*** 280 相撲 ***
翌朝大地が総攬把のゲル前に転移すると、既に男たちは揃っていた。
昨日より人数が増えているのは、近隣の幹部たちが呼び集められたからだろう。
「みんなお早う。
まずは昨日の約束通り柔らかいパンを作ろうか。
総攬把殿、ここに竈を3つほど作っていいかな。
後で撤去するから」
「もちろん構わんとも」
その場にシスくん謹製の温度調節機能付き竈と、大型のパン焼き竈、中型の普通の竈が現れた。
同時にテーブルも出現し、その上に水の魔道具や各種の材料が乗っている。
「ご婦人たちは、まずこの小さい竈と大きい竈に火を熾してくれるか。
そこにある薪を使っていいぞ。
なにか分からないことがあったら聞いてくれ」
「「「 はい 」」」
(ほう、枯れ草と燧石を使って器用に火をつけるもんだな。
皮袋を使った鞴もあるのか)
「次は温度調節機能付き竈を少し温めるか。
その丸い目盛を30っていう数字に合わせてくれ」
「?」
「ああ、この記号が30だ」
「これでいいですか?」
「それでいい」
「あの、この竈には薪を入れて火をつけないんですか?」
「これは『熱の魔道具』っていうもので温める竈なんだ。
魔法の元になる魔石は必要になるけど、薪や羊糞は要らないんだよ」
「すごい……
これなら雨の日や冬にゲルの中でお料理しても煙が籠らないんですね……」
「そうだな。
それではこの鍋に水を張って、こちらの普通の竈で湯を沸かそう。
湯と言っても皆の体温と同じぐらいの温度でいいぞ」
「この箱、なんでこんなに水が出て来るんでしょうか……」
「それは『水の魔道具』って言ってな。
他の場所にある水を魔法の力でここに持って来ているものなんだ」
「これもすごい……」
「次はこの箱の中に手を入れてくれ。
そうしておいてこの白い石に触れるんだ」
箱の中が白く光った。
「手が綺麗になってる……」
「そう、この箱は手を綺麗にする魔道具だ。
料理の前にはまず手を綺麗にしないとな。
それではその鍋に麦の粉を入れようか。
そこのボウルで3杯分入れてくれ」
「随分細かくて白い綺麗な麦の粉ですね……」
「これは小麦という種類の麦を石臼で粉に挽いたものなんだ」
「『いしうす』ですか?」
「そうだな、それじゃあみんなに石臼も見て貰おうか」
テーブルの上に小型の石臼と脱稃した麦粒が出て来た。
「小麦は殻を剥く前の物でも剥いた後の物でもいい。
それをこの受け皿に入れて、このハンドルを回すんだ」
「おお! 臼の間から細かく挽かれた麦が出て来おるわい!」
「なるほど、上側の石を回すことで、石と石に挟まれた麦が粉になるのか」
「よく出来た道具だのう」
「それにしても白くて綺麗な粉だ」
「バドドルジ殿、このハンドルを回してみてくれないか。
ときどきこの受け皿に麦粒を足してな」
「承った」
男たちが石臼を取り囲んで麦が粉にされる様子に見入っていた。
「それではパン生地を作ろうか。
この3つの鍋にまず材料を入れるぞ。
挽いた小麦の粉をこのボウル3杯ずつ入れてくれ。
これに砂糖を中カップ1杯、塩は小カップ1杯、羊乳と水を中カップ1杯ずつ、それからこのドライイーストを一袋加える」
(本当は山葡萄を水に漬けて天然酵母を培養したいんだけど、あれは消毒を完全にしないとすぐに黴が生えるからなあ。
初心者にはまだ難しいだろうから、しばらくは地球から持ち込んだドライイーストを使うか。
幸いにもそんなに高くないし、毎日パンを焼くようになれば種継ぎも出来るしな……)
「『どらいいーすと』ですか……」
「そうだ、この粉がパンをふっくらと柔らかくしてくれるんだよ。
それでは材料が均等になるようによくかき混ぜてくれ。
小麦粉が飛ばないようにゆっくりでいいからな。
こんな感じで」
(はは、俺も料理スキル10だから、シェフィーほどではないけど結構上手に出来るもんだ)
「ここまでは『どらいいーすと』以外は、普通のパン作りと似てますね。
砂糖なんか入れたことはありませんでしたけど」
「そうだな。
それじゃあさっき沸かしたぬるま湯を少しずつ加えて手で練ってくれ。
こんな風に」
「「「 はい 」」」
「柔らかくまとまって来たら、このテーブルに少し小麦粉を振って中身を出そう。
そうしてさらに何度も捏ねるんだ。
生地の表面が滑らかになったら、ここにバターを小カップ1杯加える。
そうしてさらに何度も何度も捏ねるぞ。
それにしても、これだけの量のバターを用意するのはたいへんだったろう」
「いえ、それほどたいへんではありません」
「そうなのか?」
「羊乳は子供たちに飲ませるために毎日搾っていますし、乳が分離して浮いて来た生クリームを蓋の出来る壺に入れて革ひもで縛るんです。
それを皮袋に入れて、羊追いの方たちのヤーギの鞍に着けてもらえれば、半日もすればバターが出来上がりますから」
「なるほどな。
ヤーギが移動するたびに生クリームが攪拌されてバターになるのか」
「はい」
(そうか、元々バターって牛馬や羊乳を壺に入れて馬で運んだことで出来たものだと聞いたことがあるな……)
「さて、それじゃあパン生地作りを続けようか。
生地を充分に捏ねたらこのボウルに入れて、濡れた布を被せて発酵竈に入れ、後は半刻放置だな。
その間に次のパン生地を用意してくれ」
「「「 はい 」」」
半刻後。
「さて、さっきの生地を取り出してみようか」
「えっ!」
「倍ぐらいに膨らんでる!」
周囲の男たちが一歩詰め寄って来た。
女性たちが少し怯んでいる。
「そうだな、それがドライイーストの力だ。
それじゃあその塊りをまた軽く捏ねてから、このスケッパーを使って80個ぐらいに分け、それをまた捏ねて丸めるんだ。
この薄い板に小麦粉を振ってから並べて置いてくれ。
これに濡れた布を乗せて、また半刻ほど休ませよう」
「「「 はい 」」」
「その間にさっき捏ねたパン生地もパン焼き竈に入れて膨らまそうか。
ご婦人たちと子供たちは全部で1000人近くいるんだろ。
そこに総攬把殿たちが加わるから、全員分作らなきゃならないからな」
「あの…… ひとりに1個パンを下さるんですか?」
「もちろん。
もし大変だったら応援の仲間を呼んでくれ」
「いえ、たった20人で1000人分以上のパンを作れるなんて……」
ご婦人たちはそのうちに慣れて来たようだ。
流れ作業で生地が次々と作られて行く。
「よし、そろそろ半刻経ったから、いよいよパンを焼き始めようか。
パン焼き竈の中の温度はかなり高くなってるから、皿を出し入れするときにはこの手袋を嵌めて、この道具を使うように。
パンを焼く時間は半刻のさらに半分だ。
ここにある砂時計の砂が落ちきったら焼き上がりになる」
「この竈、大きいですね。
パンがいっぺんに80個も焼けるなんて……」
まもなく最初のパンが焼き上がった。
辺りには素晴らしい香りが広がっている。
「それじゃあ総攬把さんたち、柔らかいパンを試食してみてくれるかな」
総攬把や大攬把が手を伸ばした。
それに中攬把たちも続いている。
「旨い……」
「このように旨いパンは初めてだ……」
「なによりも柔らかく、しかも素晴らしい香りだ」
「この内側の白い部分はまるで雲を食べているようだの……」
「はは、外側の堅い部分は歯の丈夫な子供たちに食べて貰って、歯が弱ったひとは内側だけ食べたらどうだい?」
「いや……
この外側の部分も十分に柔らかいですわい。
ところでこのパンは冷めても旨いのですかの」
「まあ焼き立てが一番旨いが、冷めても旨いぞ。
3日も経つと大分固くなってしまうけどな」
「そうか。
女たちよ、他の女たちや子供たちを順番に呼んで来なさい。
ひとりひとつずつこのパンを食べさせるように」
「「「 はい、総攬把さま♪ 」」」
「ところでダイチ殿、このパン焼き竈も売って貰えるものなのですかの」
「そうだな、温度調節竈は銀貨30枚でどうだい?
燃料の魔石は毎日使っても半年はもつし、魔石は1つ銀貨1枚にしよう。
大型竈は銀貨20枚で小型竈は10枚かな」
「それらを贖えば、このように旨いパンが喰えるようになるのか……
10日に1度、いや月に1度の贅沢を味わえそうだの……」
「はは、羊さえたくさん育ててくれれば、毎日でも喰えるようになるんじゃないか?
それに食堂で1個銅貨2枚で売ってもいいしな」
「さぞかしよく売れるだろうの……
そもそもわしが毎日買ってしまいそうだわい……」
「総攬把殿や大攬把殿たちのような金持ちはどんどん買ってくれ。
そうすれば高原商会はさらに儲かって、ご婦人たちや子供たちにもっと給金を払えるようになるからな」
「なるほど……
わしらは質素倹約に努めて来たが、むしろ使う方が民たちのためになることもあるのか……」
「そうだな、それもある種富者の義務の内かもしらん。
それに若い者たちも、いつかは総攬把殿のように毎日柔らかいパンを食べられるようになろうと、より一層熱心に働くようになるぞ」
「そうか……
これはまたひとつ学ばせてもらったの……」
「ということでドルジン殿、こうした旨いパンを食べるためにはバターが大量に必要になるんだ。
だから配下の羊追いの皆にも頼んでおいてくれないかな」
「もちろんですじゃ。
皆、この様に旨いパンを食べられるのなら、喜んでバター作りに参加してくれるでしょうぞ」
「それじゃあパン焼きはご婦人方に任せて、越冬用の建物を披露させてもらおうか」
「その…… ダイチ殿。
真に申し訳ないのだが、その前にお願いがあっての」
「なんだいドルジン殿」
「我らの兵が貴殿と相撲を取りたがっておるのだ。
少し相手をしてやって頂けないものだろうか」
(はは、若い俺が偉そうにしてるのが気に喰わなかったんで、マウントを取ろうっていうんだろうな)
「ぜんぜん構わないぞ」
「ありがたい。
相撲はわれらの鍛錬と娯楽を兼ねたものでの。
練習会は毎日のように行われ、実力によって等級付けも行われているのだ。
大きな大会のあるときには、高原中から力自慢が集まって来るのだよ」
「ところでその相撲はどんなルールなんだ?」
「相撲には普通相撲と強相撲があっての。
普通相撲では殴る蹴るが禁止され、投げ技だけで戦うものだ」
(グレコ・ローマンスタイルのレスリングみたいなものか……)
「強相撲はより実戦的で、目潰しと金的攻撃以外はすべて許されておる」
(こっちはMMAだな……)
「まあ今回は双方怪我の無いように普通相撲にしよう。
どちらも足の裏以外が地面についたら負けになる」
「了解。どこか特別な場所でするのかな」
「いや、特別な場所は無い。
男たちが輪になればそこが試合場になる」
「そうか、それなら俺に試合場を作らせてもらえないか」
「それは構わんが……」
一行は総攬把のゲルからやや離れた場所に移動した。
大攬把たちに続いて若い兵たちが50人ほどついて来ている。
「ここに作っていいかい?」
「ああ……」
大地はそのあたりの地面を指さした。
(ストレー、この地面の草を半径20メートルに渡って収納。
続けて中央部に直径8メートルの地面を残して、周辺部を半径15メートルに渡って30センチ掘り下げ、そこに砂を敷き詰めてくれ)
(はい)
「おお、これは見事な試合場だわい」
若い兵たちが服を脱ぎ出し、ボクサートランクスのようなもの1枚の姿になっている。
「総攬把殿、ちょっと失礼して俺も着替えて来るわ」
大地が消えたが、すぐにMMA用のトランクス姿になって戻って来た。
大地と総攬把たちは試合場の南側に陣取っている。
北側には若い兵たちが犇めいていた。
「そろそろ始めようか。
それにしても対戦希望者が多いなぁ」
「済まぬな。
若い者は皆、平原の男の強さが知りたいようじゃ」
南側で胡坐をかいて座っていたブラッキーくんがノワール族長に小声で話しかけた。
「父上、平原の男の強さが知りたいとしても、よりによってダイチさまに戦いを挑むとは」
「ぶはははは。
どう考えてもサンプルにはならんな」
試合場の周囲、離れた場所にはいつの間にかご婦人たちや子供たちが集まっていた。
やはり彼らにとって相撲は娯楽なのだろう。
ダワードルジ大攬把が中央脇に立った。
「それではわしが審判を務めよう。
対戦者は中央へ」
大地が中央の地面に進むと、兵たちの中から18歳ほどの男が出て来た。
「貴様が昨日若に勝ったのはあの馬のおかげだ!
今日はこの俺、ジグジドが高原の男の強さを教えてやる!」
(まあそれなりには鍛えてるみたいだけどさ。
でもレベル6じゃあなあ……)