*** 182 種蒔き ***
サリニコフ商会会頭のアトリエには、大きな本棚や棚やクローゼットと共に、膨大な量の本と画材が届けられていた。
もちろんその中には、仕立て代として金貨300枚も含まれていたのである。
会頭の長男はまた白目になった。
王と王子と王女は3人で集まって、楽しそうに毎日ファッションカタログを見ているらしい。
おおまかなデザイン決定まではまだまだ時間がかかりそうだということである。
それを聞いた大地は、バルガス中佐と8人の分隊長たちを連れてサリニコフ商会に赴き、採寸をしてもらった。
「作って欲しい服の種類は最上級の執事服だ。
上級貴族家どころか王宮の執事長が着ているような服を作ってくれ。
生地やデザインは全て任せる」
その後、大地はバルガス中佐たちに懇願されて戦闘服も買ってやることになった。
世界の軍服の本を見て感動した中佐たちに、迷彩柄の戦闘服とコンバットブーツをねだられてしまったので、タイ王国陸軍にサイズ表を送って購入させてもらったのである。
アルス最強の男たち9人が迷彩服に身を包み、フェイスペイントも施してコンバットナイフを構えた姿は異様に迫力があった。
訓練小隊の若者たちが腰を抜かすほどである。
迷彩服姿の教導士官が後ろにつくと、集団走のスピードが上がっていたらしい。
おかげで国軍の第1種戦闘服も迷彩服になってしまった。
仕方が無いので、全員のサイズを測らせた上で、再度タイ王国陸軍に頼んで軍用ヘルメットやブーツも含め総員の装備を購入したのである……
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
大地が農民たちを雇って5日目、すべての柿の皮が剥かれて干され終わった。
3万個もの柿が並んで干されている様子は壮観である。
いつものようにシュロス直轄領の村には6000人の民が集まっており、大地は『拡声』のスキルを使って全員に話しかけた。
「みんなお疲れさん。
おかげでこうしてたくさんの柿の皮を剥いて干すことが出来た。
そして、今日から5日間は避難している6つの領の村ごとに別の作業に入ってもらいたい。
もちろん、日当は最初の約束通りひとり1日につき銅貨20枚が支払われる」
村人が皆嬉しそうに微笑んでいる。
「最初に言っておくが、俺が指示する作業の中にはお前たちが理解出来ないものも多いだろう。
だいたい、なぜこんな渋い柿を干したのかさえわからないだろうからな。
だが、これらはすべて意味のあることだ。
疑問に思ったり無駄だと思うこともあるだろうが、俺の指示には従うように」
皆が頷いた。
「それでは今から作業の説明する。
よく聞いてしっかり覚えてくれ。
明日からは別の避難村がしていた仕事になるからな。
他の村の仕事のこともよく聞いておくんだぞ」
「「「「 へい! 」」」」
「まずはこのモラベス領の村に避難して来ている1000人の仕事だ。
皆にはこの村の畑1反に小麦の種を撒いて貰う」
「「「「 えっ…… 」」」」
「あ、あの旦那……
小麦の種って、春に撒くもんじゃないのかい?」
「誰がそんなことを決めたんだ」
「えっ……
だ、だって、うちの爺さんもそのまた父ちゃんもそのまた父ちゃんも、昔からずっとそうやって麦を作って来てたって言うし……」
「お前たちは、先祖代々ずっとそうして来たから、同じように春に小麦の種を撒いてるって言うんだな」
「あ、ああ……」
「じゃあなんで先祖は春に種を撒き始めたんだ。
そしてなんでそれが正しい方法だとわかるんだ」
「えっ……」
「みんなよく聞け。
この小麦という作物は、本来は秋に種を植えて春の終わりにかけて収穫する作物なんだ」
「「「「 !!! 」」」」
「実は小麦には2つの種類があってな。
元々は、土の中で確りと根を張って発芽するために寒冷期を必要とする小麦ばかりだったんだ。
これを秋撒き小麦という。
だが、そのうちに、この寒冷期を必要としない種類の小麦も生まれたんだ。
小麦の中では変わり者だな。
この小麦は春に撒いて秋に収穫出来る。
お前たちが毎年育てていた品種はこの春撒き小麦だ。
つまり、小麦はそもそも秋に種を植えるものだったんだが、春に植えても育つ品種もあるということだな」
「「「「 ………… 」」」」
「元々野原で勝手に生えていた小麦は、ほとんどがこの秋撒き小麦だったんだ。
その中でごく僅かながら春撒き小麦もいたはずだ。
だから野生の小麦をよく観察していれば、2つの種類は見分けられたはずなんだ。
つまり、お前たちの先祖はカン違いしていたんだよ。
ほとんどの草や木は、春になると成長を始めたり花を咲かせたりするだろう。
だから小麦もきっと春から成長を始めるんだろうって思い込んだわけだ。
もちろん春に種を植えても育って秋には収穫出来る種類の小麦もあるが、今種を撒いておけば、春の半ばか終わりぐらいに実る種類の小麦もあるんだ。
だから、今この秋撒き小麦の種を植えておけば、俺の予想ではたぶん4月の終わりごろには収穫が出来るぞ」
「「「「 ……………‥ 」」」」
「ということはだ。
4月終わりに秋撒き小麦を収穫した畑では、それから豆や芋や野菜が作れるんだ。
しかも冬の間でも育てられる作物は他にもある。
お前たちは今まで冬は農業が出来ないと思い込んでいたようだが、そんなことは無い。
冬も畑で働いて作物を作れ」
「「「「 …………………… 」」」」
「どうだ、これで同じ畑で倍の量の作物が作れるようになるだろうに。
つまりお前たちは、先祖が犯したカン違いを当然のことだと思って真似し続けて、ずっと間違え続けていたっていうことだ。
なんでもっと疑問に思ったり考えたりしなかったんだ?」
「だ、だって、みんなそうしていたから……」
「その考え方が、みんなが何百年もずっと間違っていた理由なんだよ」
「「「「 ……………‥………… 」」」」
「ったく情けないよ。
たった一人でも秋に種を植えていたら、今頃皆食料には困っていなかったかもしれないのにな」
「「「「 うぅぅぅぅぅっ…… 」」」」
王国の農業・健康指導員たちは、いや指導員だけでなく、お忍びで来ている王子までも、猛烈な勢いでノートにボールペンを走らせていた。
農民たちにとって国の役人といえば雲の上の人である。
その役人たちが真剣に学ぼうとする姿を、皆痺れたように見ていた。
「それではシュロス村にいる700人の農民諸君、ここに俺の持ち込んだ秋撒き小麦の種がある。
そこの1反の畑に植えてみろ。
置いてある道具は好きに使っていいからな。
他の領の村に避難している者は、畑を囲んでよく見ているように」
皆がぞろぞろと畑に移動した。
そうして、シュロス領にいる農民たちは、小袋に入った麦の実をそのまま豆まきのように畑に撒いていったのである。
大地は呆れ返った。
(馬鹿だわこいつら……
こんな農業をずっと続けていたら、飢えるのは当たり前だろうに……)
どこからともなく鳥たちが飛んできて、畑に撒かれた小麦の種を啄み始めた。
男たちも女たちも子供たちも、棒きれや藁束などを手に持って鳥を追い払い始めている。
(あーあ、せっかく柔らかく耕してあった畑が踏み固められちゃってるわー。
周りの村人たちもなんの違和感も持たずに見てるし……)
「なあ村長、これで小袋1杯の麦の種を撒いて、どれぐらいの数の麦が芽を出して育つんだ?」
「そうですな、だいたい半分は鳥に食べられてしまいますが、残り半分のうち5粒に1粒は芽を出すと思います」
「ということは、10粒撒いて成長して麦の実になる種はそのうちの1粒ということだな」
「はい」
「それでその1粒からどれぐらいの麦が採れるんだ」
「おおよそ30粒ほどでしょうか」
「ということは、小袋1杯の種を撒いて、収穫は小袋3杯か」
「はい、ですが不作の時には小袋2杯ほどになってしまうのです」
「そうか、それではこれから俺が、小袋1杯の種で小袋10杯以上の収穫が得られる畑の作り方を教えてやろう」
「「「「 !!!!! 」」」」
「周囲で見学している諸君、隣の畑に移動してくれ。
鳥を追い払ってる畑の側は空けて、シュロス領の連中にもよく見えるように。
それでは指導員諸君、中央部分の20メートル四方ほどの範囲に少量の灰を撒き、そこの鍬で土を耕して灰を混ぜ込むように。
充分に灰を混ぜて耕したら、教えた通りに畝を作り始めろ。
畝の方向は南北方向だからな。
太陽の位置をよく見ながら作れ」
「「「 はっ! 」」」
(お、王子も参加したか…… 感心なやつだな)
「あー混ぜ込む灰はもう少し減らしていいぞ。
あまり多いと却って害になるからな」
「「「 ははっ! 」」」
間もなく耕しが終わり、指導員たちの手で畝が作られ始めた。
「そうだ、幅25センチほどの小畔の両側に、高さ10センチ、幅40センチほどの畝を作るんだ。
畝の上部はなるべく平らになるように。
その畝が出来たら、その上に2列ずつそれぞれ20センチずつほど離して、指の第1関節が埋まるほどの穴を空けて行け」
「「「 ははっ! 」」」
「穴あけが終わったら、穴の中に小麦の種を2粒ずつ入れて土を被せろ。
いいか、そっと被せるんだぞ。
その作業が終わったら、今度は水やりだ。
せっかく植えた種やその上の土が流されないように、小さい柄杓で少しだけかけてやるように」
「「「 はっ! 」」」
「よし、隣の1反の畑には小袋1杯の麦を撒いたけど、こっちの畑は5分の1反に、小袋5分の1ほどの種を撒けたな。
面積当たりの種の数は同じだということだ」
間もなく作業が終わった。
王子や指導員たちは水路で手を洗って、またなにやらノートに書き込んでいる。
「よし、これで種蒔きの見本は終了だ。
どうだ、よく見てみろ。
この畑には鳥が飛んで来ていないだろう」
「ほ、ほんとうだ……」
「あっちの畑にはあんなにたくさん鳥が来てるのに、こっちには1羽も居ねぇ……」
「鳥っていうのはな、地面に落ちている草の実や種を目で探してそれを食べるんだ。
だからこうして種を埋めてやると、種があることが分からずに食べに来ないんだよ」
(それでもカラスみたいに人が種を埋めているのを見ていて、それをほじくり返して食べようとする奴もいるけどな。
でも幸いにしてこのアルスにはカラスはいないみたいだし……)
「で、でもよう旦那、そんな風に種を埋めちまったら、いつまで経っても芽が出て来ねぇんじゃないか?」
「そんなことも知らなかったのか……
いいか、種っていうもんは適度な温度と水があると根を出しながら発芽するんだ。
このとき、種の中の胚乳の部分の栄養を使って胚芽のところから芽と根が出て来るんだよ。
お前たち、撒いた小麦の種を2日おきぐらいに掘り出して観察して、どんなふうに種が育っていくか調べてみたことはないのか?」
「い、いんや、親父も爺さんも、誰もそんなことしてなかったもんで……」
「もうあんなマヌケな種の撒き方をしていた親父や爺さんのことは忘れろ。
これからはお前たち自身が教わって、自分で考えて、自分で工夫して収穫量を上げていくように。
マヌケの真似ばかりしていてもマヌケのままだ」
「「「「 ……………… 」」」」
「そして、土に埋めた種は、自分で蓄えていた胚乳という栄養を使い果たしたころ、胚芽から出した根は土の養分を吸収し始め、発芽して地上に出て来た芽は日の光を浴びて麦の穂へと成長していくんだよ。
あと10日ほどしたら、隣の畑とこの畑をよく見比べてみろ。
どちらの畑にも同じ割合の種を撒いたが、出て来た芽の数を比べるんだ。
それから、さらに10日経ったら成長の度合いも比べてみるといい」
「あ、あの…… 旦那……
たったこれだけのことで、袋1杯の種が袋10杯以上の麦に育つんですかい?」
「育つぞ。
もちろんあといくつか必要な作業はあるけどな」
「「「「 ………………… 」」」」
「それではアリウル村に避難している諸君、諸君には別の仕事をお願いしたい。
皆はその荷車に籠と柿採取セットを乗せてもう一度柿の丘に行ってくれ。
そこで木についている柿の葉を取って籠に入れ、持ち帰って来て欲しい」
「柿の…… 葉っぱですかい?」
「そうだ、一本の木の葉を全部取らずに半分は残しておくように。
そうだな、この籠24個分取って来てくれ」
「「「 へ、へい 」」」
さすがに1000人近い人手があれば、そんな仕事はすぐに終わる。
農民たちが取って来た柿の葉はシスくんが作った網底の平箱に入れられ、日陰に干された。
「あの、ダイチ殿。
この柿の葉にはどんな意味があるのでしょうか?」
「ああアイス王子、手軽に出来る『遠征病』の特効薬を作っているんだよ」
「えっ……」
「この柿の葉を干した後に包丁で刻んでおくんだ。
それを甕にいれて水を注いで1日置いておけば柿茶が出来るからな。
少し苦いが薬と思えば飲めるだろう」
「あの、茶を飲むには茶葉を湯に入れるのではないのですか?」
「もちろんそれでも茶は淹れられるが、そうすると柿の葉の中にあるせっかくの特効薬成分が壊れてしまうんだよ。
アスコルビン酸は熱に弱いんだ。
それに水出しでも茶は淹れられるからな。
まあ柿の木が有るところでしか使えない方法だけど」
「ご、ご教授ありがとうございます……」
(こ、このお方様は本当に凄い方だ。
まるで智慧の塊のような大賢者だな……)
周囲では、指導員や代官見習いたちが感激に身を震わせながら猛然とペンを走らせていた。
まるで仏陀のお言葉を書き取る弟子アーナンダのようである。
いやだから『栄養学スキル』のおかげだってば!!