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結論から言うと、虎丸のクソ親父――虎丸大吾――は、配偶者を殺害した罪で逮捕された。
隣のおっさんが通報して、近所の交番の警察官が街を走って逃げているところを取り押さえたのだ。その警察官は偶然にもシブタニだった。
虎丸大吾は酒癖が悪すぎたらしい。クスリもやっていて、やばい連中とも最近になって付き合い始めたということだった。たしかにそんなことを匂わせる独り言を言っていたような気がするが。
とにかく、そんな凶悪犯のニュースは瞬く間に報道された。
ここで、俺の曖昧だった記憶は完全に、次こそ完全に蘇った。
家族殺し。その殺された家族というのは、ばあさんではなくて、 妻だったのだ。
俺もこのニュースをぼんやりと見ているに違いない。まさか五年後、自分がこの事件の現場に透明な身体で居合わせるとは思いもせずに。
虎丸はといえば――あまり、ここ最近の虎丸のことは語りたくない。
見ていられないのだ。
虎丸は学校を休んでいる。それから、バイトも。
噂はすぐに広まった。
俺は常に虎丸の後ろを付いているから、虎丸が通った道の空気が一変するのを感じすぎるほどに感じる。
中には、
「あれが殺人者の息子」「ばあさんも頭がいかれてるらしい」「あの子も相当危険らしいよ」
心無い声や、根も葉もない噂も聞こえてきた。
しかし、そんなことも気にならないほど、母親の葬式等の準備をはじめ、虎丸はやることが多すぎた。
この短期間に虎丸は様々な大人と色々な話をした。一生分の話をした。
きっと、感情や思考が追いついていないのだろう。
その間、虎丸の顔には笑顔も涙もなかった。
母親の葬式の日のこと。
その日も、当然のように雪が降っていた。
食事の席を抜け、一人廊下の長椅子に座っている虎丸に一人の男が近づいてきた。
シブタニだった。
どういうことを話すのか気になった俺は、側で耳を傾けた。
シブタニは言葉を選びながら慎重に話している雰囲気があった。
「……全てが終わったらゆっくり休みなさい」
やがて穏やかな口調でそんなことを言った。
まあ、大丈夫かい? や、しっかり食べてるか? よりはマシな言葉だろう。さすが年配の警察。
「……はい」
虎丸が返事をした。
「ところで、おばあさんは施設にやらないと聞いたんだけど」
「はい。そうです」
「君も施設には入らないとか」
「はい」
「……厳しいことを言うかもしれないが、私はそれじゃあ生きていけないような気がする」
「……」
「悪いことは言わない。二人だけじゃ大変なことも多いよ。私だってできるだけの手伝いはする」
「二人で生きていきます」
虎丸はシブタニの目をまっすぐ見て言った。「これまでだってばあちゃんと二人で生きてきたんです」
「しかし……」
「シブタニさん」
虎丸が言った。
「……うん?」
「僕の夢、警察官だったんです」
それを聞いた瞬間、シブタニの顔が曇った。
「僕……シブタニさんみたいな警察官になりたかった」
「……そうか」
「でも、もう無理ですね……」
「……」
シブタニは何も言わない。
「だって、僕の父親犯罪者になったから……」
「それは……」
「知ってますよ。僕……近親者に犯罪者がいたら、警察にはなれないんですよね」
「……」
「……なんで、僕がこんな目に会わなきゃいけないんですかね……僕が何かしましたか? 僕は何も悪くないですよね……精一杯生きただけなのに……これじゃあ、僕……」
「気をしっかり持つんだ」
「……分かってますよ。僕がいなくなったらばあちゃん見る人いなくなりますから」
「だから、おばあちゃんは――」
「シブタニさん。色々ありがとうございました。警察になるための勉強はお預けで……」
虎丸がどのタイミングで泣き出したのか、俺ははっきりと覚えていない。
ただ、ただ虎丸は、堰を切ったように泣き出したのだ。
一生止まらないんじゃないか、そう思ってしまうほどに。
どうして虎丸ばかりにこんな不幸が次々と降りかかるのだろう。
雪は連日降った。もういいじゃないか、と言いたくなるほど、降った。
一つ、いまだに気になることがある。
それは、ばあさんの未来について。
俺は確かにばあさんが死んだとこいつから聞いた。時期は定かではないが。
だから、てっきり、あの件でばあさんは死んでしまうのだと思っていた。
だが、ばあさんは生きている。
そこだけが、俺が知っている未来と少し違うのだ。
もしかしたら未来が少し変わったのかもしれない。なんの根拠もなく、俺はそんなことを思ったりした。
その答えが分かったのは、俺がこの世界に来てから約一ヶ月が経とうとしていた時だった。
その日、虎丸の疲れはピークに達していたように思う。
そして、虎丸の重大なミスに俺もその時まで気がつかなかったのだ。
気づいたところで、この身体じゃ何もできなかったが。
夜中に物音がして、俺は目を覚ました。とはいっても、閉じていた目を開けただけなのだが。
どうせ、ばあさんだろう。
こういうことはよくあった。ばあさんは夜中に起きて家の中をぐるぐると動き回る。
そのたびに虎丸が目を覚まし、ばあさんが眠るまで目を離さないのだ。
しかし、この日虎丸は起きなかった。
無理もない。肉体的にも、何より精神的に疲弊していたのだ。
よほど疲れていたのだろう。虎丸を見ると、いつもは物音がすると反射的に目を覚ますのに、泥のように眠っていた。
代わりと言っちゃあなんだが、俺はばあさんの行動を目で追った。
確かに室内でも危険はある。皿を割ったりだとか、水を出しっぱなしにして床が水浸しとか。
だが、流石にそれくらいの音がしたら虎丸も起きるだろう。
そう思ってあまり気に留めていなかった。どうせ、俺が張り切って目を光らせたところで何もできないし。
ばあさんは、廊下へ出た。そして、そのまま玄関の方へと進んでいく。
何も気にしていなかった。気にすることなどないはずだった。
ガチャリ
その音を聞いた瞬間、全身が総毛立った。
俺が玄関を見た時、その扉はもう開いていた。
外の冷たい風が入ってくるのと入れ替わるように、ばあさんが出て行ったのだ。
そんな馬鹿な――
慌てて玄関に行き、ドアを確認する。
サムターンが、つまみが付いているーー
俺はそこで全てを理解した。あまりに疲れた虎丸は、日課ともいえるサムターンの取り外しを忘れてしまっていたのだ。
外を見る。もうばあさんは階段を一人で降りようとしている。
「おい。起きろ!」
俺は部屋に戻りながらそう叫んだ。
「ばあさんが出て行くぞっ!」
力一杯叫びながら、横になっている虎丸の枕元に駆け寄る。
「おいってば!」
しかし、当然のことながら虎丸は起きない。
「くそッ」
俺は部屋を出た。そして階段を降りる。
ばあさんはもう、階段を下りきってアパートの駐車場の外に出ようとしている。
「待てよ! おい!」
ばあさんの前に回り、両手を大きく広げその進路を防ぐ。
スカッ
「くそっ」
もう一度婆さんの前に立とうとした時、俺の身体が、ガクン、止まった。
「ちくしょう!」
俺はカメのように進むばあさんの丸まった背中に向かって叫ぶ。
「これ以上あいつを苦しめるなよ! こら、ババア!」
しかし、俺の声は暗闇の中に溶けていった。
「ああ、もうっ」
もう一度虎丸の元へ戻る。
「おい! おい!」
揺すったり、叫んだり、蹴ったり……。
それから数分間、俺は馬鹿みたいに部屋の中で騒ぎまくった。
このままじゃばあさんが……。
そう思った時、ふいに感じるものがあった。
まさか……嫌な予感が胸によぎった、その時。
「うぅ……」
虎丸が目を覚ましたのだ。
腕をさすりながら目をこする。そして、隣で寝ているはずのばあさんがいないことに気づく。
そこからは、早かった。半開きの目が玄関の開いているドアを捉えた瞬間、虎丸は飛び起きた。
「よしっ! 急げっ」
寝間着姿のまま虎丸は外へ出た。靴も履いていない。
外に出ると雪が降り始めていた。
おそらく虎丸は開きっぱなしのドアから入り込んできた冷気を感じて起きたのだ。
「ばあちゃん! ばあちゃん!」
叫びながら虎丸は走る。
寒いはずだが、額にはびっしりと汗をかいている。
裸足のままで、雪の降りしきる街を泣き叫びながら虎丸は走る。
「ばあちゃん! ばあちゃん!」
しかし、虎丸の叫びも虚しく、アパートの周りでばあさんを見つけることはできなかった。
虎丸はさらに走り回った。道路にも出た。駅なんかとっくに超えて商店街にも出た。
だが、ばあさんはどこにもいない。
さすがにおかしい。俺は思った。
あのばあさんの足でこの短時間にそう遠くへは行けないはずだ。
虎丸も同じように思っているに違いない。
探す場所がなくなってくる。
雪が勢いを増す。
それでも虎丸は走る。
裸足で。叫びながら。泣きながら。
その姿は、
痛くて、重くて、寒くて、悲しかった。
虎丸が雪で滑って転んだ。立ち上がる気力もないように思えた。それでも、叫ぶ。
「ばあちゃん! ばあちゃん!」
心のどこかで俺は思っていた。
多分ばあさんは見つからないと。
それが分かっているからなお、見ていられないのだ。
やっぱり、未来は変わらなかった。
雪が強くなる。
虎丸の声も、雪に飲み込まれた。
翌日、ばあさんは、海で死体となって発見された。