*** 315 川の村の変化 ***
大地の説明は続いていた。
「俺がドルジン総攬把に越冬施設の建設を申し出るときに、あの越冬場を造るためにこの辺りの土地を貸してくれって言ったんだよ。
そしたらドルジンは、『高原の地は誰のものでもないので構わない』って言ったんだ」
「…………」
「それにな、高原の地って、広さが約25万平方キロもあるんけど、その中に僅か5万人しか住んでないんだよ。
つまり人口密度は1平方キロにつき0.2人だ。
まあ、その分羊はヤタラに多いけど。
一方で、農業に頼るサウルス平原の広さは8万平方キロで、そこに約8万のヒトが住んでいたんだ。
人口密度は5倍だな。
ということでだ。
農業の発明は飛躍的に人口を増やしたが、同時に身分制、飢饉、戦争も発生させたんだ。
まさに農業は諸悪の根源だろ」
「はい……」
「地球では紀元前からつい最近まで、何千年もの間身分制も飢饉も戦争も残ってたからな。
これが解消されて民主主義というものが広がったのは、産業革命を経た技術革新によって、地球社会が農業というモノカルチャーから脱却出来たからなんだ」
「そうだったんですか……
ところで、それだけのデメリットを社会に齎した農業のくせに、このアルスの地の農業は極めて原始的ですよね。
未だに麦の種を土に埋めずに撒いているだけですし、肥料の概念も無いですし。
せっかく栄養豊富なトマトもジャガイモも食べようとしませんし。
これは何故なんでしょうか」
「それはこの地のヒト族が読み書きが出来ないからだ。
あとは戦のせいだな」
「…………」
「誰かが種を土に埋めたり、畑を耕したりすると農業生産性が上がるということに気づいたとしよう。
だが、その天才の知識は後世に口伝でしか伝わらなかったんだよ。
また、その地が新技術によって農業生産性を上げたとしたら、周囲の国々にとって格好の侵略の対象になったはずだ。
周辺国の王は、『あの地が豊かなのだから、土地を奪えば俺の国も豊かになる』と思い込んで侵攻して来たわけだ。
だけど、その地の王や民を滅ぼしても、農民は相変わらず畑を耕さず種も埋めずにただ撒いてただけだったんで、生産性はまったく上がらなかったんだ。
せっかく農業新技術を開発した者から口伝を受け継いでいた子孫たちも、侵略されて滅んでいたし」
「酷いお話ですね……
でも、だからこそダイチさまは『学校』とそこで学ぶ読み書きを重視されていたんですか」
「そうだ。
俺がこの地に齎した農業や健康についての知識は、口伝ではなく書物として伝えていきたいからだ」
「同時に戦を繰り返す支配層を捕縛し、暴力によって新たな支配層になろうとする者も排除するために魔法を駆使されているわけですね」
「まあ神界の法に照らして処罰しているだけだが、結果的にそうなるな」
「さすがですダイチさま♡……」
(な、なんかシェフィーの顔が赤くなって来てるぞ……
目もちょっと潤んで来てるし)
(一生懸命働いて、こんどご褒美を頂けるときには、ダイチさまの子種をくださいってお願いしてみようかな♪)
ますます夢が膨らむシェフィーちゃんであった……
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
川の民の生活は徐々に変わっていった。
まずは全体的に『学校』での学習意欲が高まっていた。
見習い料理人に合格した者たちは、毎日互助会兵の護衛付きで1の村料理場に出勤するという特別扱いを受けている。
しかも焼き菓子や菓子パンをたくさん買い込み、家族や同じ村の仲間に配っているのだ。
おかげで、当然のことながら学校で読み書きを学んで初級検定に合格しようとする者が増えたのである。
だが大村に住む自称上農民たちは、自ら努力する前に勝手な主張ばかりしていた。
曰く、『自分たちは上農民なので、初級検定を免除しろ』
曰く、『いっそのこと無試験で我らを料理人にしろ』というものである。
中には、『下農民と同じ教場で学ぶのは我慢がならないので、上農民用の教室を作れ』などというものまであった。
これら要求が全て却下されると、大村の住民たちは完全にやる気を失った。
そして、逆恨みの対象を自分たちが下農民と呼ぶ中村や小村の住民に向けたのである。
教場での授業妨害や、下農民と蔑んでいる者たちへの襲撃未遂や脅迫未遂が頻発した。
だが……
『幻覚の魔道具』やシスくんの監視網を逃れることは誰にも出来なかったのだ。
ほどなくして、1の村では元の大村の住民200名の内190名が身長50センチにされてしまったのである。
中村の住民も200名ほどいたが、このうち小村の住民を自分たちよりも下だと見ていた者たち80名が身長50センチになった。
もちろん12か所の小村の住民たちはほぼ健在である。
僅かに20名ほどが恐喝や窃盗で幻覚刑を受けたのみだった。
こうして、越冬施設の主流は穏健な小村の住民たちになっていったのである。
彼らは平均1か月ほどの努力で初級検定に合格することが出来た。
そして、その時点でこのまま見習い料理人採用試験を受けるのか、それとも中級検定合格を目指して勉強を続けるかの選択肢を与えられる。
もし中級検定に合格すれば、川の対岸に造られた巨大な農場に入植出来るのだ。
初級検定合格者たちは、互助会兵の引率つきで新農場の見学に連れて行ってもらえた。
検定に合格していない者、特に中村出身者たちの中には勝手に農場に入ってこれを占拠しようとした者もいたが、彼らは入り口の見えない壁に阻まれて中に入ることは出来なかったのである。
夜中に壁を越えて忍び込もうとした者は、その場で24時間宙に浮いていた。
検定合格者たちは、500反もの広大な畑とその間を縦横に走る水路を見てため息をついていた。
こんな素晴らしい農場に入植出来たら、いったいどれだけの麦を得られることだろうか。
もちろん目先の給金欲しさに料理人見習い試験を受ける者も多かったが、彼らの内、主に中村や小村で指導的立場にあった者たちは、少女姿のシェフィーちゃんの指示に反発して不合格となった。
だが、大半の者は素直に従って9割近くが合格していったのである。
今や夕方のダンジョン商会川村支店は、銅貨を握り締めた見習いたちで大賑わいである。
こうして、見習い料理人の採用枠100名はすぐに埋まった。
見習いになれなかった者たちも、せめて新農村に入植したいと頑張っている。
さらに、中級検定試験合格者の内、成績優秀者や上級検定合格者は、ワイズ王国にある『農業・健康学校』に留学出来るというのである。
ここで『農業・健康指導員』の資格を取得すると、次に造られる新農村の村長見習いになれるかもしれないのだ。
「あ、あの。
わしは中村の村長なのだが、新農村に入植して村長になるのではないのかの……」
「いや、まず入植するためには中級検定に合格しなければならん。
そして、新農村で村長になるのは、『農業・健康指導員』の資格を持っている者だけになるぞ」
「えっ……
そ、それでは最初の村長には誰がなるのじゃ!
も、もしも誰も候補がいないのならば、わしが村長になってやっても、よ、よいぞ……」
「いや、我ら互助会隊の者は、ほぼ全員が必死に勉強して『農業・健康指導員資格』を取得しておるからな。
たぶん最初の村長は我らの内の誰かになるだろう」
「…………」
「それにもちろん、新農村の村長に資格を持っていない者が就任することは有り得んな」
「し、しかしそれでは、農業の知識も経験も無い者が村長になってしまうことも有るだろうにっ!」
「ははは、心配は要らない。
『農業・健康指導員資格』はそんなにヤワなものではない。
あの資格を取得出来た者ならば、誰でも1反当たり年10石以上の収穫を得るだろう」
「げぇっ! ね、年10石っ!」
「それに確か、ワイズ王国の新農村の村長候補たちは、平均年齢が23歳で最年少は18歳だったはずだ」
「げえぇぇぇぇぇっ!」
「そういえばダイチさまが仰っておられたわ。
新農法はあまりに革新的なので、従来の原始的で古臭い農法に染まった年寄りは邪魔なだけだとな。
故にダイチさまが差配される新農村では、圧倒的に若い村長が多いのだよ」
「う、うぅぅぅぅぅぅっ……」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
料理場には70人ほどの見習いを前にしてシェフィーちゃんが立っていた。
見習いは100名いるが、7日のうち1日は休みであり、また15歳未満の者は3日間学校に行かねばならないためにこの人数になっている。
「それでは今日は鰻の捌き方を教えます。
実は鰻を料理するのはとっても難しくて、捌けるようになるだけでも3年はかかると言われているんですよ」
((( ……えっ…… )))
「ですが皆さんは熱心ですから、もう少し早く1人前になれるでしょう。
それでは鰻を捌きながら説明しますので、よく見てよく聞いてください」
シェフィーちゃんは、前回地球に行かせてもらった際に、静田や佐伯たちに東京の老舗鰻料亭に何度も連れて行ってもらっていた。
そうして、その中でも最も美味しいと感じた料亭の板長さんに、鰻を料理するところを見学させて欲しいと頼んでみたのである。
料亭のオーナー板長は微笑んだ。
こんな12歳ぐらいの女の子が鰻の料理に興味を持つとは。
しかもこの子を連れて来たのは、東京弁護士会の副会長でもある上得意客の紹介客でもあった。
また、お願いして来た子も金髪碧目のお人形さんのように可愛らしい子である。
「お嬢さんはなんで鰻の料理を見学したいのかな?」
「はい、自分でも何度か料理してみたことがあるのですけど、こちらのお店の鰻丼は大変に美味しいと思ったからです」
「そうかそうか、それじゃあ板場で見学してみるかい。
私が料理してみよう」
「ありがとうございます」
板長にはちょうどシェフィーちゃんと同じぐらいの年齢の孫娘がいた。
板場では弟子たちに厳しい板長も、シェフィーちゃんの熱心さに絆されたようである。
板長が驚いたことに、シェフィーちゃんは割烹着を持参していた。
さらに帽子も被ってマスクもしている。
シェフィーちゃんは実に熱心に板長の料理を凝視していた。
鰻を〆たり開いたりするのを見ても、顔色一つ変えない。
途中で飽きた素振りも無い。
軽い白焼きの後に蒸しが入り、再度の白焼きからいよいよタレを塗った焼きに入ったときには、身を乗り出して板長の手元を見ていた。
鰻から串を外して鰻丼が出来上がると、シェフィーちゃんは小さく拍手をした。
板長の視界の隅では、静田が女将に分厚い封筒を渡しているのも見えた。
「お嬢さんは鰻の蒲焼を作ったことがあるんだよな」
「はい、何度も作ってみました」
ちょうど夕方前で客足も途絶えたところである。
板長はいたずら心を起こした。
「それじゃあお嬢さんも鰻丼を作ってみるかい」
「いいんですか!」
「はは、途中で困ったら手伝ってあげるからやってみてごらん」
「ありがとうございます!」
にこにこしていた板長の笑みが硬直した。
なんと、金髪碧目のお嬢さんが、カバンの中から帆布に包まれた江戸型の『鰻裂き』を取り出したのである。
それも職人の使う一般的なものではなく、小さな手に合わせたものだった。
明らかに特注品である。
「お、お嬢さん、その鰻裂きを見せてもらえるかな」
「はいどうぞ」
(こ、こいつぁ新品じゃねぇ。
柄に小さな手の跡があるし、刃も何度も研いである。
峰の形がほんの少しだけ歪んでいるが、これは右利きの奴が研いだときの特徴だな。
まあ刃の切れ味には何の関係も無ぇから構わんが。
それにしても綺麗に研いである刃だぁな……)
「あの、鰻はどれを使ったらよろしいでしょうか」
「よかったらお嬢さんが選んでごらん……」
「はい!」
そして……
シェフィーちゃんが選んだ鰻は、養殖物ではなく、特別な上客に出すための天然ものだったのである。
慌てて止めようとする副板長を板長が制した。
「お嬢さんはその鰻がどういったものかわかるかい?」
「はい、今の季節、この頭の形、体の色から見て『下総下りのアオ』なのではないでしょうか」
「げぇぇぇっ!」
硬直した副板長を無視して板長は微笑んだ。
「それじゃあそれを捌いてみてごらん」
「あの、厨房の設備を使わせて頂いていいですか?」
「もちろんいいよ」




