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*** 2 ひとりだけの山小屋(マイナス20℃) ***

 


 短い休息を終えると少年は再び歩き出した。


 足は沈むが、ザックをデポしてラッセルをするほどではない。

 標高が上がるにつれて気温が下がったせいで雪もよく締まり、徐々に沈み込みも小さくなって来た。



 登山開始から7時間後、少年は無事山小屋に辿り着いた。

 30メートル四方ほどの平坦地に建てられたやや大型のログキャビンである。


 ザックを置いてスノーシューを脱ぐと、まずは小屋の軒下に下げてあるシャベルを手に取る。


 積雪を考えて地上1メートルほどの基礎の上に建てられた小屋だったが、その入り口は50センチほど雪に埋まっており、まずは除雪の必要があった。


 扉も凍り付いていて鍵を差し込んでも回らなかったが、鍵穴の部分を小型のガスバーナーで軽く炙るとすぐに鍵も回ってドアも開く。

 どうやら凍り付いていたのは、吹き込んだ雪のせいで鍵穴の部分だけだったらしい。


(あとでまた凍結防止剤を吹き付けておかなきゃな……)




 小屋に入ってまず寒暖計を見れば、温度はマイナス20度になっていた。


(家庭用冷蔵庫の冷凍室はマイナス8度ほど、肉屋の業務用冷凍庫はマイナス25度だったか……

 はは、装備が無ければ俺も数時間で冷凍肉だな)



 外見は普通のログキャビンだったが、小屋内は意外に立派な内装でソファや豪華な暖炉まであった。


 だが……


(いつもならじいちゃんが秋口に薪を運んで来てくれてたけど、やっぱり残りの薪は少ないか……

 これじゃあテントの方が暖かいだろう)



 意外なことに、ここまで寒い環境では火を焚かなければ小屋よりもテントの方が暖かい。

 空間が狭い分、人の体温で内部の空気がすぐに温まるからである。

 もちろん強風が吹いていなければだが。



 少年はザックから携帯コンロを取り出すと、コッフェルに少量の水を入れて湯を沸かし始めた。


 ザックの背中側に入れていたペットボトルの水は、外に出した途端に早くも凍り始めていたが、まだ使えるようだ。

 もちろんテルモスにも湯を入れて持って来ているが、こちらを使うほどではない。


 湯が沸く間に外に出て、専用バケツに雪を詰める。



『最初から雪だけで水を作ろうとするよりも、事前に少しでも水を入れておけば後から入れた雪はすぐに融ける。

 雪だけだと、最初は空焚きに近い状態になって、酷いときにはコッフェルが歪むからな』 


 これも祖父の教えだった。



 念のため、雪や凍り付いたペットボトルを入れて日向に放置し、溶かすための黒いビニール袋も持って来ていたが、今はコンロで雪を溶かしながら湯を沸かしている。


 節約して使えば4時間は使えるガスボンベを2本持って来ているし、小屋にも予備は置いてある。

 このボンベとコンロは冬山の生命線だった。



 雪が融けて30度ほどのぬるま湯になったところで半分を別のコッフェルに移し、ザックから取り出したステーキ肉をビニール袋ごと漬ける。

 これで30分も経てばカチカチに凍り付いている肉も無事解凍されるだろう。


(へへ、須藤さんが持たせてくれたA5の神戸牛か……

 夕食が楽しみだ……

 おっと、佐伯さんに連絡を入れないとな)



 少年はザックの中から防水ケースに入った電話を取り出した。

 10年以上前のガラケーの様な形をした大きめの電話だった。


 少年がひとりで祠様に新年のあいさつに行くと聞いた佐伯弁護士が用意してくれた衛星電話である。

 この山奥では普通のスマホには電波は届かない。


 須藤医師は地元山岳会のガイドを雇ってくれると言っていたが、さすがにそれは固辞した。



「大地です。

 無事祠様横の小屋に着きました。

 体調は万全ですのでご心配なく。

 明日下山後にまたご連絡致します」




 少年の名は北斗大地。


 現在15歳の中学3年生で、身長は178センチ体重は65キロ。


 一見細身で優し気な表情のどこにでもいる少年に見えるが、服を脱げばかなりの筋肉質でいわゆる細マッチョである。


 夏になって体育でプールが始まると、クラスメイト達が大地の体に驚愕するのは年中行事になりつつあった。

 腹にシックスパックを纏い、大胸筋を動かせる中学生はなかなかいない。


 何人かの女子が、自分の胸と大地の胸を見比べて「アタシより大きい……」と悲しそうな顔をするのもいつものことだ。




 佐伯の留守電に録音を入れると湯が沸いていた。


 すぐにカップを湯に入れて温め、ドリッパーに粗挽きのコーヒー豆をセットして3回に分けて湯を注いだ。

 山小屋にコーヒーの香りが漂っていく。


 少年は、朝から被っていたバラクラバ帽(目出し帽)を脱いで懐に入れた。


 呼気と汗で湿った帽子は、脱いで放置しておけば10分で凍り付くだろう。

 明日も使うために凍らせてはならない。


 出来上がったコーヒーとザックの中の酒瓶を持って少年は外の祠に向かい、その正面で膝をついた。



「ご無沙汰しております。

 去年の夏前にじいちゃんが亡くなったんで、今年は俺ひとりでご挨拶に来ました。

 本年もよろしくお願いいたします」



 大地は祠の前に跪いてしばらくの間目を瞑った。


(さて、これで目的は果たせたかな……)




 大地は小屋に戻って残りの湯で自分用のコーヒーを作って体を温めると、またスノーシューを履いて祠横の雪を踏み固め始めた。


 なるべく平らに水平になるように丁寧に踏んでいく。


 それが終わると小屋からレンガを4つ持ち出した後、その場にテントを張り始めた。

 総ゴアテックス製の2~3人用ドームテントで、一式7万円もする高級品だ。


 冬季用の外張は敢えてつけなかった。

 ベースキャンプとして長期滞在するならともかく、1泊の予定ではあまり意味は無い。



 テントの設営が終わり、銀マットも敷くと内部の4隅に角を丸くしてある大き目のレンガを置く。

 テントのグラウンドシートの隅は、生地が傷まないようにリペアキットのシールで補強してあった。


 冬季用の長いペグを使っても、水をかけて凍らせないと簡単に抜けてしまうし、凍ったら凍ったで撤収がたいへんになる。

 要は強風で飛ばされなければいいだけなので、やはりテントの固定には石が最適だった。



 小屋に戻るとダウンジャケットとダウンパンツを着込んだ。


 テントの設営やテント場の均しでは体を動かすために体温は維持出来るが、それが終われば急速に冷え込むために追加の防寒着は必須になる。


 小屋に薪が無い場合も考えて、今日はエクスペディションクラスのダウンジャケットを持って来ていた。


 やはり羽毛が詰まったテントシューズも持って来たが、これはシュラフで寝るときのためのものだ。

 登山靴を脱いでしまうと内部の水分が凍り付く可能性があるために、通常寝るまでは靴は脱がない。

 寝るときも靴は枕の下に置くかシュラフの中に入れて凍らせないようにする。



 大地は夕食の準備を始めた。

 時刻はまだ15時過ぎだが山では早寝早起きが鉄則である。


 コッフェルのひとつにチーズクリームリゾットの元と少々多目の水を入れよくかき回す。


 リゾットの袋には『湯に入れて7分茹でる』と書いてあるが、水の段階で入れてかき混ぜないとすぐダマになるのでいつも水の段階から混ぜている。


 湯が沸くまでの時間に加えて、柔らかめのリゾットが好きな大地はいつも15分ほど茹でていた。

 ここは標高2000メートルで気温も低くく、水の沸点も92.5度ほどになるため、取説よりは少し長い時間茹でなければならない。


 コッフェルをコンロに置くと、折り畳み式の登山用コンロをもうひとつ用意し、やはり折り畳み式のフライパンを乗せるとその上に解凍された肉を置いた。


(すげぇフィレ肉だなぁ…… これ300グラムはあるだろ)



 予め調合してあった塩胡椒とにんにくパウダーを混ぜたものをプラボトルから少量肉に振りかけ、最初は強火、表面に焼き色がつくと弱火で焼き始める。

 これだけの厚さのある肉だと、中まで火が通るのには時間がかかるだろう。



 肉にある程度火が通ると、いったん紙皿に移して3等分に切り分ける。

 ひとつにはかなり多めに塩胡椒を追加し、2つ目には少々の追加、3つ目はそのままにして、ひとつ目をまたフライパンに乗せた。



『800メートルも登ると冬でもかなり汗をかいて塩分が失われている。

 だから、肉を食べるときには最初かなり塩胡椒を多目にした方が旨い。

 次はやや濃い目、最後に下界で食べるときとおなじ味付けで食べるとよいのだ』


 これも祖父の教えである。


(まるで石田三成の三献茶の故事みたいだよなぁ。

 でも実際にそうやって食べるとどれも旨いんだこれが。

 特に最初の塩胡椒多めなんか最高だし。


 それにしても人間の味覚ってすごいよ。

 自分に足りない成分を旨いと感じるなんて)



 そのとき衛星電話が鳴った。

 この電話の番号を知っているのは佐伯たち以外にいない。


「はい、大地です。

 ええ、無事に着きました。

 道の状態も良かったですし、何の問題もありません。

 今日はここに泊まって明日下山します。


 はは、大丈夫ですよ。

 それでは明日下山したらまたお電話させて頂きますので」



 電話を切った大地は佐伯たちの過保護ぶりを思い出して微笑んだ。


 肉をひっくり返し、リゾットをかき混ぜながら2日前を思い出していた。





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