14
「さすがに分かったっしょ? こっちの世界に戻る方法」
上半身を起こしながら化物女の言葉に耳を貸す。
化物女は目をぎゅっとつぶり、耳を塞ぐ格好をして、
「もう嫌だっ! って気持ちが強くなると自然とこっちの世界に引き戻されるの」
と言った。
ぼんやりとした意識の中、思う。精神が弱いとかなんとか言っていたのはそういうことか、と。一回目に現実の世界に引き戻された時も同じような感覚だった気がする。
化物女の言葉を聞きながら、おでこを手の甲でぬぐう。見ると、大量の水滴が付いていた。
「汗すごっ」
化物女が、本から顔を上げて目を丸くする。
確かに、ここは暑くないはずなのに、汗の量は尋常ではなかった。
「それが冷や汗ってやつかぁ。人間って不思議だよね。冷えてるのに汗かくって、んふふ」
そしてまた本に視線を戻す。
なかなか立ち上がれなかった。足が、震える。
風が吹き、木の葉が擦れる。
ザワザワザワザワ……
「……めいだったのか」
「ん?」
「虎丸は、ああなる運命だったのか」
「あぁ、うん、そだね。運命ってか、彼が自分で決めたことだけど」
本を読む片手間に相槌を打つ化物女を、俺は睨んだ。
「最初から……未来は決まっていたのか」
「だからそうだって」
「なんで俺をあんな世界に行かせたんだよっ」
思わず声が大きくなる。だが、化物女は相変わらず、まったりと本を読んでいる。
「なんであんなもんわざわざ見せたんだっ。あんな……何も出来ない身体で、昔の俺や虎丸がいる過去の世界に行って、俺にどうしろっていうんだよっ」
そう、叫んだ。
そして、残り汁を絞り出すように、「どうして行く必要があったっ……どういうつもりだよ……あんたの目的は一体なんなんだよ……」
すると、化物女が本を閉じ、ごろんと体を半回転させた。本は胸の上に置いて、仰向けの状態で首だけをこちらに向けて俺を逆さに見る。長い黒髪が絨毯のようにバサァっと緑の大地に広がる。
「あー」
口をあんぐり開けて、だらしない声を出した。
「……」
「あー」
「……」
「あー」
「……おい」
「へへっ。人間界のカラスって生き物の真似」
「……ふざけんのも大概にしろよ」
押し殺したような声が出た。
俺は立ち上がって、化物女の顔を見下ろした。くっと上がった顎のラインは彫刻のように凛とした線を描いている。もしかしたら一秒ごとに伸びているのではないかと思うほどの黒髪が頭の周りを埋め尽くしている。
足元にある小さな頭が動く。下目遣いで化物女は俺を見た。
「あーなた、全部言われなきゃ分かんないの?」
化物女は、「はぁ」と玉のような大きなため息をつき、くるりと体勢を変えて立ち上がった。髪や体についた草を手で払う。
「あーきれた」
化物女はそれまで顔色一つ変えずに俺を見ていたが、お手本のような呆れ顔をつくり腕を組んだ。
かぶりをふり、顔を下に下げて数秒。黒髪がだらんと垂れ下がって表情を隠す。
やがて、化物女がゆっくりと顔を上げた。その表情はさっきとは一転。随分と落ち着いている。だが、目には俺を貫く力強さが宿っていた。
「どうだった? あなたの知らなかった虎丸君は。あなたが以前思っていたような人生を歩んでた?」
悟すような口調。
化物女にそう言われて、俺は言葉に詰まった。
「あの子は相当不幸だよ。本物の不幸、うん」
化物女は一旦言葉を区切る。そして、言う。
「自分を不幸だと思い込んでるだけのあなたと違ってね」
「――っ」
風が一瞬、ピタリとやんだ。
「さっ、不幸な自分に酔ってんのはどっちだろうねー」
再び、俺と化物女の間を風が通り抜ける。黒いワンピースと黒い髪が風になびく。
「ホントはもう気付いてるんじゃない? あの世界に行った意味薄々分かってるんじゃない?」
………………静寂。深い、静寂。
「……るせえよ……うるせえよ」
やがて動いたのは、俺の口だった。
「あぁ、そうかいそうかい。分かったぞ、あんたが言ってた意味が。あなたに必要な物語? 自殺を止める? はいはい、分かった分かった」
滑るように芝居じみたセリフが出た。
「虎丸君はとても不幸な人間だった! あの苦しみに比べれば俺なんて屁みたいなもんだ。俺の悩みなんてちっぽけなものだったんだ! これからはしっかり生きよう!」
「……」
「とでも言えばいいのかよっ!」
元の口調に戻して、俺はそう叫んだ。
化物女は、そんな俺をさっきからずっと真顔で見ている。表情を少しも変えない。
「あいにくだがな、俺はそういうの大っ嫌いなんだ。そうやって、俺の自殺を思いとどまらせる。それがお前の目的なんだろ?」
呼吸を一旦整える。体が熱い。
「世界には満足に食べ物も食べれない人がいる? 世界には勉強したくても勉強できない子供たちがいる? それが俺にどう関係あるんだ? 確かにあいつは、虎丸はかわいそうなやつだよ。俺もあいつを色眼鏡で見てた。誤解してた。あいつに同情もしたかも知れない。それで、あいつに申し訳なかったって少しは、ほんの少しは思ったかもしれない」
もう、ヤケクソに近かった。
「でもそれはあいつの人生だ。俺には関係ねえだろ。そんなもん見せられても仕方ねえよ。俺には俺の苦しみがあるんだよっ!」
虎丸が俺の小説を読んだ時の顔を思い出す。
俺の小説じゃ、虎丸の心を動かすことはできなかった。
「俺の苦しみがお前に分かってたまるかっ」
自分の声がやけに大きく聞こえた。これだけ開放的な空間なのに、バウンドボールみたいに声が反響して、反響して……。
こんなことを誰かに向かって放ったのは久しぶりだった。
なんとなく、怖くて化物女の顔が見れなかった。情けないがその足元ばかり見ていた。
ザワザワザワザワ……
足元の草が風にそよぐ。自然の音だけが聞こえる。
………
「……ヤバイ」
化物女の声が聞こえて、反射的に顔を上げる。
「ヤバイヤバイヤバイ」
化物女は口元に手を当て、大袈裟にそんな声を出す。
宿題を忘れた小学生みたいな慌てっぷりの化物女に、俺は少々当惑する。
「ヤバイ、ヤバイよ……」
化物女は、俺の存在を思い出したかのように俺を見た。
「カッコつけてごちゃごちゃ言った身で申し訳ないんだけどさ、大事な事言い忘れてたわ。あなたと話してて思い出した」
「……は?」
化物女は左手の拳を軽く握って、自分の頭をコツンっと叩いた。
「これは、テヘッ案件です」
そして、舌をペロッと出す。
「これ、内藤美和の真似。人間の男はこうされると大抵のことを許すんでしょ?」
「……」
「いやいや、こんなことしてる場合じゃない」
化物女は取り繕うように姿勢を正した。
そして、
「これから大事なことを言います。実は、本の中の世界に行く人に一つだけ特別な能力を与える決まりになっているのです」
と言った。
「それはズバリ、実体化です」
「……」
「透明な身体がたった一回だけ、それも十分程度だけですが、実体化します。腹も減るし、寒さも感じるし、なんでも触れる。つまり、今のあなたの身体がそのまま過去の世界に適応されるのです」
「……」
「その能力を使うには地獄の特別な石が必要で、それを渡すのが決まりとなっているのですが……それをうっかりすっかり忘れていました。そうなんだよ。そんなルールがあったんだった。なんでもっと早く気づかなかったんだろ。ヤバいなぁ、ホント。ごめんなさぁい、私、新人なもんで……タハハ……」
「……は……?」
苦笑いを浮かべる化物女の顔を見ながら、言っていることを頭で整理する。
実体化ができた? あの世界で?
「なんで……? なんのために……」
急な話で追いついていかない頭に鞭を打つ。
そしたら……実体化ができていたら、色々なことができたかもしれない。それこそ、あの世界の未来を変えるようなことが。
一瞬、何を今更、早く言えよ、とそう思った。だが……
「ふん……」
「な、何よ、その笑いは」
自然と乾いた笑いが漏れたのは、化物女がおかしかったから。化物女の表情は何通りも見てきた。しかし、謙虚な姿は見たことがなかったから、少々新鮮だった。
だが、あくまでそれは少しの、ほんの少しの要素に過ぎない。
この笑いは、自分に向けた自虐的な笑い。
そんなことは今の俺にはどうだっていいことなのだ。
「……いや、そんなことできたとしても意味はなかったと思っただけだよ。こんな俺に何ができる? 俺にそんな力はない。どんな行動とろうが、どんな言葉かけようが俺なんかがいたところであの世界の未来なんて何も変わっちゃいなかったさ」
――だって、俺が命をかけて書いた小説を読んでも、あいつは何も感じなかったんだから。
そして、俺は俺自身のこともきっと変えられない。どんな道を辿っても、結局自殺する運命に違いないのだ。
化物女は下唇を突き出して頭をかきながら、
「……うーん、やっちゃったなぁ」
神妙そうな顔つきで言った。
かと思うと、「この件、コレでお願いしますね」
唇の前で人差し指を立て、いたずらがバレた子供のような顔をした。
「閻魔様に怒られちゃうから」
「……は」
炭酸の抜けたコーラみたいな声が出た。
また訳の分からない単語が飛び出してきた。もう、この化物女と会話をする気力は俺にはない。
「閻魔様? 石? なんかよく分かんないけどさ、もういいよ」
どこか言葉も投げやりになる。
「なんで?」
さっきとは別人みたいにケロッとした様子で化物女が言う。「え? 怒ってるんですか? 人間界では、謝るときは誠意を込めて敬語を使えば許されると聞いたんですけど」
「チッ」呆れた。こいつは会話不能だ。
「なんで? 当たり前だろ。俺はもう死ぬんだよ。自殺をするんだ。もうあんな世界には死んでもいかないんだよ。だから閻魔も透明も何も関係ないんだよっ!」
俺は啖呵をきると化物女の横を通りすぎた。
もうこんなとこに長くいたら次は何が起こるか分かったもんじゃない。
早足で俺は丘を降りる。
「行かせないよ」
俺の前に化物女が立ちはだかった。
「またこれかよ」
うんざり。うんざりもいいところだ。それを全身で表現する。
両手を大袈裟に振って、
「ほっといてくれって。死ぬのくらい勝手にさせてくれよ……」
それは懇願に近かった。
そんな俺に、化物女も同じような口調で言う。
「いや、私だってね、あなたが死のうが生きようがはっきり言っちゃえばどうでもいいのよ。でも、あなたたちが自殺して地獄に来ると治安も雰囲気も悪くなるの。私たちが困るのよ。だからこそ、自殺者を減らすよう閻魔様に言われてるんだから」
「だったらその閻魔様とやらに言ってくれ。自殺したやつが地獄でどんな風になるのかは知らないけどな、俺は死んでも地獄にはいかないから安心しろってな。確かに俺はつまんない人間だよ。でも言っとくけど、俺は悪いことなんて何もしてねえよ。俺を見てきたあんたなら分かるだろ? 人殺しでもしたか? だから地獄にはいかねえよ、俺は。だいたい自殺をする奴らがみんな地獄に落ちるような犯罪者って考えがおかしいだろ」
俺はそう言い放って化物女の横を通り、再び足早に歩き出した。
「落ちるよ」
その声色があまりにも冷たかったで、思わず足を止める。
背中で、化物女の言葉を感じる。
「なんか勘違いしてるみたいだね、あなた。言っとくけど、自殺した人はみんな地獄に落ちるの。必ずね。生前どんなことをしていたかとか、良い人か悪い人かも関係ない」
「……なんでだよ」
振り向いて伏し目がちに訊いてみた。化物女は、まっすぐな目でこちらを見ていた。
「あんたさっき人殺しでもしたかって聞いたよね?」
「それがどうした」
「今からあんたがしようとしてることはそれじゃないの?」
「ーー……」
一瞬、時が止まったのかと思った。それくらい、化物女の言葉がスローモーションで聞こえたのだ。
俺は顔を前に戻した。でも、足は止まったままだ。
「自殺は人殺しと同じだよ。 命をお粗末にした人間が行く場所は地獄しかないんだよ」
早くこの場を去りたいのに、どういうわけか俺の足は歩を進めようとはしなかった。
化物女の言葉を、自分の中に入れまい入れまいと脳が拒否している。
地獄から来た奴が何を綺麗事を言ってんだ。馬鹿か。
だが――それをしきれない自分もいる。
「で、そういうやつらは普通の人殺しよりもタチが悪いの、地獄ではね。色々と厄介なのよ。詳しいことは地獄にいってからのお楽しみ。あっ、でも、もしくるんならその時は絶対自殺でこないことね。これ約束。自殺以外ならいつでもウェルカムだから」
今までに聞いたことがないくらい落ち着いた重い口調で化物女は話す。
「だから、そういう面倒ものを地獄によこさないために私はこうして……って、この説明私何回目だよっ!」
背後で聞こえた大きな声に、俺は思わず振り返った。
と同時に、化物女が頬を膨らませて、ドスドスと足音を立てながらこちらに近づいてくるではないか。「あぁ」と髪を振り乱して、さっきまで喋っていたのとはまるで別人な化物女が迫ってくる。
化物女は突如、逆ギレした。
「もぉー分からないやつっ」
俺の真ん前まで来ると手を掴んで、
「ちょっとこっちきてっ」
スピッツみたいな声を出して、俺を引っ張っていく。
呆気にとられた俺は、されるがままにまた丘を登っていく。
いったいこいつは幾つ顔を持っているんだ。何十人格なんだ。コロコロコロコロと変化させやがって。この感情の起伏についていけない。
「離せって! なんなんだよ、急に……ひっ」
声が引きつり、変な汗が出てくる。
必死で抵抗するも逆らえなかったのは、腕があの化物に変化していたからだった。
これが、この女の本当の姿。
ズルズルと俺は引きずられる。
「まったく、一冊であんたの気持ちが変わると少しでも期待してた私が馬鹿だったよ! 閻魔様に怒られるのはもうこりごりなんだからねっ!」
そして、木の根元まで連れて行かれる。
「おい、何するつもりだっ」
「もう一回行ってもらうんだよ。次は別の本の世界に」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の全てがそれを拒絶した。
「ヤダヤダヤダヤダ。絶対嫌だからなっ。クソォ、さっさと死なせてくれよぉっ!」
「うるさいうるさい!」
自分でも……惨めだと思う。三十超えた男が、見た目二十代の美女に腕を引かれ子供のようにイヤイヤをしている。それこそ、散歩を嫌がるスピッツだ。
だが、そんな体裁などどうでもよかった。もう一度あんな世界に行くことに比べれば。
俺は抵抗をやめない。
「ふぬぬ……」
その異形の手が、俺の手を木の幹へと誘導する。
「ぐ……ぬ、ぬ」
必死で耐えた。全力を振り絞って。死ぬ気で。
「往生際が悪いわね……」
ふいに、化物女の手が軽くなった。化物女が俺の手首を離したのだ。
やった。諦めてくれたのだ。
と思った瞬間、
ヴオオオオォォォ――
すんっ。
気がつけば俺の手のひらは木の幹にべったり。
なんという素直な体なのだろう。
完全体の化物の姿を見ただけで、誰に何をされたわけでもないのに反射的に手が動いていた。
ずるい。ずるすぎる。それじゃああんまりだ。大の大人が死ぬ気で抵抗していたのに、姿を見ただけでこのザマ。これはいうならば、地獄級にチートじゃないか。
「熱っ」
手を幹から離す。
ドサッ。
本が頭上から落ちてくる。
見た目は、別の場所に落ちている虎丸の本とそっくり。真っ赤な表紙。変な紋章。西洋の古書のような重厚感のあるつくり。
今の俺には、その本が禍々しくさえ見えた。この物語はあの世界そのものなのだ。
こんな自動販売機みたいなやり方で、あんな世界への扉が開かれてしまう。
「もう……なんでこんなことするんだよっ!」
ヴオオオオォォォ――
「……するんですか……」
力なくフラフラと木から離れる。
「はい、いい子いい子」
萎縮した俺を見て化物女は女の姿に戻った。
バラバラバラバラ……
本がひとりでに動き始める。解読不能な赤い文字がびっしりと並んでいるのが見える。
バラバラバラバラ……バラ。
本がひとりでに止まる。本が光り始める。
それを確認して、化物女は言った。
「さっ、今度こそちゃんと石を渡さなきゃね」
もう、逃げられないのだ。今落ちた本が、一冊めの虎丸の時と全く同じ輝きを放っているのを見て俺は悟った。
化物女がワンピースを、自分の身体を触る。その石とやらを探しているのだろう。触る……。
触る触る触る……
触る触る探す探す……
それはもう忙しく、探す探す探す探す――
「ないっ」
化物女が叫んだ。ムンクの叫びのような顔をして。
「ない。石がない……あは、あははは」
こいつ……壊れた?
化物女は言う。
「地獄に忘れてきちゃった……あはは」
光が、強くなる。
化物女の気の抜けた笑いが光の向こうで見える。
「閻魔様に怒られる、あははは」
それを見て思った。
なんだろう。よく分からないが、振り回されている気がする。いや、俺は完全にこの化物女に振り回されている。
「あはははは……」
やがて、俺と化物女の諦めたような笑い声は、まばゆく巨大な光に包まれた――
これで二章は完結です!




