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ガシャ――
詩名が筆箱を床に落とす。もちろん、わざと。
この授業これで三回目。
詩名が席を立ち、机の前に回る。そして散らばった文房具を拾う。
後ろで、狐たちがニヤニヤしているのが分かる。
「ちょっと。うるさいよ、さっきから。気をつけてね」
教師が言った。
二時間目は国衙の授業だった。国語の教師は年配の太った穏やかそうな女。どこの学校にも一人はいるタイプ。
筆箱が落ちるたび、そちらを一瞥してはそんなことを言い、授業を続ける。
「せんせー。さっきからカンペンケースがうるさくて授業に集中できませーん」
狐が手を挙げて言った。やけに明るい声で。
「美月さん、そんなことを言わないで一緒に拾ってあげて」
女教師が柔和な口調で言う。
「はーい」
狐が席を立ち、しゃがんでペンを拾う。ふりをする。
ちなみに、狐の本名は『仁科美月』ということが分かった。まぁ、俺は狐と呼ぶから関係ないけど。
それから、俺がさっき会ったばかりの女子中学生を、しかも、高谷詩名だけを下の名前で呼び捨てにするのには訳がある。
詩名
詩の名前。
確かな由来は分からないが、この名前をつけた親はセンスがいい。俺が小説の登場人物に使いたかったくらいだ。
狐がつける低レベルなあだ名とは、雪と墨。月とすっぽんだ。
気に入った。勝手に下の名前で呼ぼう。
といった訳だ。
「いたっ」
突然、詩名が声をあげた。
教師の視線も生徒の視線も一点に集まる。
「どうしましたか?」
女教師が訊く。
「……ごめんなさい。画鋲が落ちてたから……」
詩名が言う。
「ああ、そう。気をつけてね。怪我しないように」
「……はい」
そして、何事もなかったかのように授業は再開される。
違う。
俺は見ていた。
狐が、詩名の手の甲にシャーペンを突き立てたのを。そして、今現在もグリグリとその手に跡を植え付けるように動かしている。
「まだ全然足りないよ」
狐が小声で言った。
詩名は痛みに必死に耐え、声を我慢している。
「もっとやりなよ」
狐が詩名に、釘を刺した。
二人が席に着いたのを見届けると、俺は移動して教壇に立ってみた。
後ろも良く教室が見渡せたが、それよりもよく見える。
中学の頃、早弁が見つかった時担任がよく言っていた言葉を思い出した。
「教壇から見ると、お前らが思ってる以上に見えているんだからな」
その通りだ。一人一人がよく見える。どうりで俺の早弁も簡単に見つかったわけだ。
だから。だからこそ、この状況はおかしい。こんなの教師は明らかに分かるはずだ。不自然だ、と。
詩名が狐にやらされているのだ、と。
そう、これは全部狐の指示だ。
授業中に何回も何回もわざと落とすように言われているのだ。
詩名が狐にいじめを受けているのは、誰がどう見ても明らかだった。会って小一時間の俺だってすぐに分かった。
四月というこの時期。詩名は、早々に狐に見つかってしまったのだ。
どこの学校にもあることだ。
俺が中学校の時も、あった。
なんで詩名がいじめのターゲットになってしまったのか理由は分からない。そもそも、いじめには理由はないのかもしれない。
この、筆箱落としの命令だってよく考えれば何の意味もないくだらないことだ。でも、いじめる側は命令する。
いじめる側にこれといった理由なんか必要ないのだ。
それにしても、この教師は狐が授業中浮かべているニヤニヤ笑いを見て何も思わないのか。
いや、きっと見えてはいる。でも、注意しない。もしかしたら、猫がじゃれ合っているのを見るのと同じ感覚なのかもしれない。
生徒が見て見ぬ振りをするのは、まぁ、なんとなく分かるが……。
ガシャッ
また、詩名が筆箱を落とした。
音が聞こえるたび、顔をしかめてしまう。カンペンの音はうるさいくらいよく響く。
まだその音の余韻が残る中で、「はぁ」女教師のため息が聞こえた。
「もう、気をつけてって言ってるでしょ。カンペンだからダメなのよね。変えなさいね。筆箱」
そういう話じゃないだろう、俺は真隣にいる教師を見る。
ニットの上から三段になった腹がくっきりと分かる肉を揺らして授業を続ける。
狐が詩名の背中を小突いて、顎でしゃくって命令を出す。震える手で詩名は筆箱を落とす。
ガシャッ
狐が笑いをこらえる。
「……いい加減にしてね。高谷さん」
女教師は一つ注意して黒板に戻る。その顔を見ると、怒気がぐんぐん上昇しているのが分かる。怒りのバロメーターが視覚化されてるみたいに。
対して、狐の笑いのバロメーターはますます上がる。
狐が詩名の背中を小突いて、顎でしゃくって命令を出す。震える手で詩名は筆箱を落とす。
ガシャッ
狐が笑いをこらえる。
「授業の妨げになります。勉強が進みません」
狐が詩名の背中を小突いて、顎でしゃくって命令を出す。震える手で詩名は筆箱を落とす。
ガシャッ
「やめなさいっ」
女教師がついに叫んだ。バロメーターがマックスに達したようだ。
「分かってるからね、先生。わざとやってるの。そんなに授業の邪魔をしたいの?」
なんだよ、このばばあ。わざとやってるってやっぱりそこまで見えてるんじゃねえか。
詩名が今にも泣き出しそうな顔で立ち上がり謝る。
「ごめんなさい、ごめんさない、ごめんさなさい……」
顔は怖いくらい真っ白だ。
そして、床に散らばった文房具を拾う。
もう何回目だろう。こいつは、授業中こればっかりしている。ノートは真っ白。板書は一切取れていない。
文房具を拾いながら、手の甲で目を拭った。
それが当たり前。そんな空気をこの空間から感じる。誰も詩名を気にも留めない。
「謝って済むなら警察いらないよ〜」
しゃがむ詩名に向かって、小声で狐が言う。こちらの、笑いのバロメーターもマックスを超えたようだ。
こいつ、腹立つ女だな。分かってはいたが改めて思う。
一体どういう教育受けてきたんだ。どういう神経してんだ。
全く関係ない俺まで、まだやるかとハラハラしてくる。
お前も何かやり返せよ、俺が詩名だったらぶん殴ってるぜ、こんな女……無理か、こいつには。
オドオドと背中を丸めて文房具を拾う姿を見て、なんか悲しくなった。かわいそうなやつだな、こいつも。
その時、ふとその姿が小銭を拾う虎丸に重なった。
俺は俺自身を律した。
余計なことは考えるな。このままじゃ化物女の思う壺だ。
俺はこの世界で人の心に干渉しないようにと決めていた。虎丸の時のようにどうせ何もできないのなら、気持ちが動いたって仕方ない。それは例え、実体化できても変わらない気がする。
考えるな。俺は俺のことだけ考えてればいい。他の奴らのことなんてどうでもいいんだ。
「次やったら、出て行ってもらいますから」
椅子に座り直すのを待って、教師が詩名に言った。
詩名は聞こえる聞こえないかくらいの声で「……はい」と返事をした。
小さくて華奢な肩が震えている。全神経が目の前の黒板ではなく、後ろの同い年の少女に向けられているのがはっきりと分かる。
狐が詩名の背中を小突いて、顎でしゃくって命令を出す。
おいおい、まだやんのかよ。そこらへんでやめとけよ。
詩名は肩で呼吸をする。その上下する速さがだんだんと激しくなる。
涙を抑えるように、ギュッと目を何回もつむる。
狐が詩名の背中を小突いて、顎でしゃくって命令を出す。
詩名の息が教壇まで聞こえる気がする。それくらい詩名の呼吸は荒い。
そして、震える手を筆箱に伸ばした。
関係ない、関係ない。俺には関係ない……。
筆箱がするりと机から落ちたーー
落ちるタイミングに合わせて歪めた俺の顔は、不発に終わった。
ガシャッと、音は鳴らなかった。
授業は何事もなく滞りなく進んでいる。もちろん、女教師も黒板に文字を書くのを続けている。
詩名を見る。詩名は目を丸くして一点を、前の席を見ていた。
筆箱が鳴らなかったのではない。落ちなかったのだ。
それが落ちる前に、空中で掴んだ生徒がいたから。
詩名の前の席にいた生徒が振り返って、詩名の筆箱を掴んでいたのだ。
「ナイスキャッチ」
その生徒は言った。真顔で。休み時間に出す声のボリュームで。
詩名はくりくりの目を更に見開いた。
「うるさい。勉強の邪魔。これ没収」
テンポの良い面白い口調。味方なのか敵なのか分からない言葉選び。何よりこの場に不適切すぎる大きな声。
「ふっ……」思わず、笑ってしまった。
その生徒は、何事もなかったかのように椅子に座り直しノートに向かった。詩名の筆箱を持ったまま。
教室は異様な空気に一瞬包まれた。が、すぐに元どおりになった。
俺はこういう空気を知っている。
異常な空気を作り出す、変わり者というか浮いている人間というか、とにかくそういうのがどんなクラスにも一人はいる。でも、あいつだから仕方ないとそれを許される生徒。
あれは、まさにそれだ。
詩名はまだ、その赤く充血した目を大きく開けたままだ。ポカーンとしている。
すると、
「これ」
その生徒が振り返ってシャーペンと消しゴムを詩名に渡す。
「これないと勉強できないから」
「あ……うん」
詩名はその驚いた表情のまま、それを受け取った。
何事もなかったかのように授業は進む。
チッ、と狐の舌打ちがこちらまで聞こえてきた。
二時間目の授業が終わると、狐は大きな舌打ちをしながら、詩名とその前のあの生徒の横を通り過ぎた。
それにしても、狐の口は楽器だな。よくあんなに大きな音が出る。
しかし、今の俺の興味は――興味というほどでもないのだが、あの変人に向いていた。
「ふぅん、なかなかやるな」
大人になってから、「あの子をいじめから守ってやればよかった」と昔のことを思うことは誰だってできる。
でも、こうして同じ空間にいる間に、いじめから友達を守るということはなかなかできることではない。自分が標的にされるからだ。
だから、普通はできない。
そんなことができるのが、変人の変人たる所以なのだ。
その変人は、狐の舌打ちにも動じず、席を立ち教室を出て行った。
詩名が、それを目で追っている。
そして、尻を微妙に浮かしたり、座ったり……
やがて決心したのか、変人の背中を追って詩名は廊下へ出た。
暇つぶしについていってみるか。
「……あの」
詩名の声が小さすぎて変人は気づかない。廊下を進んでいってしまう。
「あのっ」
変人が振り返った。「何?」あっけらかんと言う。
「あ、あの……」
「何。大きな声で言ってよ。聞こえない」
「あ、ありがとう……」
詩名が俯き加減に言葉を振り絞った。
「あっ、そう」
それだけ言ってまた歩いていこうとする。どうやら次は移動教室のようだ。教科書類を手に抱えている。
「あっ、石井さんっ」
「もう、何。まだ何かあんの」
石井さんというのか。石井さんが振り返る。
「あの、その……」
「もうっ。イライラするな」
石井さんが詩名に向かって戻ってくる。ズイッと、顔を近づけた。思わず詩名は仰け反る。
詩名は石井さんの手元を指差して、「筆箱……返して欲しくて……」
か細い声で言った。
「あ」
点のような声を出し、石井さんは自分の手元から詩名の筆箱を取って詩名に渡した。
「忘れてた」
「……ありがとう」
「あのさ」石井さんが言う。
「どうしてカンを使ってるの? 数ある中からどうしてそれを選んだの?」
「え?」
「例えば私が持ってるようなやつだったら、落としても音しないよ。カンは落としたら傷つくし、正直メリットがないと思うんだけど」
石井さんは唐突に、真顔でペラペラと滑るように話し始めた。
……これが変人の変人たる所以だ。
「ていうかさっきあなたにシャーペンと消しゴム貸して思ったんだけど、いっそ筆箱なんかいらないわ。シャーペンと赤ペンと消しゴム。それさえ胸ポケットに入れていればいいもの。荷物も少なくてすむし。よく考えればその方が合理的だよね。私もそうしようかな。うん。そうしよう」
「あ……」
まくしたてるように話す。圧倒されている詩名の都合など関係ない。
それでも、その適度に低いアルトボイスは耳触りがよく嫌にはならない。
それに、声もだが顔も中一とは思えないほど大人びている。今は仏頂面だが、笑ったら凄いことになるに違いない。大人になったら絶世の美女になるだろう。
名札を見る。
『石井美里』
それが石井さんの本名だった。
「いいことを教えてもらったわ」石井さんが言った。「ねぇ、名前なんだっけ?」
は? クラスメイトの名前を覚えていないのか? もう、入学してから一ヶ月は経ってるだろ。
「あ、高谷詩名……です」
「なんで敬語なの? 年上ならまだしも、その二秒が無駄じゃない?」
喋る。喋る。
「この学校もおかしな学校だよね。まだ入学してたったの一ヶ月だってのにもう席替えするんだもん。色んな人と仲良くなるためにって、名前が覚え辛くて仕方ない。黙ってあいうえお順にしておけばいいのに。おかげで話さない人の名前なんてほとんど覚えていないよ」
詩名と石井さんは友達じゃなかったのか。それどころか初めて話した?
普段から詩名をかばっていたわけではなく、そういうことは今日が初めてだったのか。どうりで詩名が驚いていたわけだ。
なんだか貴重な場に居合わせた感じがした。
「あの……」
「でも、今話したから覚える。名前」
石井さんは詩名の胸元を見た。そして確認するように呟く。
「高谷詩名」
詩名の目を見る。
「素敵な名前」
それだけ言うと、じゃ、と踵を返し颯爽と歩き出した。
ポツンと一人残される詩名。
しかし、あまり寂しそうには見えなかった。筆箱を持つその手に、ギュッと力が入ったのが分かったから。
本当にあれが一ヶ月前まで小学生だったのか?
苦笑する。
化物女といい石井さんといい、どうしてこう、美人にかぎって変人が多いのだろう。
あっ、化物女は人ではないか。
やっぱり長くなってしまう、、、
ちょっと二章のプロットを練り直すために一日二日投稿しないかもしれません、、、




