*** 135 迫る大災害 ***
「ダイチさま、失礼してテレビでニュースを見てもよろしいでしょうか」
「もちろんどうぞ」
スラさんが壁面のキャビネットを開くと大きなテレビが現れ、合わせたチャンネルではどうやら気象関係のニュースを流しているらしい。
画面にはタイ王国の地図と天気図が表示されていて、その横には真剣な表情のアナウンサーが立っていた。
「既に皆さまご存知の通り、今年のモンスーン期の総雨量はタイ王国北部で前線が停滞していたために、例年の2.5倍にも上っています」
画面が雨量表示に変った。
国内6個所ほどの地点のモンスーン期の平均雨量と今年の雨量が棒グラフで表示されている。
明らかに今年の雨量は多かった。
「これにより、ピン川上流のプミポンダム、ナン川のシキリットダム、ワン川のワトラーロンコン第1ダムと、ヨォン川のワトラーロンコン第2、第3ダムの貯水量は平均で95%に達しており、特にわが国最大のプミポンダムでは102%に達してしまっています。
このため既に計画放水が始まっており、チャオプラヤー川の水位は警戒水位を超えて危険水位に迫りつつあるのです。
あの2011年の大洪水以降、各地で放水路やワトラーロンコン排水トンネルなどが整備されて来ましたが、それらに積極的に水を流してもチャオプラヤー川の水位は依然上昇を続けている状況です。
さらに3つもの台風が我が国に迫って来ており、台風15号プラピルーンはベトナムに上陸後にタイ王国北部に到達する見込みで、16号マリアはタイランド湾を北上し、17号ソンティンもその後を追うかのように我が国に迫っています」
画面が広域地図に切り替わり、そこに3つの台風の現在位置と予想進路が表示された。
「幸いにも首都バンコクを直撃する台風は無い見込みですが、いずれもタイ王国北部や北東部を通過して熱帯低気圧になるとみられ、今後の雨量には厳重な警戒が必要になりました。
王室災害対策局の発表では、2011年大洪水以降の対策によって、当時の雨量の約2倍までの雨には耐えられる状況だそうですが、これらの台風3つの進路が予想通りだった場合には、総雨量が2011年の同時期の3倍近くに達する恐れがあります。
このためアユタヤの大工業団地では明日以降の操業を停止して、堤防の水門を閉じる作業が始まりました」
画面が広大な工業団地を取り囲む堤防の水門が閉まっていく映像に切り替わった。
「明日以降、チャオプラヤー川流域の全ての小中高校は臨時休校され、また各会社法人にも自主的な休業が呼びかけられました」
ここでアナウンサーは原稿から顔を上げ、真剣な表情でカメラを見据えた。
「流域のタイ王国国民のみなさん。
まだ時間の猶予はございます。
慌てずにゆっくりと高台の王立避難所への避難を始めて下さい」
画面が再び切り替わり、病院から患者が運び出されて行く様子が映し出されている。
「王立避難所には十分な量の食料や水の備蓄があります。
また、避難には自家用車を使わずに、臨時バスなどの公共交通機関をご利用ください。
この臨時避難用バスの運行に伴い、王国内の全ての高速道路と王国道1号線から5号線、21号線から24号線までの主要道も閉鎖されますのでご注意ください。
あの2011年の大水害に於いても、痛ましい犠牲者は僅か815人に留まり、『タイの奇跡』と呼ばれたのです。
今回予想される大水害に於いても、犠牲者ゼロを目標に努力致しましょう。
それではみなさん、今後とも気象・災害報道にご留意の上慎重に行動をお願いいたします」
報道番組が終わった。
スラさんがソファに背を預け、大きくため息を吐いた。
「すみませんダイチ殿、せっかく来て頂いたのに観光も出来ないようです。
明日の王宮での謁見が終わったら、すぐに日本経由でアルスにお帰りになられた方がいいかと……」
「あの、スラさん。
2011年の大洪水ってそんなに酷かったんですか」
「ええ、世界銀行がまとめた世界の自然災害と被害というレポートがあるのですけどね。
その報告によると、世界で最も被害額の大きかった災害はもちろんお国の東日本大震災で、2位も阪神大震災なんですけど……
3位はアメリカのハリケーン・カトリーナで、4位はタイ大洪水だったのですよ」
「!!」
「あの2011年タイ大洪水の被害総額は457憶ドル(≒5兆円)と推定されています。
日本やアメリカと違って我が国のGDPはさほどではありませんから、GDPに占める被害額では史上最大だったかもしれません。
まあ、ピン川とナン川の合流地点から始まるチャオプラヤー川の流域は372キロありますが、高低差はわずかに25メートルしかありませんからね」
(それ、日本人の俺が聞くと驚くんだけどさ。
世界の大河川ではそれが普通らしいんだよな。
アメリカの研究者が日本の水害を研究するために来日して、日本の河川を綿密に調べたそうなんだけど、そのときのセリフが『これは川ではなく緩やかな滝である』だったそうだし……)
「まあ、古代からの度重なる洪水で下流には肥沃な平野が出来たわけですから、その代償としては仕方が無いのかもしれませんが……」
「ねえタマちゃん」
「にゃ?」
「この地球の担当もツバサさまなんだよね」
「そうにゃ」
「それならツバサさまにお願いして、この地球にアルス中央大陸ダンジョンの分地って作らせて貰えないかな」
「ツバサさまにゃらすぐにOKを貰えると思うんにゃけど、いちおう神さまたち報告するための理由も欲しいかにゃ」
「まあ、このタイの洪水を防いであげたいっていうのが第1の目的だけどね。
第2の目的はアルス中央大陸のためなんだ」
「にゃ?」
「このタイ王国ってさ、金の準備量はともかく、国民の金消費量は世界第6位で日本を遥かに上回ってるんだよ」
「だ、ダイチさん、よくご存じですね」
「はは、金の売却方法についてはけっこう調べましたからね。
それにしても、なんでタイではそんなに金の消費が多いんですか?」
「それにはいくつかの理由があります。
これは世界第2位の金消費国インドドとも同じような理由なんですけど、タイでは娘が嫁に行くときに、金の装飾品を持たせてやる風習があるんです。
この金はその娘の財産と見做されるので、嫁いだ先が没落しても娘とその子供は食べて行けるようにという親心ですね」
「なるほど」
「もうひとつの理由は、インドドもタイも通貨価値が不安定だということがあります。
タイもたびたびバーツ危機に見舞われていますから。
ですから富裕層は資産を金やドルで持ちたがるんですよ。
それに加えて、タイでは日本と違って仏教寺院の装飾に金が多用されていますから、寺院にお布施を渡すときに、境内で金の粒を買って、それを寺に納める風習もあるんです。
寺はその金を金箔にして寺の建物や仏像の台座に貼るんですよ」
「なるほど、そういう消費でしたか。
それで、それほど消費が多いんでしたら、ひょっとしたらこの国でアルスの金を買い取って貰えるんじゃないかと思いまして。
しかもタイは農産物の輸出国ですから、金を売ったお金で作物も買わせて貰えるかもしれないですし」
「なるほど」
「にゃるほどにゃあ。
金を売るために、洪水を防いで恩も売りたいっていうことかにゃ」
「はは、恩を売るためっていうとちょっと人聞きが悪いけど、日本には『情けは人のためならず』っていう言い回しもあるしね」
「わかったにゃ、それじゃあ今からあちしはツバサさまのところに行って、お伺いを立てて来るにゃ」
(ダイチさん、タマちゃん)
「あ、ツバサさま……」
(お話は聞いていました。
今からそちらに行ってもよろしいかしら)
「も、もちろんです……」
その場にツバサさまが現れた。
やはりいつものマッパワーキャット姿だ。
スラくんは一瞬硬直してから跪いて頭を下げている。
「スラークン・イムチャンロンさんとは初対面でしたね、天使ツバサと申します。
いつもダイチさんを助けて下さってありがとうございます。
これからもよろしくお願いしますね♪」
「こ、こちらこそよろしくお願いいたしますです……」
「ところでダイチさん、先ほど神界の神さまたちからご連絡を頂戴しまして、ここ地球にアルス中央ダンジョンの分地を作る件について許可が下りました」
「は、早いですね……」
「それに伴い、地球でもある程度はダンジョンのことが知られるようになるでしょうけど、それも構わないそうです」
「えっ…… い、いいんですか?」
「そもそも地球にダンジョンを作らなかったのは、その資源量も技術の発達も十分だったからですし。
神界が管理する銀河の星々では、その約1%にダンジョンがありますから、地球人に知られても特に問題は無いそうですよ♪」
「あ、ありがとうございます……」
「どういたしまして。
これで金が売れて穀物が買えるようになれば、アルス中央大陸のひとたちももっと幸福になれるでしょうから♪
担当天使としても、地球の大災害が防げてアルスも助かるのは嬉しいです♡
ですけどダイチさん、今後のためにもダイチさんの身元は隠しておいた方がいいんじゃないかしら」
「うーん、それもそうですね。
でもどうやって隠しましょうか」
「『変化』の魔法で姿を変えたらいかがですか」
「なるほど」
「どんな姿がいいかにゃあ、いっそ女の子になってみるとかどうかにゃ?」
「そ、そそそ、それは出来れば勘弁して欲しいかな……」
「うふふ、それではこんなのはどうかしら」
大地の体が光った。
その光が収まると、そこに立っていたのは……
身長190センチ、体重100キロほどで25歳ぐらいに見える青年だった。
何故か着ていた服も体に合わせて大きくなっている。
顔の掘りはやや深くなり、アジア系と西欧系の混血に見える顔は随分と凛々しく、全体に少し浅黒くもなっていたが、それが日焼けなのか民族的なものなのかは判然としない。
控えめに言ってもハリウッドクラスのイケメンだった。
「どうかしら、わたしの想像する10年後のダイチさんなんですけど♡」
「へー、ダイチはこんな大人ににゃるんにゃなぁ♪」
「今ダイチさんにこの姿への変化魔法を授けました。
いつでも元の姿に戻れますし、またこの姿になるのも簡単ですよ♪」
おっぱいがまた嬉し気にふりふり揺れている。
それを見て目を真ん丸にしたスラくんが、慌てて視線を逸らしていた。
(スラさん、わかるよその気持ち……
あれは見なかったことにする以外に何も出来ないからな……)
大地はドレッサーの鏡で自分の姿をしげしげと眺めてみた。
「確かにこれなら誰も私だと気づかないでしょうね。
陛下は少し驚かれるかもしれませんが」
「ふふ、まあ元ダンジョンマスターですからね。
『変化』の魔法だと言えばすぐわかってもらえるでしょう」
「それもそうですね」
「ダイチ、名前も変えた方がいいにゃあ」
「そうか、どんな名前がいいかな?」
「『阿修羅』とかカッコいいにゃ♪」
「………………」
「そうね♪ それがいいわ、それじゃあ第2形態も作りましょうか♪」
鏡の中の大地の顔の左右にひとつずつ顔が増えた。
腕も増えて6本になり、横や上でポーズを取っている。
(マジかよ……
最終形態はナニになるんだ?)
「そ、それにしても、よく神界は許して下さいましたね」
「ええ、どうやら最近は、よほどのことが無い限りダイチさんの希望は全て通るようになったようなのです。
これもダイチさんが、神界も予想出来なかった方法で中央大陸に幸せを齎し始めたからでしょう♪」
「それじゃあまた神さまたちにお礼でもお送りさせていただきましょうか。
何がいいですかね?」
「あの…… 神さま方には出来ればあの紅茶と焼き菓子がよろしいかと……
そ、そそそ、それから、ももも、もしよろしければわたくしにも少し……」
「それじゃあまたたくさんお持ちしますね♪」
「あ、ありがとうございます……
そういえば神さま方が、あの焼き菓子は1枚いくらぐらいするものなのかと仰られていたのですが……」
「ああ、あの〇コナッツサブレってすごいんですよ。
あれだけ美味しいのに1枚5円ほどなんです」
「えっ……」
「日〇シスコ、がんばってますよねぇ♪」
神界の神さまたち:
「それでは素晴らしい焼き菓子を作っている地球の『日〇シスコ』とやらを、皆で祝福してやろうではないか!」
「「「「 うむ! 」」」」
その日……
某菓子メーカーの工場が突然巨大な白い光に包まれた現象について、ネット界では大騒ぎになっていたが、理由が皆目わからなかったためにすぐに鎮静化したそうである……