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*** 1 厳冬期の冬山にて ***

またお話を書いてみたくなりました。

投稿初日に1話しかないのも寂しいので、今日は3話投稿です。

明日からは毎日20:00に1話ずつ投稿の予定です。

よろしく……

 


 1月3日早朝。


 15歳ほどに見える少年が窓を開け、まだ薄暗い空を見上げた。


(うん、天気は保ちそうだな……)



 次いでPCを起動して天気情報のサイトを開く。


(目立った低気圧は来ていないか……

 ただ、シベリア寒気団がだいぶ南下しているらしいから、気温だけは相当に低そうだ。

 ああ、低温警報も出てるのか)



 窓から見える範囲には、道路と電柱以外にほとんど人工物は見当たらない。

 100メートルほど離れた場所に朽ちかけた家屋が2、3見えるのみである。



 ここはいわゆる放棄集落。


 村の住民が高齢のために老人福祉施設に入るか、または仕事を求めて街に出て行ってしまったために、住民が居なくなった村。


 耕作地らしきものは僅かに残っているが、もはや雑草が伸び放題になっており、その草も薄く雪に覆われている。




 少年は窓を閉めて隣室に入り仏壇の前に座った。

 仏壇には父方の祖父母の遺影が飾られている。



「佐伯さんと須藤さんと静田さんには一昨日挨拶を済ませたよ、じいちゃん。

 すっかりご馳走になってしまったけど」



 弁護士の佐伯と医師の須藤と実業家の静田は祖父の古くからの友人である。

 彼らの話を聞いていると、どうやら彼らにとって祖父は友人というよりは恩人らしいが。

 少年は8年前に事故で両親を亡くし、昨年夏には唯一の肉親である祖父を失った。

 祖母もとうの昔に亡くなっており、母方の祖父母も既にいない。



 祖父の財産目当てに少年の未成年者後見人に名乗り出た本家を排除して、中学3年生の少年の法定後見人になってくれたのは弁護士の佐伯である。

 遺言状にも書かれていたし、生前の約束もあったらしい。

 それまで本家との交流が一切無かったこともあり、家裁は市の弁護士会会長でもある佐伯を後見人に選んでくれていた。



「それじゃあじいちゃん、そろそろ出かけるわ」



 少年は冬山装備を身に着け、昨晩用意してあったザックを背負い、2本のポールを手に取った。

 80ℓ級大型ザックの重量は水2リットルを含めて約18キロ。

 途中で不時露営ビバークする可能性も考慮してテント等も持ったためにこの重量になっている。



 因みに、このクラスの大型ザックであっても横幅はさほどに大きくない。

 少年が山道を登っている姿を正面から見たとしても、ザックを背負うベルトとウエストベルトの他には、頭部の横にザックの上端が見えるだけだろう。


 岩稜帯の岩や樹林帯の立ち木にザックの側面をぶつけてバランスを崩し、転倒、滑落するのを防ぐためにそういう作りになっている。


 登山用品店で、サイド部分に荷物を入れるためのポケットやベルトの着いたザックを見るたびに、祖父は苦笑していた。



 その代わりに、ザックの形は上方ほど径が大きく後方に広がっている。

 ただ、20キロ近い重量を背負うと人はやや前屈みになるため、横から見たザックはバランスの取れたV字型に見えるだろう。

 本格的なヘビーユースのザックは皆そういう形になっている。



 少年が向かう先は家の裏山だった。

 この山は昔祖父が没落した本家から購入していたため、今は全て少年のものとなっている。


 この家のある地点の標高は1200メートル。

 目的地である山小屋の標高は2000メートル近いため、道は途中から完全に雪道となることだろう。

 冬山装備は当然である。



(今の気温はマイナス12度か。

 厳冬期には山も麓もあまり気温は変わらないとはいえ、上はマイナス20度近いだろうな)



 それでも少年の顔に恐れは無い。

 毎年盆と正月には祖父と共に登った慣れた道だった。

 祖父は大変な労力をかけて、時には人も雇って長い年月に渡って道を整備していた。

 行こうと思えばスノーモービルでも小型のブルドーザーでも通れるほどの道である。



 余談だが、昔気象庁が富士山の山頂に測候所を建てたときも、資材を運んだのは小型のブルドーザーだったそうだ。

 もちろん工事は夏の間だけだったが。

 冬富士は登山家の間でも日本有数の難易度を誇るルートとされている。


 

 ありがたいことに、こちらの道には雪崩や滑落の危険はほとんど無い。

 山肌の傾斜がそれほどではないことに加えて、鬱蒼たる巨木の森の中の道である。


 これほどの立派な木が生えているということは、その成育期間中、大規模な雪崩の被害に遭わなかったことを意味しており、少年は祖父と一緒にこの山を登るたびにそうした知識を教えられていた。


 ただ、難点があるとすれば、傾斜が緩い分積雪が多いことか。



 厳冬期用登山靴に4本爪の軽アイゼンを装着した少年は、山道を軽快に登って行く。

 標高にして300メートルほど登ると雪が深くなって来た。

 少年は休息を兼ねて軽アイゼンを脱ぎ、ザックに括り付けていたスノーシューに履き替えた。

 踵を上げる機構のついた高級品である。


 資産家だが浪費家ではなかった祖父が、唯一少年に潤沢に買い与えてくれたのは、こうした登山用品やサバイバルグッズだった。

 本人はそれ以外にも大振りの鉈や刀剣なども収集していたようだが。


(去年の誕生日に買って貰った〇クトリノックスのサバイバルツールセットが形見になっちまったなぁ……)



 そのセットは最上級者向けの物だった。

 店頭には並んでおらず、取り寄せになるような品である。

 大きめのペンケースのような箱の中には刃渡り8センチのナイフがあったが、大きな鍔の部分は分離式になっていて嵌め込んで使う。

 ナイフに加え、キリや裁縫セット、小型だが強力なLEDライト、マグネシウムマッチに小型ガスバーナー、ハサミにワイヤーソーが付いていた。


 この裁縫セットの中には絹糸と曲がった針まで入っている。

 もちろん大きな怪我をしたときに自分で傷口を縫い合わせるためのものだ。

 ワインオープナーだの栓抜きだの、文明の地で必要とされるものは全く入っていない完全なエクスペディション仕様である。



 祖父が金を惜しまなかったものはもうひとつ。

 それは少年が剣道道場と総合格闘技(MMA)のジムへと通う費用だった。

 どちらも本格的な道場とジムだったが、祖父はそれぞれ月に10万円も追加で払い、週2回1時間ずつ師範とマンツーマンの特別鍛錬も依頼していた。


 剣道場では小太刀を使った二刀流や真剣を使っての巻き藁切りまで教わり、MMAのジムでは、ナイフ格闘術、目つぶしや金的蹴りまで加えての実践戦闘術、いわゆるCQC(Close Quarters Combat)を教わっている。

 完全に殺し合いの白兵戦を想定したもので、元アメリカ海軍特殊部隊(SEALs)の訓練教官だったという日系アメリカ人師範の特別訓練になる。

 少年が将来成人に達したら暗器の扱いまで教えてくれると言っていた。


 最近では、MMAのジムでは一般コースの師範代みたいなこともやらされている。

 特に練習生たちのスパーリングパートナーとして働いているため、少々だがバイト代も貰っていた。


 剣道場の師範からは4段相当の腕と言われ、全国大会への出場も勧められていたが、祖父の意向もあって大地は中学の剣道部には入っていなかった。



(それにしても、じいちゃんは俺に何をさせたかったんだろうな……

 16歳になったら全て教えてやるとは言ってたけど、その前に心筋梗塞で死んじゃったし。

 でもあのじいちゃんのことだから、あと半年して16歳になったら佐伯さんあたりから手記でも渡されるかもしれないな。

 そうか、もう将来のためのアドバイスをくれるじいちゃんはいないのか……

 高校生になったら進路も考えなきゃなんないだろうし、俺は将来何をしたいんだろうなぁ……

 出来れば、金儲けよりも公のためになる仕事を選びたいもんだけど……)



 少年は考え事をしつつもまた歩き始めた。

 山肌に作られたなだらかな九十九折れの道を快調に登ってゆく。

 何度目かの休息の時にザックにつけた温度計を見てみれば、気温はマイナス16度に達していた。



(じいちゃんが言ってたか。

 夏山では50分歩いて10分の休息、冬山では25分歩いて5分の休息。

 休息するのは疲れたからではなく疲れないようにするため……

 特に冬場は汗をかきすぎて服を濡らさないように休息は小まめに……

 まあこの気温だと5分以上休んでると体が冷え切っちゃうからなぁ……)



 よく初心者が『自分のペースで歩きたい』と言って単独行動したり、パーティーの先頭で歩きたがるが、不思議なことに初心者は3時間で疲れ果てて動けなくなるペースで歩き、初級者でも5時間で潰れるペースで歩いてしまう。

 中級者以上は、8時間、余裕を見て10時間は継続して歩けるペースを知っている。


『100メートルを全力疾走したら相当に疲れるだろう。

 それを日に10本も熟したら血尿が出るほどの疲労に見舞われる。

 だが、1000メートルを歩くのは何ほどのものでもない。

 つまり、人を疲れさせるのは距離でも標高差でもなく、常に速度なのだ』


 これも祖父の教えだった。


(夏山なら3時間と少しの道だけど、この積雪と荷物の量だと今日の行程は6時間を超えるか……

 もう少しペースを落とそう……)



 道の途中、ところどころに立ててある積雪計測用の杭を見れば、今いる1600メートル地点の積雪は1メートル20センチ。

 目的地の小屋付近では1メートル50センチを超えるだろう。

 だが、ありがたいことに雪が締まっていてスノーシューがよく効く。

 足の沈み込みは25センチほどだった。



(2年前は大変だったよなぁ。

 年末にドカ雪が降って、麓でも積雪は1メートル50センチもあったし。

 スノーシューを履いててもじいちゃんはヘソまで雪に沈んで、俺なんか胸まで埋まってたもんな……

 じいちゃんも俺もザックをデポして空身で50メートルほどラッセルして、その後ザックを取りに戻ってを繰り返してたっけ……

 8時間歩いても半分ぐらいしか登れなかったんで、途中でテント張って1泊してたし……)



 3時間ほどの行動の後、少年は中間地点のやや平らな場所に至った。

 2年前にテント泊した場所である。



 少年はザックを降ろしてレーションを取り出し、雪面に置いたザックの上に腰を降ろした。

 休息時にザックの上に座るため、壊れやすいものはもちろん上の方にパッキングしてある。

 柔らかい雪の上に直に座るのは難しい。

 ヘタをすると体が沈み込んで起き上がれなくなる。


 因みに登山の解説書などを読むと、ザックの中は下に軽い物、上に重いものをパッキングせよと書いてあるが、あれは誤りである。

 ウエストベルトの無い袋のようなザックが主流だった古い時代の名残か、もしくはせいぜい40ℓ級のザックまでの話だ。


 ザックの重心がなるべく背中寄りになり、また自分の重心のやや上に来るようにパッキングするのが正解である。

 ザックの重心が高ければ高いほど、歩くたびにふらふらして山では危険極まりないのだ。

 頭の重い乳幼児が転びやすいのと一緒である。



 行動食レーション袋の中にはチーズ、チョコレート、蒸しパン、サラミなどの高カロリー食品が多種多様に入っていた。


 登山などの高負荷運動を続けると体内のグリコーゲン消費が激しい。

 通常は6時間ほど、早ければ4時間で運動機能が低下して、酷いときには体温も下がり始めるために、休息ごとにエネルギーを摂取する必要があった。

 それも5分から10分の間に食べられるものが求められる。



『最も早くエネルギーとして吸収される高カロリー食品は『白砂糖』だ。

 次はコーラ、その次は白いパン。

 行動食としてはまずこれらが望ましいな。

 アメリカでは風邪をひいた子供を医者に連れて行くと、体力維持のためにコーラを飲ませてあげてくださいと言われるそうだ。

 まあコーラは重いから行動食としては省いてもいいが。


 サラミやチーズや魚肉ソーセージなんかは消化吸収が遅いから、ビバークのときの非常食のつもりで持っていろ。

 それから汗をかきすぎて脚が攣った時には塩と水分を補給しろ。

 5分から10分ですぐに筋肉の痙攣は収まる。

 故に山で最も重宝するサプリメントは『砂糖と塩』だな』



(じいちゃんの教えはいつも具体的だったなぁ……

 ワークショップで熱所作業用の塩の錠剤まで買ってたっけ……)





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