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どこだ、ここは――?
道路が見える。車が走ってる。それから建物の屋根も見える。
東京の街だ。空の上? 飛行機の中か? いや、違う。もっと地上に近い場所だ。もしかして俺は、空の上から東京の街並みを見下ろしているのか?
だが俺自身の体はない。視点だけが上空にある。
――雨。
雨が降っている。どしゃぶりだ。だが、俺は冷たさも寒さも感じない。
街を歩いている人たちは皆傘をさしている。上から見ると、様々な色の傘がくるくると回り、万華鏡のようにも幾何学模様のようにも見える。
その中で、一人だけ傘をさしていない人を見つけた。目を凝らしてその人物に意識を集中させる。すると、カメラのズームのように映像が近くなった。そして、気づく。
俺だ。あれは俺だ。
なぜ俺が俺を見ることができる?
よく分からないが、あの、この世に絶望した顔は間違いなく俺だ。
俺は傘をさしていない。なぜだ?
よく見ると右手には途中で頓挫した最後の作品の原稿用紙が、左手には唯一出版した俺の小説を持っている。それで、傘を持てないでいるのだ。
ふと、俺から少し離れたところで、傘を持って歩いている人が見えた。
由梨だ。
上から見てる俺は由梨に話しかける。おい、俺が濡れてる。近くに行ってくれ。傘をさしてくれ。
そう喋ろうしたが、しかし、言葉は出なかった。
その時だ。ん? 雨が黒くなっていく?
俺はハッとした。その黒い雨にうたれた建物や鳥たちが、溶けていくではないか。
俺は俺を見る。周りは傘をさしているから、黒い雨にあたることはない。だが、俺は傘をさしていない。
黒い雨にうたれ、俺が溶けていく――
早く傘を! 誰か! そうだ、由梨。俺は由梨に目をやる。早く俺のところへ行ってくれ。そうしないと俺が溶けてなくなってしまう。
だが、由梨は遠く離れた俺には気づかない。くそっ。ああ、こうしてる間に、俺の体が溶けていく。
俺がなくなる――
ーーはっ。
頭上に大きな傘があった。と思ったら、それは木だった。
俺はむくりと上半身だけを起こす。手のひらを確認する。顔を触る。俺は一体ーー
「あ、起きた」
俺は声のする方を見た。
木に寄りかかってこちらを見ている女がいる。読んでいた本を閉じて、立ち上がった。
そうだ。俺はこの女に脅かされて気を失っていたんだ。さっきの黒い雨、あれは夢だったのか。
すると、全部夢か? あの化物も。そうだ。きっとそうに違いない。
「夢じゃないよー」
女が言った瞬間、そこには再びあの背丈が三メートルもある異形の化け物がいた。
「うわあああああ」
俺は、腰をつけたまま後ずさりした。虫みたいに。
あいつだ。間違いない。あの異形の化物。
「ねっ」
気づいた時には、そこには整った顔立ちで小首を傾げる一人の女がいるだけだった。
尻餅をついたまま首を左右に振る。頭が追いついていかない。俺はここに死ににきたんだ。で、そこに訳のわからないことを言う女がいて、そいつが化物だった。
やっぱり分からない。
もしかして、俺はもう死んでるんじゃないのか?
そうだ、木。自殺をするための木。俺は上を見上げた。木には相変わらず赤い表紙の本がぶら下がっている。
「ねえ、うなされてたけどどんな夢みてたの?」
女、いや、化物がしゃがんで話しかけてくる。
「私たちさ、人間の考えてることは全部読み取れるんだけど、寝ている間だけは分からないのよねえ」
人間……やっぱりこいつは人間じゃないのか?
分からないのはこっちだ。俺は頭を覆った。
この世に絶望して、本当なら今頃死んでいたはずが何でこんなに悩まなくちゃいけないんだ。
俺がこの現状に混乱していると、化物女が勢いをつけて立ち上がった。「はいはーい、ちゅうもーく」と左手を挙げた。
「分かった。分かったよ。ちゃんと説明しまーす」
そんな軽い調子の化物女を自然と見てしまう。今は、普通の人間の女なわけだが。
「さっきも言ったけど、私は地獄から来たの」
聞いたこともない突飛な自己紹介が始まった。どこからつっこめばいいのか、というより、つっこむ気力もない俺をよそに、化物女は滔々と喋り始めた。
「ここは自殺スポットだったでしょ? でさぁ、あまりにも自殺する人が増えて地獄では困ってたわけ。ほら、自殺した奴らってやっぱ地獄でも扱いづらいのよ。あいつらまじ地獄の雰囲気悪くするからね。え? 地獄に雰囲気もクソもあるかって? まあまあ。そんで、私が地獄から派遣? っていうの? そんで、ここで見張りしてるの。簡単に言えば、地獄の門番ってわけ。オーケー?」
俺が何か反応する間も無く、「はい、終わりー。二回は喋りませーん。そゆわけで、あなたは自殺できませんから」と化物女は言った。
オーケーな訳がない。何を言っている?
俺は回らない頭で必死に理解しようと努めたが無理だった。
そっか。多分、俺はもう死んだのかもしれない。
「何考えてんの」化物女が言った。
「人間界では希少動物は絶滅させたらいけないんでしょ? だったらあなたも生き残らないと」
化物女は得意げな顔をしている。
希少動物。どこかで聞いたセリフだ。あれは……そうか。太一との会話で出た言葉だ。
さっきからこいつは俺の心を読んだり、知るはずのない情報を知っていたりしている。改めて考えると、確かに普通ではないが……まさか、地獄から来たなんてそんなこと信じられるわけが……いや。俺は思い直す。あの、この世のものとは思えない恐ろしい姿を俺は二回もこの目で見たんだ。あれは、見間違いなんかじゃない。
「さっきから何一人でごちゃごちゃ考えてんのよ」
化物女がそう言ったかと思うと、
ヴオオオオォォォ
化物女は化物の姿になった。
「うわああああ」俺は這うようにして、その化物から距離をとる。
しゅるしゅるしゅる……
「アハハ、おもしろーい」
やっぱり本物だ。
いや、俺は地獄の住人など見たこともないから、こいつが地獄の住人なのかは分からない。だが、少なくとも人間ではないことは確かだ。
「……訳が分からない」
俺は腰を下ろしたまま、腹を抱えて笑う化物女に話しかけた。
「訳が分からないけど、これは訳を……理解しようとしても無駄なことなのかもしれない。……そういうことが、世の中にはあるのかもしれない。いや……あの世か」
訥々と言葉を振り絞る。自分でも自分が何を言っているのか分からない。
俺は震える足に鞭打って立ち上がった。
もう嫌だ、こんなところ。とりあえず離れよう。
そうして俺が踵を返すと、右手を掴まれた。
「な、何だよっ」
あの姿を見たからか、声が震える。
「行かせないよぉ。あなた、今他のところで死のうと考えたでしょ」
ドキリとした。そうだ。考えが全て読まれているのだ。
「……怖えよ。何であんた俺のことそんなに知ってんだよ……」
俺はそのままの体勢で、首だけを化物女に向ける。今は女の顔だが、いつあの化物に変身するかと内心ではビクビクしている。
「知ってるよぉ」
まるで幼馴染のようなテンションで言う。赤い唇が生き物のように動く。
「見てるから。あなたのことは生まれた時からずっとね」
少しの逡巡の後、
「地獄から? 俺のことを? なんで? なんで俺なんだよ。俺が自殺するって分かってたからか?」
と俺が言うと、化物女は笑って「はあー、自意識過剰男ぉ」
あのね、と真顔に戻る。
「地獄の番人たちは人間一人ひとりを全部見てるの。あなただけじゃないの。じゃないと誰が地獄に落ちるべき人間か選別できないでしょ。人間なんて七十億しかいないんだからそんなの簡単よ」
……どういう次元の話をしてるのか。そんな話が本当にあるのか。天国と地獄。よく聞く話ではあるが。
でもそんなのはどうでもいい。とりあえずここから離れよう。それが一番だ。自殺する場所なんて他にいくらでもある。ここに来たのが間違いだったんだ。
俺は、化物女の手を振りほどこうとした。
だが、手がなかなか解けない。岩か鉄に手が挟まれたみたいだ。疑問に思って、ふと、自分の手首を見てみると、俺の手を掴んでいるのは、女の白くてすらりとした手ではなかった。鎌のような爪がついた、赤黒い溶岩を固めたような手だ。
「うわああ」
化物女は手だけを化物の手に変化させたようだった。俺はそれを必死で振りほどく。
「離せよっ。俺はな、死にたいんだ。お前みたいな訳の分からない化け物に構ってる暇はないんだよ。じゃあ、いいよ。どうせなら俺を殺してくれよっ!」
「だから、それをさせないのが私の役目でしょうが」
なんだよ、これ。もうやだよ。なんで俺がこんな目に合わなければいけないんだ。
掴まれた右手から虫が這っていくように、ぞわぞわと全身に鳥肌が立つ。俺は駄々をこねる子供のように、その手を思いっきり振り払った。しかし、一向に離れることはない。腕がぐるぐる回るだけだ。
「ちっ、もう仕方ないなぁ」
化物女はすると、全身を変化させた。
「うわああああ」
至近距離で見ると、余計に恐ろしい。下半身の力が抜け、また意識が飛びそうになる。
「わ、分かった。分かったから、その姿はやめてくれ……やめてください……」
震えながら言うと、化物女はしゅるしゅると女の姿に戻った。
「これ見たくないんだったら、勝手なことしないでね。言っとくけど、自殺をしないと決めるまで私から逃げることはできないから」
そして、化物女は今日再三聞いた、でも、三十二年間の人生で一度も耳にしたことのなかった言葉を言った。
「地獄の果てまで追いかけるよ。なんたって私は、地獄から来たんだからね」