3
間違いなく、街を歩いていれば振り返るレベルの美人、なのだろう。
大きな二重の目に、筋の通った鼻、鮮やかな赤色が塗られたぽってりとした唇。そのどれもが均整がとれている。
真っ黒なワンピースを着ている。歳は俺と同じくらいだろうか。黒髪のストレートとワンピースが風に揺れる。なんだか木陰と一体化したみたいで現実感がなかった。
「もう、退屈すぎてあくびが出るよ。人間の身体っていうのは眠くない時でもあくびが出るもんなのね」
女は座っていたのか、腰のあたりを手ではらいながら言った。
「何ジロジロ見てんのよ。ああ、そうか。やっぱりね。人間の男はこういう人間の女がいたら、ジロジロ見ちゃう間抜けな生き物だった」
「は?」
話が見えない。この女は何を言っているのか。人間? おかしな言い方だ。というか、何故こんなところにいるのか。
さっき、やっときた、と言ったか? ずっとここにいたのか?
言葉を探していると、ふと、女が手に本を持っていることに気づいた。そうか、そういうことか。
「あなたですか。この木に本を結びつけたのは」
俺は再び、木に、すなわち女に近づいて、人差し指を上に向けた。
「何してるんですか。こんなところで。ここがどういう場所か知ってるんですか?」
俺が聞くと、女は「知ってるよ。自殺する場所でしょ」とあっけらかんと言った。
「困るんだよねえ、ここで自殺する人が多くて。そのせいで、私がこんな面倒な見張り役することになっちゃったんだから」
は? 見張り?
するとこの人は、警察関係者か。……いや、こんな格好で? 近くに住んでいる人か? しかし、人家なんてここに来るまでに一つもなかったが。
「警察でも、近くに住んでる人でもないから」
女が言った。
……今、俺口に出してたか?
「あっ、ちなみにさ、結びつけたんじゃないからね」
「はっ?」
女は人差し指を上に向けた。「本。結びつけたんじゃなく、生やしたのぉ」
女は、いうことを聞かない子供を諭す口調で言う。
「キニナッテンノ、本がぁ」
「キニナル……?」
思わず、復唱する。
気になる……
「……キニナル? ああ、あなたも気になってたの? じゃあこれはあなたがやったんじゃないんですか」
俺が言うと、
「はあ?」女はあからさまに嫌そうな顔をした。
「めんどくさいなあ、もう。それわざとなわけえ? リンゴが木になる、の木になるだよ。でも確かに、木になる、気になるって確かにおもしろぉ。人間の言葉って面白いよねえ」
女は少女のような顔でケラケラ笑う。
なんだ、こいつ。何を言ってる? 頭がおかしいのか?
それにしても、喋ると未成年にすらも見えるくらい幼い。俺はだんだんと落ち着きを取り戻してきた。
「あのさ、こんなとこで何してるの?」年下に見えたからか、自然とタメ口になる。
女は俺の言葉に唇を突き出した。
「だからぁ、自殺する奴がいないように見張ってるって言ってんでしょ。暇なんだよ。とにかく。だからこうやって本を読んで時間を潰してるわけ。ずっとだよ? こうやって木に寄りかかってさ。背中もお尻も痛くなっちゃう」
女はそう言って手に持っていた本を掲げた。それは、どこにでもある文庫本だった。木にぶら下がっている本とは違う。
俺は女と頭上にぶら下がっている本を交互に指差した。
「やっぱ本がキニナルわけ? あっ、今のは気にするの気になるだからね。ふふっ。そりゃそうか。人間界にこんなものないもんね。あっ、でも、今持ってるのは、人間界のものね。暇だから読んでるの。なかなか面白いよ」
ペラペラとよく喋る女だ。もしも、俺が人生に満足していたのならば、迷わずに口説いていたかもしれない。だが、これから死ぬ俺にとって美貌などなんの意味もなさない。ただ、うるさいだけだ。ため息交じりの苦笑が俺の口から漏れる。
「あの、さっきから人間人間って、まるであなたが、人間じゃないみたいな言い方なんだけど」
「人間じゃないよ」
女は、空が青いのが当たり前だとでもいうように言った。
「……」
何を言ってるんだ、さっきからこの女は。まともに話ができない。やっぱりこんなところに来る女はどこかおかしいのか?
いや、おかしいか。こんなところに来る人間なんて普通じゃない奴ばかりに決まってる。俺も含めてな。
ふと、思った。目の前の女を見る。真っ黒なワンピースと真っ白な肌が見事なコントラストを生み出している。この非現実的な感じ。普通じゃない。まさか本当に人間ではない?
女は小首を傾げて、こちらを見ている。
こんな場所だ。幽霊の一人や二人いても不思議ではない。そういえば、掲示板にもそんな噂があったような気がする。まさか、死ぬ間際に幽霊を見ることになるとは。
不思議だ。幽霊なんて見ても怖くない。もしかしたら、死ぬ間際の人間に怖いものなんかないのではないだろうか。
「いや、幽霊じゃねえから」
女が笑って言う。
……だよな。そんなものはなから信じていない。
ん? さっきもだが、俺は考えてることを口に出しているのか? 思っていることを先読みされているのは気のせいか?
そんなことを考えている俺には全く構わずに、次の瞬間、女はもっとすごいことを口にした。
「私、地獄から来たの」
「……あのさあ、君も死にたくておかしくなってんのか? そうだろ? 君もここに死にに来たんだろう?」
女はきょとんとした顔をしている。そしてその後にため息をついた。
「もうっ……」女は漫画みたいに大げさにうなだれる。「退屈してたけど、来たら来たでめんどくさいなぁ、やっぱり」
そして、背筋を伸ばすと前かがみになって、俺を指差した。
「なんで私が死ななきゃいけないの? 死にたいのはあなたでしょう?」
豹変した女の態度にあっけにとられる。
「でも、残念でしたー。私がここにいるからには死ねませーん。てか、死なせませーん」
そんな軽い調子の女の態度に、少し頭にきた。なんだ、こいつは。
「なんなんだよ、あんた一体。そうだよ。俺はな死にに来たんだよ。君も知ってるんだろう? ここが少し前自殺スポットだったって」
「だからそう言ってんじゃん。そうならないように見張ってるんだって。実際ここが過去の場所になったのは、私が自殺を食い止めてたからなんだよ? だから、ここでの自殺はさせませーん」
い、意味が分からない。ずっとここで見張ってる? さっきからこいつは何を言ってるんだ?
「とは言っても、他のところで死なれても困るので、なんとか改心していってくださぁーい。そのために私はいるのです」
女は、えっへんと胸を張る。
あほくさ。
俺はここに何をしに来たんだ。死ぬためだろ。さっさとこんな世界から消えるために来たんだ。こんな頭のイカれた奴と話すためじゃない。
もういいや、相手をしてるのがめんどくさい。もう、この世に未練も気になることもない。余計なことを考える前にさっさと死なせてくれ。
「用がないなら、どっかへ行け」俺は力なく、ハエを払うように、女に向かって手を振った。
「あなた分からない人ねえ」
女は、そんなのおかまいなしというように勝手に続ける。「用があるからここにいるのっ。日本語分からない? あなた地獄出身の私よりも人間言葉下手なんじゃない? 仮にもあなたの職業は小説家でしょうが」
「……は?」
女の言葉なんて軽くうけ流そうとした。しかしできなかった。ある言葉に、センサーのように反応してしまった。
今この女、俺を小説家と言ったか?
俺は、女を改めて見た。後ろに手を組んで前かがみになると、まるで恋人に語りかけるように、しかし、決して、恋人には言わないであろうことを言った。
「いや、小説家、もどきね。ふふっ」
少しの間があった。おれはその後で言った。
「……なんで知ってる……?」
「あなたが。小説家もどきだってこと?」
俺は女に詰め寄った。
「なんで俺が小説家ーーっ、……小説出したって知ってる?」
情けないくらい小さな声だった。
まさか、俺の本を読んでくれてーー?
だが、と俺は思い直す。俺は顔出しはしていないはずだ。そもそも、俺が小説を出版したことを知っている人間はほとんどいないはずだ。出版社と由梨と、それからーー
「言っておくけど、太一って人間に聞いたんじゃないよ」
女はプッと笑ってそんなことを言った。
頭から冷水を浴びさせられたみたいだ。それくらいの衝撃。
偶然でも気のせいでもない。こいつ俺の考えてることが分かってる。
他に俺の小説のことを知っているのは太一だけだ。俺は太一が同級生たちに吹聴していると思ったのだ。
それを見事に当てられた。気味が悪い。なんなんだ一体。
俺の足は、自然と動いていた。女から距離を取るためにじりじりと下がる。
「知ってるよ。あなたのことなんかなんだって知ってる」
女は追い討ちをかけるように言った。さっきまでの無邪気な表情はない。真顔で淡々と続ける。
「あなたは仙台から高校卒業と同時に東京に出てきて、小説家を目指すも惨敗。彼女には逃げられ、親には勘当され、昔の友人たちとは、差が開いちゃった。やっぱり小説家ってそんな甘い道じゃないのよねえ。あんなに世界には本が溢れているのに小説と認識されるのは、数えるほど。あなたの小説はつまらない。なにあの内容、くだらない。ちなみに、そんなつまんない小説を書いているその作者の名前は倉田明ーー
「やめろっ」
俺は叫んだ。そして、女に再び詰め寄った。今度は思い切って胸ぐらを掴んだ。
「地獄から来ただの、自殺を止めるだの、ふざけるのも大概にしろよ。太一の差し金か? お前、俺の中学の時の同級生か?」
「だとしたら、こんな綺麗な顔を忘れるわけないでしょ」
人を小馬鹿にしたような笑いを浮かべ、女は言う。本当になめてるのか? こいつは。
「いい加減にしろ。今の俺は女だって殴るぜ。どうせ、この後すぐ死ぬんだ。なんも、関係ない」
俺が言うと、「わあ、最低」とおどけた表情をつくったあとに、こちらを上目遣いで睨んできた。
「人間界では、男は女を殴ったらダメなんじゃないの? あんた、地獄に落ちるよ。それでもいいなら殴りなさいな」
その時の女の表情はやけに重く、鋭く、怖かった。
俺は舌打ちして、女を押しのけた。
「キャッ」と、子犬のような声をあげて、女は木の幹にぶつかった。
俺はそんな女に構わずに、ネクタイを握りしめた。何が「キャッ」だ。地獄から来たんなら、もっとそれに見合った声を出してみろってんだ。
くそっ。最後の最後まで皆俺をバカにしやがって。クソ、クソ、クソ、クソ、クソ。
両親の顔が、太一の顔が、高谷たちの顔が浮かんでくる。俺はそれを必死に打ち消した。
それでもなお最後に浮かんでくるのは、由梨の顔だった。あの力の抜けた表情。ゆっくりとした仕草。何よりも鮮明に脳裏に蘇る。
しかし、俺はそれも打ち消した。なんだ、あんな自分勝手な女。きっとどっかでのたれ死んでいるに違いない。
自分勝手な女といえば、人生の最後に会った人間があんなふざけた奴だったことは気に食わない。それが唯一の心残りだが、死んだら何もかも関係ない。
ああ、つまんない人生だった。三十二年も生きてきた意味なんてなかった。
こんな世界終わりにしてやる。
俺はネクタイを枝に巻こうとした。しかし、そこであることに今更気づいた。枝が高すぎる。とても、このまま届く距離ではない。
どうして今まで気づかなかったんだ。ぶら下がってる本がいくつも視界に入る。
なんだ、じゃあ、今までここで死んだ奴らは、木に登るか、梯子かなんかをわざわざ持ってきて死んだってのか。あの女もそんな苦労をしてこの本を枝にくくりつけたのか。
なんだか急に虚しくなってきた。
ぶら下がっている本をぼうっと下から眺める。しかし、本当によくできている。ホントに本が木になってるみたいだ。
なんだかそれを見ていると、首吊りをするのも本を枝に結びつけるのも大して変わらないような気がしてきた。むしろ、これだけの量の本を吊るす方が労力が必要なのではないかとすら思えてくる。
「なあ、アンタこれどうやって――」
俺が口を開いた時だった。
ヴオオオオォォォ――
女に話しかけたはずの俺の言葉は、どこからともなく聞こえてきた音にかき消された。
なんだ、今のは!?
慌ててあたりを確認するために、体を動かそうとした。しかし、指一本としてピクリとも動かない。というか、動けないのだ。
空気がビリビリと振動して大地は地震のように揺れている。木がそれに共鳴するように、ザワザワと音をたてた。
声?
そんなもんじゃない。獣の咆哮? 爆発音? どれとも違う。
どこから聞こえた? 周囲には何もないはずだ。まるで、空が鳴いてるようだった。
ごくり。
自分の唾を飲み込む音が聞こえる。
首がかろうじて動いた。
俺は脂が切れたロボットのように、ゆっくりと、それはゆっくりと振り向いた。
「うわああああああああ」
腰が抜けて、尻餅をついた。今度は、俺が負けないくらいの声で叫んでいた。
死ぬ間際は怖いものがない? 撤回だ。
なんだ、これはーー
俺の眼前には異形の化け物がいた。
長年小説を書いている俺でも形容しがたい、その、もの。生き物なのか? 動いている。鬼? 妖怪? とにかく俺の背丈の二倍はある異形の何か。ツノがある。溶岩のような体をしている。あとは、あとは――
俺はその化け物を見上げながら、意識が飛びそうになっているのを感じている。いや、もう現在進行形で意識は薄れている。
その薄れゆく意識の中で、化け物がしゅるしゅると縮むように小さくなっていくのが見えた。
やがて、俺の目の前には化け物はいなくなり、ただ一人、別の人物がそこには、いた。
あ、まずい。意識が飛ぶ。
その時、その人物がいたずらっ子のような口調で何か喋ったのが聞こえてきた。
「ねっ。だから言ったでしょ。地獄から来たって。って、もう聞いてないか」