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「改めまして、吾輩は地獄の住人でーす。名前はまだありませーん。よろー」
木陰で向かい合った俺に、化物女は言った。
なんだかこうして、落ち着いて女の顔を見たのはここに来てから初めてのような気がする。
「最近さ、ソーセキ? ってやつの小説にはまっててね。なかなか面白いよ。あれ読めば、人間のことも猫って生き物のことも分かるからね」
化物女は手に持っていた小説をひらひらさせた。それは、夏目漱石の「吾輩は猫である」だった。
「しかもさ、こいつは確か自殺してないんでしょ? だから好きなんだよねえ。あいつと違って。あの辛気臭い、人間失格、だとかどうとかほざいてるやつ」
「……太宰……?」
思わず反応する。
「そう! 」
化物女は、目を大きく開いた。「あーゆー、あからさまに厭世的なの私大っ嫌いなんだよね。あれ見て、たくさんの人間が自分のことが書かれてるなんて騒ぐんでしょ? 馬鹿みたい。人間ってなんでそんなに悲観的なの?」
「……漱石だってそういうの……なくはないと思うんですけど……」
「あいつは自殺してないからいいの!」
「……結局……そこですか……」
体に恐怖が刻み込まれているのだろう。自然と敬語がでる。
それに、化物女と普通に会話をしてしまっている。
あまりの混乱と恐怖で、自分でも訳が分からない。
落ち着こう。
俺は頭をリセットしようとした。とりあえず、一つ一つの情報をまずは受け止めよう。じゃないと頭が追いついていかない。
「あなたがダザイのようになっては困るのー」
そう言う目の前の美女は、信じられないが本物の化物だ。変に逆らってあの姿に化けられても困る。
何から話すのか。何から聞くのか。悩んだ末に、俺が出した言葉は、
「……天国や地獄って、本当にあるんですか」
だった。
混乱している。
今、俺は多分、人生で一番混乱し、当惑し、困惑し、狼狽している。だから、なぜそんな質問をしたのかと聞かれれば、そう答えるしかないと思う。
強いて言うなら、死を近くに感じているから、その後に興味が湧いたのかもしれない。
「どうなってるんですか、地獄は? そういえばさっき言いましたよね。自殺者は地獄で厄介な存在だって。それどういうことですか。あなたはどうやってきたんですか?」
「うーん、うるさいっ」
化物女が髪をかきむしりながら言う。「ホント質問攻め。クエスチョンマーク多すぎ。いいよ、それは。そんなんはあなたに関係ないから。あなたが考えるのは死なないこと。それだけ」
黙る。やがて言う。「無理ですよ……」ぶっきらぼうな口調で。やけくそで。
「具体的にどうやって自殺を止めさせるんですか。俺は絶対に死ぬのをやめませんよ。俺は、もういいんです。こんな世界。地獄でもなんで行ったほうがいい。死にたいんだ」
「ああ、もうっ。だったらさっさと死ねっ」化物女が金切り声をあげる。
「え……」
「あ……それじゃあダメなんだった。えーとっ、もうやだ。あんたと話してるとイライラする。あんたに限っては、ずっと見ててイライラしてたのよ。やっぱりつまんない人間が書いた本はつまんないのよねっ」
「本……」
考える。そうか。この化物女は俺のことをずっと見てきた。だから、俺が小説を出版したということも知っているのだ。それにしても、俺のことが全て知られていると思うとなんだか気持ち悪い。
だが、それよりも、
「俺の本は……つまらなかったですか」
「うん。ちょーつまんない」投げ捨てるように即答。
この化物女が、顔をしかめながら俺の本を読んでいる様が鮮明に浮かぶ。想像の中で俺の小説は、半分もいかないうちにぶん投げられる。
「ソーセキの方が百万倍面白い」
化物女は木の幹に手をついて伸びをしたりしながら答える。その姿はしなやかな猫のようだった。体のラインがはっきりと見える。これがあの異形の化物と同一とは思えない。あちらの姿が本物なのだろうが。
「漱石と比べんなよ……」
俺は化物女から目をそらした。
しかし、自分の作品をボロクソに言われたにも関わらず、不思議と怒りは湧かなかった。恐らく、心のどこかで、俺の小説は面白くないと自分で気付いているからだろう。
そしてもう一つ。
読者の感想を聞いたのがなんだか新鮮だったのだ。
そんなことは初めてだった。百部も売れてない、ネットには悪口すら書いていない。そんな俺の小説が読まれているという実感。
今更こんなの感じても、もう遅いのだが。
「そうだ……本といえば」
俺は俯いていた顔を上げ、木を見上げた。
「これ、生やしたって。なんかあの時は何言ってるんだって思ってたけど、もしかしてあなたと関係してるんですか?」
俺の言葉を聞いて、化物女は木からパッと離れた。
「そうそう。本題はこれよ。これはねえ、地獄の力でバトンってのがあるんだけど、それで人間界にはない特殊な木にして……」
そこまで言うと、化物女は電池の切れたおもちゃみたいに喋らなくなった。と、思うと「あなたはまあ、うるさいから、説明するより、実際やってみたほうが早いか」
「……やる?」
「いいからこっち来て」
化物女は俺を手招きで呼んだ。俺は木の幹の目の前に立つ。
「はい、ここに触ってみて」
化物女は幹をパンパンと叩いて目で俺に催促する。
「は? なんで?」
「いいからっ」
すると、化物女は無理やり俺の手首を掴んだかと思うと、俺の手のひらを木の幹に押し付けた。
「ちょ……熱っ」
木に触れた瞬間、手のひらに熱を感じた。思わず手を離す。
今自分が触れていた場所をまじまじと見る。
なんの変哲も無い木の幹だが……なんだ今のは。
大地や自然の力? 違う。そんな代物じゃない。木が人間のように体温をもって生きているような感覚だった。
「ここに近づくにつれて、暑さを感じなくなったでしょ? それは、この木が熱を全部吸い取ってるからなんだよ」
化物女が言う。
「そんなことが……」
いや。ある。あるんだ。もうここに来たからには不思議なことなど何もないのだ。
隣にいる真剣な顔の化物女を見る。もう全て現実に起こっていることなのだ。
ドサッーー
後ろで何か音がした。
振り返ると、地面に一冊の本が落ちている。
その上、延長線上を見る。
「なんだ? 本が落ちた?」俺はその本に向かって歩き出す。
化け物も後ろからついてきた。そして、独り言のように喋り出した。
「人間界は確か、アダムとイヴがリンゴを木から取って食べたことで、今の世の中が作られていったのよね」
足元にある本は、緑の草の中に埋もれている。
「禁断の果実……」
俺は呟きながら、その本を手に取った。
熱い。さっきの木の幹と同じように、人に触れているみたいだ。
真っ赤な表紙には、変な紋章が描かれている。単行本よりも分厚く重厚感がある。
「違うのよねえ、地獄は」
化物女が傍で言う。
「人間界はアダムとイヴによって、大きく世界が作られた。エデンの園から大きな大きな物語が始まったのかもしれない。それは、今も続いている。でも、違うの」化物女は言葉を区切った。その口調は、さっまでの楽観的な雰囲気を微塵も感じさせない。
「違う?」
「この木になる本には、決して大きくはない、むしろ小さい、終わりの物語が閉じ込められてる」
「は……?」
「見れば分かるわ」
視線を本の表紙に戻す。俺は恐る恐るというふうに表紙をめくった。
「なんだこれ……」
そこには、日本語でも英語でもない、おそらく文字なのであろう羅列が横書きであった。しかも、文字は表紙と同じで全て赤い。
読めないページをペラペラとめくる。どのページも同じで、真っ白な紙上に赤い文字がびっしりと並んでいる。しかも一ページ一ページが熱い。
象形文字? 呪文? 一体この本は何だ? 何が書かれているんだ?
俺は、化物女にこの本のことを聞こうとして横を見た。
その時だった。
「熱っ――」
俺は、反射的に本を放り投げていた。本は、化物女の足元に閉じられた形で落ちた。
なんだ、今のは。ぐぅーっと、本が内側から熱を放出したみたいに一気に熱くなった。持っていられないくらいに。
だが、それで終わりではなかった。
今度は、本が一人でに開いたのだ。風が吹いたわけでもないのに。
バラバラバラバラ……
自分の目が、これでもかというほど見開かれているのが分かる。
「……魔法?」
化物女を見ると、これ以上当然のことがないだろうというように、勝手に動いている本を見下ろしている。
バラバラバラバラ……バラ。
突如、ページが不自然な形で止まった。飛び出す絵本みたいに。
その直後、本がまばゆい光を放つ。
俺は思わず目を細めた。
その細めた目の向こう。化物女が光の中でこちらを見て、微かに笑っているのが見えた。その口が動く。
「禁断の果実ーー? いいえ、違うーー」
次の瞬間、目を開けていられないほど光が大きくなった。
「うっ……」
俺は思わず顔を腕で覆う。
何が起きているのか、考える暇もなかった。言葉を発する暇もなかった。
視界は遮られた。だが、耳だけは化物女が最後に喋った言葉を聞き逃さなかった。
「いうならば、禁断の書ね。あなたに今必要な、禁断の書」
そして、光が俺を覆った――。




