や麦粥もかき混ぜた。

 このかき混ぜも実は熟練を必要とする難しい仕事なのである。

 釜の底や周囲についたおこげは旨いが、鰻丼には決して入れてはならないのだ。


 さすがに、小さな丼にご飯や麦粥をよそう作業は、何回か手本を見せて見習いたちにやらせている。

 見習いたちは、お手本の丼を見ながら真剣によそっていた。



 シェフィーちゃんは焼き上がった鰻から串を抜き、丼に乗せて次々にミニ鰻丼を作っていった。

 出来上がるたびに見習いたちがお盆にのせて時間停止倉庫に運んでいく。

 半分は固麦粥の鰻丼になっていた。


 10人前の普通鰻丼と300人前のミニ鰻丼を作り終わると、シェフィーちゃんは肝吸いも作り始めた。

 鰻の肝は20個しか無いため、普通鰻丼用の10杯の肝吸いと、あとは肝吸い風味のお吸い物300杯分を作っている。

 椀に入れて倉庫に仕舞う作業は見習いたちに任せていた。


 すべての作業を終えると、見習いたちが料理場の清掃を始めている。



 シェフィーちゃんは水を飲んで一息ついた。


「みなさん、鰻の料理を見ていてどう思われましたか」


「あの、手順を覚えるだけでたいへんだと思いました」

「蒸し加減や焼き加減が鮎や山女とは比較にならないぐらい大変そうでした」

「とにかくすごい料理だと思いました」

「あの泥魚にこんなに手間をかけるなんて」


 シェフィーちゃんは微笑んだ。


「それではみなさんで試食してみましょうか。

 今日はお米のミニ鰻丼を食べてみましょう」


「「「 は、はい…… 」」」



「な、なにこれ……」

「これ泥魚じゃないっ!」

「なんて美味しい食べ物……」

「泥臭くも魚臭くも脂臭くも無い!」

「小骨も無いっ!」

「美味しい美味しい美味しいっ!」


「あ、あの!

 なんで泥魚がこんなに美味しくなるんでしょうか!」


「それはまず泥抜きをしたからですね」


「???」


「この鰻は獲ってから3日間生け簀に入れていたでしょう。

 あの生け簀の中には泥がありませんから、鰻の体から泥がどんどん抜けていくんですよ」


「そ、そんな……

 そうしていれば、今までだって泥臭くない泥魚が食べられたんですね……」


「そうですね」


「なんで誰も気が付かなかったんだろう……」


「それから、捌いたときに丁寧に骨を取っていましたよね。

 だから骨が無かったのですし、そのために骨が喉につかえることも無いんです。

 それから、確かに鰻は脂が多いんですけど、本格的に焼く前に蒸し器に入れていましたでしょ。

 あれで脂がかなり落ちるんです。


 そのあと焼いているときにも脂が炭に落ちて煙が出ますけど、あの煙が鰻に香ばしい香りをつけてくれるんですよ。

 あとはタレの味ですかね。

 これらが美味しさの秘密です」



「あの、私たちがこんな美味しい鰻丼を作れるようになるまで、どのぐらいかかりますか?」


「そうですね、鰻専門の料理人さんたちは、『裂き3年、串打ち8年、焼き一生』とか仰ってますけど、ひととおり美味しい鰻丼が作れるようになるには5年も頑張れば作れるでしょう。

 タレを作るのも難しいんですけど、わたしの作ったタレを使えば3年で美味しい鰻丼を作れますかね」


「そ、そんなに……」


「3年なんてすぐですよ。

 慌てずに少しずつ覚えて行きましょう」


「あ、あのシェフィーさんは12歳ぐらいに見えるんですけど、そんなに小さいころから料理をしてたんですか?」


「うふふ、それは秘密です」





 その日の晩。


 大地が収納部屋の小屋に帰ると、戸口の前にシェフィーちゃんが立っていた。


 シェフィーちゃんは微笑みながら言う。


「ご任務お疲れ様ですダイチさま」


「どうしたシェフィー?」


「あの……

 川の村の鰻で鰻丼を作れるようになったんです。

 ご指示通り普通の鰻丼を10人前と、ミニ鰻丼をお米で150人前、固めに炊いた麦粥で150人前作っておきました。

 それで、最初にダイチさまにご試食頂けないかと思いまして」


「小屋の中で待ってればいいのに」


「そ、そんな……」


 シェフィーちゃんの頬が赤くなった。

(そんな奥さんみたいなこと……)


「まあいい、それじゃあ『クリーン』を浴びたら早速頂こうか」


「はい♡」



 大地がテーブルにつくと、時間停止収納庫から鰻丼が出て来た。

 鰻が水っぽくならないように蓋はされていない。

 鰻丼に蓋をしてはいけないのである。

 通人は、蓋をした鰻重は決して食べないそうだ。



「それじゃあ喰わせて貰おうか」


「はい♡」


 大地は箸で小さくした鰻をご飯と一緒に口に入れ、そのまま硬直した。

 すぐに丼に口を近づけてバクバクと鰻丼を食べ始める。


(ああ、私の作ったご飯をこんなに激しく食べて下さるダイチさま……

 ステキ……

 なんだかわたしが食べられてるみたい……

 うふふ、お腹の中の下の方が熱くなって来ちゃった♡)



 丼を空にした大地は、椀を掴んで肝吸いも一気に飲み干した。

 因みに最高の椀物は熱湯では作られないのでそうしたことも出来る。

 大地は大きく息を吐いた。


「なぁシェフィー、むちゃくちゃ旨かったよ。

 素材もいいんだろうが、お前の腕も最高だな。

 日本に持って行っても、間違いなく日本で一番旨い鰻丼だろう」


「あ、ありがとうございます……」


「うーん、これ月に1度ぐらいは食べさせてもらいたいなぁ」


「喜んで♡」


(ああ、ダイチさまの何番目かの奥様にしてもらえたら、毎日ご飯を作って差し上げられるのに……


 それにあの夢のセリフ、

『お帰りなさいアナタ♡ 

 お夕食を召し上がりますか? それともまずわたくしを召し上がりますか?』が言えるかも♡


 そうだ!

 その時はおパンツは脱いでおいて、スカートをめくりあげながら笑顔で言おうっと♡

 今度鏡を見ながら練習しておかなきゃ♪」



 ますます妄想を拗らせているシェフィーちゃんであった……






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