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詩名は早退することになった。
保健室の先生の話だと、大事には至らないが跡を残さないために早く医者に見てもらった方がいいとのこと。
「お迎え頼むからね。お家の人に」
「あの……私病院一人で行きます」
「何言ってるのよ」
「だって、お父さん今きっと仕事中だから……」
「そんなこと言ったって仕方ないでしょ。電話するからね」
「あっ……」
そうして保健室の先生が迎えを呼んだ時には、四時間目終了のチャイムがすでに鳴り、昼休みに入っていた。
詩名が椅子に座って、迎えが来るまでガーゼを当てたり包帯を巻いたり簡単な治療を受けている。
さっきまで、自分でやると詩名にしては珍しく言葉数多く先生に頼んでいたのだが、やっぱり元来気の弱い詩名は押し通すことができなかった。
手もそうだが、それよりも髪の方が俺的には痛々しく見える。それに、その髪に気づかないこの先生もどうかと思う。
髪は女の命だと世の女は言うじゃないか。それを平気で燃やす女に、気づかない女たち。そして、燃やされる女。女だらけでできているこの女子校という空間は、俺の思っていた以上に、女、だ。
そんなことを思ってると、保健室の扉が開いた。その大きな音に反射的にそちらを見る。
そこには、狐とそのとりまきがいた。
詩名もそれを見て、口を真一文字にぎゅっと結んで身を縮める。
「あら、仁科さん。どうしたの? 具合でも悪い?」
「違いますよー。詩名ちゃんが早退するって聞いたので心配だから荷物まとめてきてあげたんです」
そう言う狐の手には、詩名のカバンが握られていた。
「そうだったの」
「きっと手が痛くて大変だと思ったので」とハツラツと返事をして狐はこちらに近づいてきた。
「はい、これ」満面の笑みで詩名に荷物を手渡した。
「……ありがとう」
俯き加減に詩名はそれを受け取る。
「ちょうどよかった」
詩名の手当てを終えた先生が立ち上がった。
「五分くらいでてもいいかしら。職員室に用事があって。みんなでお話ししてて。高谷さんのお父さんが来るまでね」
「はぁーい」
保健室を出て行く先生の背中に、狐は明るい声で返事をした。
先生が出て行った瞬間に、場の雰囲気が百八十度変わったのが分かった。
狐が振りかえる。その顔はまるで別人だった。何かが取り付いたか、あるいは出て行ったのか、とにかく別人。
「おい」
乱暴な言葉遣いで座っていた詩名の右手を取る。ちょうど包帯が巻かれているところを握った。
「ーーっ」
詩名が狐から顔を背け痛がる。
「まじナシのくせにさ、あんたさっき私のこと押したよね? ほんとないんだけど。病院? 病院行きたいのこっちだよ。慰謝料払ってもらわなきゃ」
と狐が言った。
「美月、それは無理だよ。こいつンチお金ないもん」
とりまきが言った。
「あっ、そっかぁ。そうだもんねえ」
狐が詩名の手を汚らわしいものを捨てるように振り払った。
「ナシの家は貧乏なパパしかいないもんねー」
狐が笑う。
「お金持ちのお母さん死んじゃったもんね」
その言葉を聞いた瞬間、詩名が顔を上げた。目を真っ赤にさせて、下唇を噛んで。
俺もその穏やかではないワードが入った狐の言葉に反応する。
「なによ、その目は」
狐が詩名を見下ろす。そして、「ふん」と鼻を鳴らした。
「なんであんたの家の事情知ってるかって言いたい顔ね。じゃあ教えてあげる」
狐が得意げな顔を作る。唇の端が糸で上から引っ張られたように上がる。糸を引っ張ったのは、悪魔か。
「あんたのパパが働いてるスーパーの系列の社長が私のパパだからだよ」
詩名の口が、え、の形を作った。しかし、声はでない。
「偶然だよねー。あんたのパパが働いてるのはヨネヤっていうスーパーでしょ? 言っとくけど、あれつくったの私のパパだから。もっといっぱいあるよ、パパがバイシュウした会社。その中で一番偉いのが私のパパなんだから 」
「そうだよ。美月ちゃんのパパはすっごいお金持ちなんだから」
そのスーパーの名前は聞いたことがある。そしてその系列の大会社も俺は知っているはずだ。仁科……
そういえば、その社長をテレビで見たことがあるぞ。そうだ、その超大手有名企業の社長が仁科って名前だった気がする。つまり狐は、その社長のバカ娘か。ここは国内でも有名な私立だ。金がある社長の子供がいてもおかしくはないが。
なるほど。こいつが好き放題やっても、誰にも何も咎められない理由がそこに関わってる気がする。狐の心のバランスをぶっ壊したのは親の権力なのかもしれない。
「だから全部情報が入ってくるの。使えない奴が会社にいるってね」
そして狐は腰を折って、詩名に顔をずいっと近づけた。
「だからね、パパに今日あんたに突き飛ばされたこと言えばあんたのパパのお仕事無くなっちゃうかもねー」
狐が詩名から離れると、詩名の表情がよく見えた。焦点が定まらなく、呆然としているその顔が。
全く無関係の俺まで悔しくなった。
この世にこれ以上憎たらしい言葉があるだろうか。
母親が死んだ? 父親が貧乏? 今日会ったばかりで話の筋をよく把握してない俺ですらこうなのだ。当の本人はどんな気持ちなのだろう。
「美月ちゃんのパパ、美月ちゃんの言うことなんでも聞くから。まじだよ、これ。美月ちゃんと美月ちゃんのパパはね、ホントに仲良いんだから」
「ちょっと、私がファザコンみたいに言うのやめてくれる? 言っとくけどね、もうお風呂だって一緒に入ってないし。最近口うるさいからうざったいのよ」
「えっ、そうなの……ごめん、でもさでもさーー」
「……ねぇ」
二人の会話に割って入ったのは、震えるか細い声だった。
「ねぇ、そんなことしないで……お願い。謝るから……お父さんにだけは……」
詩名は訥々と言葉を発しながら、椅子から腰を浮かせ狐の袖にしがみつく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「触んないでよ、貧乏がうつるっ」
狐が詩名を押した。さっきとは逆だ。でも、さっきの何倍も強く、押した。
詩名は床に投げ出され惨めな格好になる。だがそれでも狐の足元にくると、「ごめんなさい、ごめんなさい」と狐の足元で頭を下げた。
「おい……そんなことするなよ……こんな奴に、そんなことするなよ……」
「うわっ、こいつ土下座してるよ。やばー」
「ぷっ。パパのために土下座とか、相当ファザコンなんだね。今度、みんなに言いふらしてやろーっと。ナシはパパが大大大好きなファザコンの土下座野郎ですって。アハハ」
とりまきと狐は、詩名の後頭部を見下ろしながら言うだけ言うと、
「さっ、私たちは貧乏なパパが来る前に帰ろっ」
「そうだね。貧乏がうつるし」
「それもあるけど、大好きなパパとの時間を大切にしてあげたいなと思って」
「うわっ、美月ちゃん優しー」
そんな会話をしながら保健室を出ていった。
「あ……」
保健室に一人残された詩名の口が、金魚みたいにパクパクと動く。
二人の後を追うように閉められた保健室の扉をぼうっと見ていた詩名の目から、ボロボロと涙がこぼれ床に落ちた。
「どうして……こんなことするの……」
ぺたん、と全身の力が抜けて床にヘタリ込み、俯いて泣く詩名。
その姿はまるで、自分の落ちた涙を探しているようだった。そしてそれは、一生見つからない落し物に違いない。
「私……なにもしてないのに」
床についたその小さな手が弱々しく握られていく様があまりにも不憫で、俺は目をそらした。
虎丸も同じことを言っていた。自分は何もしてない、と。
いつだって悪い目にあう人は、悪いことをしない人。それが、世の理、なのかもしれない。
虎丸と同じ――それが意味すること。
この少女は虎丸と同じ運命を辿る、いや、選ぶことになるんだ。半日彼女と一緒にいただけだが、それが分かった。未来はもう決まっている。これは紛れもなく一年前のこの場所で起こっていたことなのだ。
それを分かっていながら黙って見ていろというのはあまりにも残酷で悪趣味だ。こんな世界を何も出来ない身体の俺に見せるなんて。
だが、もしも化物女が言っていた実体化が使えるとして、俺は狐になんと言うだろう。
情けない話だが、今の俺にあれを止める自信はない。女子中学生一人止める力が、俺の言葉にはない。所詮、小説家もどきの俺には。
こんなんで俺が変わると思ったら、変われると思ったら大間違いだ。
こんなの見せられたって俺は絶対に死ぬのをやめたりしないからな。余計自分が無力に感じて、死にたくなるだけだ。
今度こそあの化物女を殴ってやる。そして、目の前で舌でも噛み切って死んでやる。
保健室の扉が開く音がして、我にかえる。
「高谷さん、お父さんが玄関まで来てくれたわよ」
先生が戻ってきた。
詩名がそれを見て、慌てて涙をぬぐう。
「高谷さん……?」
「はい……今行きます」
「どうしたの? もしかして傷が痛む?」
「なんでもないです。大丈夫ですから」
詩名は、何度も目をしばたかせ泣き顔を消した。
俺は、呑気な質問をする先生を蹴った。諸々の怒りの矛先が欲しかった。
玄関に行くと、一人の男が壁に掛けられているトロフィーや、賞状を見ていた。
背丈も雰囲気もどこにでもいるような普通の男。普通を絵に描いたような男。これといった特徴はない男。
「高谷さん」
先生に呼ばれて、男が振り返る。
ーーえ……
「あぁ、すいません。ご迷惑おかけしました」
スーパーの制服姿の男――詩名の父親がペコペコと頭を下げる。
父親の元へ、詩名が申し訳なさそうな顔をして行く。詩名は、笑っていた。
「ごめんね、お父さん」
「いや、それはいいけどさ。ちょうど昼休憩だったから。それより、早く病院に行こう」
父親が、詩名の包帯の巻かれた手を見て言う。
「うん」
「それでは、ありがとうございました」
二人は先生に頭を下げると、学校を出た。
無論、俺も高谷親子に引っ張られる。棒みたいに固まった俺の身体が引っ張られる。
「え……」
唇を舐め、何度か目をこすり、俺は二人の前に回った。
「大変だったね。痛くない?」
「うん……大丈夫。それより、ごめんなさい。私のせいで仕事……」
「だから大丈夫だって。お父さんのことよりも傷の心配しなきゃ。女の子なんだから傷が残ったら大変だろ?」
父親の顔を、まじまじと見る。
日本人の典型的な顔。どこにでもいそうな顔。
そして、俺もよく知っている顔。
父親が――いや、高谷が車の鍵を開け、乗り込みながら言う。俺に金を貸した時と同じ、穏やかな笑みを浮かべて言う。
「遠慮しないで大変な時はなんでも言うんだぞ」
と。
次回の更新も、このくらいの間隔になる予定です、、、




