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手を伸ばす。
そーとっ。静かに。手はないのだけれど。
徐々に、手首、肘、肩、胴体。そして最後に足。
閉まっている自動ドアをすり抜けていく感覚が確かにある。
そして、俺はコンビニの外に出た。
「これじゃあホントに透明人間じゃねえか」
思わず独り言を呟いた。だが、その独り言も誰かに聞こえることはない。
コンビニの店内で、俺は三十分ほど混乱していた。騒いで、暴れて、助けを求めた。店員や客にまとわりついて必死に今の俺の状況を説明した。
だが、それも全て虚しく空回り。誰に近づいてもぶつかっても触れやしない。空振りだ。無視をする奴らにイラついて、客の一人に罵詈雑言を浴びせ殴りかかった。空振りだ。
もうどうすればいいのか分からなくなって途方に暮れていた時に思い出したのは、女が化物に変身した時のことだ。思い出しただけで身の毛もよだつ。
あれに比べれば、どんなことだって大したことはないと思えた。
そうだ、そうだよ。だいたい俺はもう非現実的なことを体験しているんだ。
そう考えると、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。だいぶ感覚が麻痺しているのだと思う。
とりあえず、状況を整理しよう。
俺は、トイレの外にある洗面台の鏡の前に立って考えた。鏡には何も映っていない。いや、正確に言えば、俺の背後にあるはずの景色が普通に映っている。俺だけが映っていない。
深く息を吸い、呼吸を整える。はたして、これが呼吸と言えるのかはさておき。
なぜ俺は、こんなところにいる? なんだこの姿は?
「……」
駄目だ。いくら考えても分からない。というか分かるはずがないのだ。
確かなことはただ一つ。絶対にあの化物のせいだということだ。
俺はその後、さらに三十分ほど、この身体にできることを探した。
結局、分かったこと。それは、この身体じゃ何もできないということだ。
俺の声は誰にも聞こえないし、姿も誰にも見えない。全てのものが俺の体をすり抜ける。だから、人とぶつかることもないし、ものを持つことも掴むこともできない。確かに、体を動かす感覚は普通にあるのだが。
今の俺は、例えば、主観の映像みたいなそんな感じの存在なのだ。二つの目玉だけが宙に浮いていると考えたらいい。まあ、目玉も見えないわけだが。
いつになったら戻るのか。はたまた本当に死んだのか。何も分からない状態の中で、どういうわけか俺の中に一つだけ気になることがあった。
このコンビニのチャイムをどこかで聞いたことがあるのだ。気のせいではない。どのコンビニにでもあるチャイムではない。壊れたようにプツリと切れる間抜けな音。俺は確かにこの後に聞き覚えがある。
こんな状況なのに、些細なことが気になる自分が少し不思議だったが、何故だかこれが一つの手がかりのような気がしたのだ。
その手がかりを探るように、俺はコンビニの外に出たのだ。
チャイムは俺が通っても鳴らない。
辺りを見回す。空はどんよりと暗い。今は、夕方か。小さめの駐車場には、一台車が止まっている。
コンビニの左隣にはパチンコ屋がある――
その瞬間、ある記憶のかけらが頭の中に飛び込んできた。
「ここって……」
俺は、向こう側に目を向けた。大きな道路を挟んだ向こう側には、ラーメン屋が立ち並んでいる。それから、居酒屋。入り口には客引きの若い男が道行く人に声をかけている。
記憶のかけらがパズルのピースのように俺の頭をペタペタと覆う。
この風景。見覚えがある。
俺はもう一度、コンビニを見上げた。あのチャイムの音が脳内で反芻される。
そうだ。どうして気がつかなかったんだ。俺はこの場所をよく知ってるじゃないか――
由梨と出会う少し前のことだから五、六年ほど前だろうか。俺は横浜のとある街に二年住んでいた。
当時書いていた小説が横浜を舞台にしたラブストーリーだった。
山下公園、海、そして、町の雰囲気。全てをよりリアルに描写するために、安い家賃のアパートを探しわざわざ引っ越してきて、毎日のように横浜の街を観察した。
その小説に俺は全てをかけていた。
そうして出来上がったものに、俺は絶対の自信を持っていた。自分史上最高傑作だという自負があった。なにせ、引っ越しまでして書いたのだ。だから、二次選考を通った知らせを聞いた時も当然だと思った。
しかし、そこまでだった。俺の小説は二次選考どまりで、小説として世に出ることはなかった。
嘘だと思った。愕然とした。絶望した。あの小説でも、俺を小説家にしてくれることはなかった。
だから、そのとある横浜の街は、俺にとって思い出したくない苦い過去のある場所なのだ。
そして今、その場所に俺はいる。
間違いない。ここは、あの頃俺が住んでいた横浜のとある街だ。
「なんでここに……」
改めて街並みを見渡す。
あの頃とちっとも変わっていない。まるで、この空間だけ時が止まっているみたいだ。
横浜は、駅前をはじめとして、常に工事をしているイメージがあるが、ここがまさかここまで変わっていないとは。ここのコンビニに至っては、五年もチャイムを直していないのだ。
コンビニもそうだが、アパートは、バイト先はまだあるのだろうか。
少しばかり懐かしい気分に浸りそうになる。
だが。
今更ここへ来てどうなるというのか。俺はこの世に未練なんかなかったんだ。この場所なんかは特にだ。
俺のあの頃の生活といえば、家とバイト先を行ったり来たりするだけの乾いた毎日。一週間に一度この変なチャイムのコンビニで、冷凍食品を買い溜めする、クソみたいな生活。全てを犠牲にして小説に命をかけた生活。
それでも、ダメだった。俺のあの苦労した生活は、全て無意味だったのだ。
そんな場所に今更来たところで……
何が何だか分からないが、嫌な気分だ。こんな場所見たくもない。と言うか見たい場所なんかはこの世にない。
あの頃も、俺はきっと透明人間だったんだ。俺は、この世にいないに等しい人間なんだ。いらない人間なんだ。
まさか、この姿にはそういう皮肉が込められているのか? だとしたら上出来だ。
自嘲気味に笑うと、俺はとりあえず歩き出した。どうすればいいのかなんて分からなかったが。
そうしてコンビニの敷地内から出ようとした時だった。
「ん?」
俺は動きを止めた。いや、止めざるを得なかった。
ないはずの身体が動かないのだ。とりもちでも付いているのかと足元を見ても変わった様子はない。というか、足すらないのだから当然だ。
この街が嫌だから動かないとかいう感情論じゃない。物理的に動かないのだ。そんなことは、今までなかった。
「わあ、雪だ」「雪降ってきたよ」「すげー、どうりで寒いと思った」「めずらしーねー、横浜で雪なんて」
周囲を歩いている人たちが騒ぐ声がした。
動けないが耳は聞こえる。
雪? 何を言ってるんだ?
そう思い、視線を上に向けた。
フワフワとした白いものが目の前に迫ってくる。
雪だ。本当に雪が降っている。
周囲の人間は皆、手の平を上に向けたり、空を見上げたりしている。
そういえば。
この身体になってから、寒さや暑さを感じていない。だから雪が降っているのに気づくのが遅れたのだ。そんな特性がこの身体にはあったのか。新たな発見だ。
だが俺は、そんな悠長なことを考えてられないほど、重大なことに気づいた。
ちょっと、待てよ。なんで、お前らそんなに冷静なんだ? 珍しいね? 何を呑気なことを言っているんだ?
今は夏のはずだろう?
そうだ。俺は丘の上の木に到着するまでに滝のような汗を流してきたのだ。
夏に雪? 珍しいなんてもんじゃないだろう。異常気象にもほどがあるぞ。
まさか、この世界もあの木と同じように熱が奪われていくとでもいうのか?
周囲の人間を見る。店内にいる客も、道を歩いている人たちも厚着をしている。手袋、マフラー、ダウンコート。どれも夏にはお目にかかれないものだ。
そういえば、時間帯も違うぞ。俺があの丘にいた時は、まだ昼過ぎだった。だが、今はどうだ。薄暗くなりつつある。
雪は勢いを強める。ハラハラからモソモソへと、雪の量が増える。その全ての雪が俺の体をすり抜ける。
おかしい。一体、どうなってる。
ふと、思い出したことがあった。
俺が初めてこの街に越してきて迎えた冬。
あの時は、珍しく横浜で積雪が観測された年だった。
間違いない。
俺は改めて街全体を見渡した。
どうもおかしいと思っていたんだ。五年も経っているのにあまりにも風景が変わらなすぎる。
例えば、あの道路の向こうの居酒屋の客引き。あいつは、五年前もいた。見た目が全く変わっていない。全くだ。
それから、あの一番奥のラーメン屋。あれは俺がこの街を出て行くと同時に潰れたはずだ。なぜ、明かりがついて客の出入りがある?
そして、コンビニの右隣。ここは昔、アウトレット商品を売るための期間限定の雑貨店だった。その看板がなぜ今も立っている?
俺がどれだけ小説を書くためにこの街を観察したことか。俺の記憶は全部正しいはずだ。
次の瞬間、俺は弾かれたようにコンビニの店内に駆け込んでいた。どういうわけか、今度は身体が動いた。
自動ドアをすり抜け、迷わず雑誌が並ぶ棚へ行く。
適当に雑誌を手に取る。スカッ。
「クソっ。そうだった」
俺はこれでもかというほど売り場に顔を近づけて、雑誌の表紙を見た。並べられているものを片っ端から見ていった。
「やっぱり――」
そこに並べられていた雑誌は、全て五年前のものだった。
立ち読みしている人たちは、なんの疑問も持たずに雑誌に視線を落としている。
そこで俺は全てを理解した。到底理解できることではないにもかかわらず。
俺が今いるこの世界。
ここは、五年前の世界だ。五年前の冬。
街並みが変わっていないのではない。五年前の世界、そのままなのだ。
信じられないが、俺は五年前の世界に来てしまったのだ――




