*** 283 アズジャルドルジ大攬把 ***
近世までの地球に於いては、ほとんどの国の基盤が農業にあった。
このため自然と『領地』というものが重要になり、上位者によって『所領安堵』が約束されることによって『忠誠心』という概念が発生していたのである。
これに対し、遊牧民は土地に依存しない。
誰のものでもない土地の草を羊に食べさせて、その羊をほぼ唯一の財として生命線にしている者たちであった。
もっとも、『ここは俺の土地なので草原の草も全部俺の物だ!』と主張しても、金属器の少ないアルスでは柵すら作れないためにまるで意味を為さないのだ。
もちろん高原は石材資源も粘土も乏しく、石垣などを造ることも出来なかった。
よって、この高原の民が合議によって総攬把を戴き、力を合わせてデスレルの侵攻軍に当たったということは奇跡に近い。
通常であれば、各大攬把が率いる部隊は、各個撃破されて滅んでいたはずである。
それだけドルジン総攬把の指導力が高かったことと、大攬把たちの見識が高かったのだと言えよう。
男たちは、その目標をデスレルに屈せずに生き延びることという一点にのみ置き、そのための手段として総攬把を選出してその指揮下に入っていたのであった。
実際に総攬把も大攬把も自らが率いる男たちの先頭に立って戦い、中には戦死して大攬把の地位を代替わりしていた者もいたのである。
まあ、総攬把の孫息子や若い兵たちのように、自らの力を示して男を上げたいという願望の強い民だったということもあるのだろうが。
こうした民たちの間にデスレルが滅んだことが伝わればどうなるか。
通常であればまた元のように独立独歩の気概を持った男たちが、家族中心の暮らしを営んで行くことになったであろう。
だがそこに、大地がもう一歩進んだ集団的自衛権の概念を持ち込もうとしていた。
これはもちろん、新たにデスレル平原に作る平和な農業国家に高原の民に侵攻して来てもらいたくなかったからである。
もしも彼らがどうしようもなく好戦的であれば、大地も高原には深入りせずに侵攻が起きた時に滅ぼすことを選択していただろう。
だが、この高原の民、就中その指導部は穏健だった。
さらに、彼らにとって羊は在り来たりで安いものであり、麦や塩は貴重で高価なものだったのである。
これは交易が双方にとって莫大な利益をもたらすことを意味していた。
その利益を使えば、この地域一帯の民の幸福度を一気に引き上げることが可能になるだろう。
そのために大地もここまでして高原の民に入れ込み、ワイズ王国やゲゼルシャフト王国、ゲマインシャフト王国、そして将来の新デスレル国を含めた同盟国に引き入れようと動いていたわけである。
高原の各地から集まって来た攬把たちは、新たに作られた総攬把の本部と越冬場を見て仰け反り倒れんばかりに驚いた。
さらに、総攬把殿が差配する商会では、13歳以上の羊1頭がおおよそ銀貨11枚で買い取ってもらえるというのである(羊毛を含んだ場合)。
そして、その銀貨の内10枚をダンジョン商会なる商会に払うと、なんとあの貴重な麦が1石も贖えるというのだ。
それも、高原では見られない真っ白で香り高い麦である。
さらにその銀貨10枚で薪ですら1000キロも買えるのだという。
多くの攬把たちはたくさんの羊を連れて来なかったことを悔やんでいた。
さらにである。
驚くべきことに、この越冬場では冬でも綺麗な水が沸くというのである。
しかもその越冬場は巨大な壁に覆われており、これならばブリザードによって羊が飛ばされてしまうことも無いだろう。
加えてなんとドーム型の羊用の小屋まであり、羊糞を燃やす暖房すら付いているのである。
これならば、厳しい冬の間に羊が凍死してしまうことも無いだろう。
しかも、家族のためにも暖かく清潔なドームが用意されていたのである。
そのヒト用の小屋は、小屋と言うには大きすぎた。
その建物に、冬の間の薪と清潔な水場、羊用の干し草(実際にはサイレージ)まで付いて、20~30人用の家と、羊が500頭は越冬出来るドームがわずか羊5頭分の銀貨(50枚)で借りられるというのである。
余分に羊を売れば、家族の食料となる麦まで買えるのだ。
しかもこの越冬場の管理運営代表者はあの総攬把殿だというのである。
信用度も抜群であった。
攬把について来た若い男たちは兄弟で顔を見合わせ、2家族や3家族合同で越冬場を借りることを相談し始めていた……
(子作り部屋は交代で使えばいいだろう)
全体評定の前日、ドルジン総攬把は会議室に11人の大攬把を集め、特に新たにやって来た大攬把3人に説明を行った。
「ということで、あのデスレル帝国は滅んだのだよ」
「ドルジン殿、それは確かなのでありますかな」
「間違いない。
わしと8人の大攬把がこの目で確かめて来た。
デスレルの皇帝や貴族共は皆牢に入れられておったわ」
「それは誠に大慶事でありますな」
「それで……
デスレルを滅ぼしたのはダンジョン国の代表であり、ワイズ王国と言う国の最高顧問でもあるダイチ殿というお方なのだがの。
そのお方がここ高原の地を訪れて、彼らの国と我ら高原の民との間で『不戦の約定』を立ててくれぬかと仰られておるのじゃ」
「『不戦の約定』ですか……」
「そう、彼らは決して高原に攻め込まず、我らも決して平原には攻め込まぬという約定だ」
「そのような約定が果たして守られるものでしょうか」
「わしはかのお方を信用しておる。
必ずや約定は守られるだろう」
「総攬把殿がそこまで仰いますか……」
「だがまあ考えてもみよう。
我らは確かに総力を結集してデスレルの侵攻軍を追い返した。
だがあのデスレル軍はせいぜい3万でしかなかったのだ。
平原にはまだ30万近いデスレルの軍がいたのだよ」
「…………」
「だが、ダイチ殿はワイズ王国に攻め込んで来たその30万の軍をことごとく捕虜にされた。
貴殿もお分かりの通り、捕虜にするという行為は殺すことよりも遥かに困難である。
もしもダイチ殿が約定を違えて高原に攻め込んで来たとしても、我らに太刀打ちする術はあるまい」
「それはその通りですの……」
「それにだ。
この約定を我らが違えなければ、仮にデスレル以外の国がこの高原に攻め込んで来た場合、ダイチ殿を始めとする強大な軍勢がご加勢下さるそうじゃ。
ダイチ殿はこれを『しゅうだんてきじえいけんのこうし』と呼んでおられたが」
「なるほど、それは安心ですな。
ところでその見返りは?」
「それがの、我らと交易をして欲しいということだけだったのだよ。
それも羊1頭を渡せば、麦1石と交換してくれるそうじゃ」
「なんと……」
「それだけではない。
かの御仁は、このように巨大な建物まで造って寄贈して下さった。
また、南の湖ではなく、この地に我らの越冬場も建てて下された。
30人から40人ほどの家族が500頭の羊と共に越冬し、水場と羊のエサと薪までつけて、全部で羊5頭分の費えでいいそうじゃ」
「それは……
高原北部を主な放牧地としている我ら氏族は、もう南の湖まで行かずともよいということなのですか……」
「もちろんその分羊を売らねばならんがな。
だが厳しい冬であれば、数百頭の羊の内20や30は凍死していたであろう。
それがたったの5頭を売ることで、他の羊を死なせずに済むのであれば、十分に元は取れると思う」
「それはそうなのですが……
総攬把殿を疑うわけではないのですが、話がうますぎませぬか?」
「わしもそこが気になって、ダイチ殿に聞いてみたのだがの。
平原の地では麦が安く羊が高いそうなのだ。
平原では羊1頭が銀貨100枚以上で売れるそうじゃ」
「そんなに……
では我らが平原の地に降りて羊を売りに行けば……」
「ここからワイズ王国までは騎獣でも7日かかる。
大量の羊を連れて行くとなれば、20日はかかろう。
その間に水場や牧草があるかどうかはわからん。
だが、彼らは魔法が使える。
その魔法であればワイズ王国まで一瞬で行けるそうな」
「なんと……
それでは数万数十万の軍がこの高原の地に攻め込むのも容易であると……」
「そうだ。
だが、そうした方法よりも、ダイチ殿は交易を選ばれた。
故にわしはその『不戦の約定』を結び、交易を始めるべきだと考えたのだ」
「なるほど。
お話はよく分かりました。
わたくしも我が氏族を代表してご賛同させて頂きます」
「ありがとうの」
「ところでその御仁に会われたのは、こちらにおられる大攬把殿たち8人でいらっしゃいますか」
「そうだ。なんとも素晴らしいお方だ」
「それになにより信じられぬほど強いしな!
なにしろこのわしを強相撲で10メートルも投げ飛ばしたのだぞ!」
「なんと……」
そう言ったのはあの160キロの巨漢、ビヤンバドルジだった。
どうやら彼らのメンタリティーとして、相撲の時は敵意を剥き出しにして戦うが、一旦完全に敗れればその闘争心は尊敬の念に代わるらしい。
「それに貴殿らも耳にされたことはござらんか。
乳の出ない母親とその子を助けた『だいちさま』なる天上の存在の噂を」
「だいちさま…… ま、まさか!」
「そう、どうやら魔法で母親と子を助けたのは、ダイチ殿のご配下だったそうだ。
わしの孫息子の嫁と子も助けられた」
「その噂はわたしも聞いたことがあります。
そうでしたか。
それでダワードルジ殿もその御仁を信用為されておられるわけですね」
「いや……
信用と言うよりは、わしの気持ちはもはや崇拝に近い。
なにしろ我が直系の曽孫の命の恩人じゃ」
「…………」
「さらにダイチ殿は、ワイズ王国、ゲゼルシャフト王国、ゲマインシャフト王国という3カ国の国政最高顧問をなさっておられるそうじゃ。
まあ、なんの権力も無く単に国政にご助言為されるだけの仕事だそうじゃが。
そこでわしらもこの高原の民の政の助言者として、ダイチ殿に最高顧問をご依頼申し上げたいと思うておるのだ。
エンフドルジ殿、どうかご賛同願えないだろうか。
もちろん後のお二方も」
「委細納得いたしました。
謹んでご賛同させて下さいませ」
「わたしもご賛同させて頂きます」
「もちろんわたくしも」
「さて、残るはアズジャルドルジ大攬把殿だけか」
「噂ではアズジャルドルジ殿は、デスレルが滅んだことを耳にして、この高原の民の次期総攬把を目指しておられるとか」
「しかも、その際には自ら王を名乗り、民に税を課すおつもりのようですな」
「吝嗇家であるかの御仁らしきことじゃ……」
「まあ大攬把1人が反目したところで問題はあるまい」
「ただ心配なのは、アズジャルドルジが兵を率いて勝手に平原に攻め込んだ場合よの。
我らが約定を違えたと見做されてはかなわんな」
「その点についてはわしからダイチ殿に重々説明しておこう。
たぶん、アズジャルドルジもダイチ殿に捕縛されて囚人となるだけのことだ」
「「「「 わははははは…… 」」」」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の午後、アズジャルドルジ大攬把は、配下の中攬把8人と若者たちを10人ほど伴って総攬把の本部にやって来た。
中攬把たちはいずれも息子や甥などの近親親族である。
「な、なんじゃこの建物は!」
「ようこそお越しくださいましたアズジャルドルジ大攬把殿。
お待ち申し上げておりました」
「こ、この馬鹿でかい建物は何じゃと聞いておる!」
「こちらはドルジン総攬把殿の政務公邸でございます。
明日の評定は朝日の出から3刻後より、こちらの公邸の大広間で行われます」
「な、なんじゃと!
これほどの建物を建てる費えを誰が払ったというのじゃ!」
「さて、わたくしは存じませぬ。
総攬把殿に直接お聞きになられたら如何でしょうか」
「ぐぬぬぬぬぬ……
あ、あの若造めが総攬把などと呼ばれて増長しおってからに!」
因みにアズジャルドルジ大攬把はドルジン総攬把よりたった2歳年上なだけである。
「ところでアズジャルドルジ大攬把殿、本日のご宿泊は如何なさいますか?
ゲルをお張りになられるのでしたらお好きな場所にどうぞ。
また、あちらに宿泊用の建物もご用意してございます」
「こ、高原の男はゲルに泊まるに決まってあろう!」
(あ奴めの差配する建物などに泊まって、あとで羊を要求されては堪らん!)
「左様でございますか。
それではお好きな場所にゲルをお張りください。
また、あちらの建物は羊を買い取って銀貨と交換する場所でございまして、またあちらの建物はその銀貨を使って小麦などを贖える商会でございます。
尚、本日の宴の料理は全て総攬把殿のご提供になります」
「あ、当たり前じゃっ!
わざわざ遠方よりこのわしを呼びつけたのじゃからな!
食事を振舞うのは当然の義務じゃろう!」
アズジャルドルジ大攬把は、若い者たちに張らせたゲルに配下の中攬把たち8人を集めた。
「さてお前たち、今晩の宴席では他の氏族の席を廻ってわしへの支持を集めて来い」
「何の支持だい親父殿?」
「知れたことよ。
噂によればあのデスレルが滅んだそうじゃ。
ならば明日の評定では新たな総攬把が選ばれることになろう。
わしを総攬把にするために、各氏族の支持を取り付けて来るのじゃ!」
「「「 ………… 」」」
「考えてもみよ!
次期総攬把になればこの巨大な建物や越冬場とやらがすべてわしの物になるのじゃぞ!
お前たちも余碌に与れるのだから励め!」
「いや親父殿、それは無理だと思うぞ」
「な、何故じゃ! 何故無理なのじゃっ!」
「だってよ、12人いる大攬把の中で、デスレルとの戦いに出陣しなかったのは親父殿だけだったろうに」
「あ、あれは腰が痛くて立てなかったからじゃっ!」
「そぉかぁ?
戦が終わったらすぐ治ってその辺りを歩き回ってたよな」
「そ、それは万が一にも北部からデスレルの別動隊が来ないかどうか見張るために……」
「そんなもんは成人前の子供にも出来ることだ」
「我ら氏族が他の氏族から蔑まれていないのは、我らが兵を率いて出陣したからなんだぞ」
「し、氏族の長たるわしの命に背いて勝手に出陣しおってからに!」
「それに腰が痛くて立てなかったとか言うけどな。
あのエンフドルジ前大攬把殿の最後は凄かったよな」
「ああ、高齢で碌に歩くことも出来んのに、皆に担がせておなじく高齢の騎獣に乗って……
縄で体を騎獣に縛り付けさせた上に、手や背中にも槍を縛り付けさせて……
それでデスレルの隊列に突撃して行って、3人も道連れにして果てられたんだもんなぁ……」
「俺ぁあのお姿を見たときには涙が止まらんかったよ……」
「おかげで後継者のエンフドルジ現大攬把殿も皆に一目置かれてるしな。
あの『人間槍』の息子だと言われて」
「あのお方様も死して名を残されたよの……」
「男の最後はかくありたいものだ」
「「「 うむ 」」」
「ぐ、ぐぬぬぬぬ……」