10
クソ親父と会ってからというもの、虎丸は常にどこか上の空だった。
バイト中も、学校でも、家にいる時もぼうっと過ごしていた。
魂は常に別のところにあるみたいだった。
あんなことがあったのだから、仕方ないのかもしれない。
ばあさんとの接し方にこそ変わりはなかったが、どうしても今までのようには二人を見ることはできない。
虎丸はどんな気持ちでばあさんに接しているのだろう。
そして、ばあさんをどうするつもりなのだろう。
そんなことばかり考えてしまうのだ。
俺は虎丸をずっと間近で見てきた。
俺の知っていた虎丸は無理して笑っていた虎丸で、本物の虎丸ではなかったことを知った。虎丸を誤解していたことにも気づいた。
それで、自分がそうしていたことに少しだけ……後悔のようなものをした。
昔とは、虎丸を見る目が確かに変わった。
認知症のばあさんを、高校生がたった一人で世話するその苦労も生半可なものではないこともよく分かった。
だけどその分、俺は、虎丸とばあさんの絆もたんまりと見てきたのだ。
だからこそ思う。
二人のこれまでを、こんな形で終わらせていいわけはない。
でも……
虎丸はそういうやり方で終わらせてしまう。
未来を、俺は知っている。
他人がとやかくいう権利はない。俺だったら尚更だ。虎丸の人生に口出しする資格なんかない。ないのだけれど、正直、虎丸にがっかりしたのは事実だ。
うまくいかないんだ。失敗して捕まるんだよ。
ばあさんは死んで、お前のクソ親父が犯罪者になる。
未来は、もう決まっているのだ。
そう、教えてやりたいが俺の声は届かない。
もどかしい。今の俺は無力だ。このまま、黙って見ている他ない。
その時を、俺は指をくわえてただ待っているしかないのだ。
そして、あっという間に三日が経った――
テーブルの上には大量の酒瓶がある。
それを見下ろす虎丸の母親と父親。
ばあさんはこれから起こることも露知らず、ちょこんと座ってニコニコしている。
虎丸は、廊下の流しに手をついて俯いていた。
虎丸は、学校にいる時から今日一度も口を開いていない。
「ったく、最初からこうしてりゃ良かったんだ」
男ーークソ親父が口を開く。
「もっと早くエンドウのニイサンに会っておくべきだったぜ」
そして、あぐらをかくと、自分でも酒を飲み始めた。
「あんた」
母親が虎丸を見て言う。「最後になんか言うことないの?」
虎丸は何も言わない。蛇口から水がたれ、シンクにぶつかる音だけがする。
虎丸は、まだはっきりとした答えを出していないはずだった。
そんな中で、今日学校から帰ってくるとその準備は整っていたのだ。
「……本当にいいのかよ、お前」
虎丸の後ろまで行って聞く。
俺の声は聞こえない。それに、もう未来は決まっている。
それなのに、ついこんなことを言ってしまう。
虎丸が無言で部屋の外に出た。
俺はその後を追う。
「じゃ、始めるか」
と、言う声が後ろで聞こえた。
廊下の手すりに掴まって、虎丸は遠くを眺めている。だが、すぐにぎゅっと目を閉じた。
きっと、中で行われていることを想像したくないからだろう。当然だ。俺だって見ようと思えば見にいけるが、そんな気は微塵も起きない。
「おい。お前本当にいいのか?」
聞こえるはずもない虎丸に言う。
「そりゃあないんじゃないのか? このままだとばあさんもこれまでのお前も報われないんじゃないのか?」
答えは当然ない。
未来は変わらない。
俺が話しかけるのを諦めようとした時、虎丸が顔を上げた。
「雪……」
虎丸が呟いた。
雪だ。俺が初めてこの世界に来た日以来の雪。ここから、雪は連日降るようになる。そう、未来は決まっている。
それが何かの合図だったのか、きっかけとなったのか分からない。
次の瞬間、虎丸は俺をすり抜け、弾かれたようにドアを開け室内に入っていった。
あっけにとられながらも必死で後を追う。
「やめろおぉぉ」
虎丸が叫びながらクソ親父に飛びついた。二人は同時に床に転がった。
そして、虎丸がクソ親父の上に乗る形になる。
「キャッ」と、母親が口を押さえ声を上げる。
「ひえぇぇぇ」と、ばあさんが声を上げる。
良かった。ばあさんはまだ元気だ。
「なんだてめえ! 何しやがるっ」
「ばあちゃんは死なせない!」
「今更何言ってやがんだ!」
「ばあちゃんは……僕のばあちゃんだっ! 死ぬんならお前らが死ねっ! 僕の家族はばあちゃんだけだっ」
いつのまにか、虎丸は泣いていた。俺は虎丸の涙を初めて見た。
「んだとぉ!」
クソ親父が叫んだその瞬間、虎丸が投げ飛ばされ形勢が逆転した。
「てめえ、親に向かって何言ってやがる!」
それから馬乗りになってタコ殴り。
直感的に思った。まずい。こいつキレたら周りが見えなくなるタイプだ。
「お前なんか親じゃねえよ!」
その虎丸の一言でクソ親父の拳を繰り出す勢いは更に増す。
鈍い音が何度も何度も。クソ親父の目は、もう、あらぬ方向に飛んでいた。
ヤバイっ。
「やめろっ」
スカッ
止めに入ろうしても、俺の体は虚しく二人をすり抜ける。
今日ほどこの体を呪ったことはない。
だがそれ以上に、虎丸のために自分の身体が自然と動いたことに俺は驚いてもいた。
すると、クソ親父が、殴るのをやめた。その手はテーブルの上の酒瓶に伸びた。そして、クソ親父が酒瓶を振り上げる――。
その時、視界の端で動く影があった。それまで狼狽えていた母親だ。
「ちょっと、何してんの」
クソ親父の肩に手をやり言う。「やめなって。そんなんで殴ったら死んじゃうでしょっ」
「あぁ?」
クソ親父がゆっくりと立ち上がり母親の方を見た。
母親は一瞬ビクついたが、もう一度言った。
「やめてって」
ヒステリックなあの声で。
クソ親父が母親を睨みつけた。その姿はもはや、狙いを定める野生の熊だ。
「お前のその声、キンキン響いてうるせえんだよ」
と、
言い終わった瞬間だった。
母親の頭に酒瓶が振り下ろされたのは。
誰も言葉を放つ暇も余裕もなかった。
ただ、母親がごとりと床に倒れる音が大きく響く。頭からは、真っ赤な血が流れている。その流れる音も聞こえてくる気さえした。
息を、飲む。それしかできなかった。
「おい、うるせえぞ」
その声でその場にいる皆が我に帰った。
皆が同じ方向を見る。玄関。
そこには隣のおっさんが怪訝そうな顔をして、開けっ放しのドアから中を覗いていた。
「いったい、なにしてーー」
おっさんの視線が、クソ親父が持っている血のついた酒瓶と倒れている母親に交互に注がれているのが分かった。
みるみる顔が青ざめていく。コトを理解したようだった。
「うわあぁぁぁ」
おっさんは腰を抜かしながら、その場を去った。
その悲鳴で完全に我に返ったクソ親父は、瓶を投げ捨てると部屋を逃げるように出ていった。
部屋には、やはり静寂が戻った。
そう。いつものように。
「まさに、地獄の惨劇じゃぁ。ここは、地獄じゃあ」
ばあさんが言った。