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「大事な話がある」
開口一番、クソ親父は言った。
この、大仰にあぐらをかいて虎丸と向かい合っているサングラスの男――虎丸のクソ親父が家に帰ってきたのは唐突だった。
ばあさんを寝かせると、虎丸は渋々というように自分の父親と向かい合ったのだった。
「……何」
普段、二人が面と向かって話すことはないのか、虎丸の表情もどこか落ち着かない。
だがそれとは対照的に、クソ親父の方はドシッとした面構えだ。笑みこそないが、サングラスの奥で目は烱々と光を放っているのがなんとなく分かる。ふてぶてしい顔をしている。
いい話題……ではないだろう。
なぜか俺まで緊張していた。手に汗を掻く感じだ。
「借金を全部返せるかもしれない」
クソ親父が出し抜けに言った。
「え?」
思わず声が出てしまったのは、俺。
いい話題ではないとばかり思っていたから意表を突かれたのだ。
虎丸を見た。ほとんど表情に変わりはない。
クソ親父は虎丸の返事を待っているようだ。
やがて虎丸が重そうに口を開いた。
「そんなに、うまい話あるわけないだろ。全部? 今うちに借金がいくらあると思ってんだ。一千万だよ。一千万」
俺は息を飲んだ。
一千万? そんなにあったのか?
俺がしていた借金は100万ちょっと。
いや、比べるわけではないが、そんな大金が高校生の肩に乗っかっていたと思うと言葉がなかった。
「分かってるよ。んなことは」
俺が驚いた話をクソ親父は一笑に付した。
「だから、その一千万が全部返せるんだよ」
そんなうまい話あるわけがない。借金の金額を聞いてから、俺は虎丸の表情の意味が分かった。
やっぱりこれはいい話じゃないのだ。きっと裏がある。
このクソ親父が急にそんな大金用意できる算段を立てるなんて、そんなのろくでもないことに決まっているのだ。
クソ親父は、横で寝ているばあさんをちらりと見た。まるで、ばあさんの呼吸を確認するように。
そして、小声でポツリと言った。
「ーーばあさんには、多額の保険金がかかってる」
その言葉に耳が反応するや否や、俺はクソ親父を見た。
だがそれよりも早く、虎丸がそれまで俯き気味だった顔を凄い勢いで上げた。
クソ親父は、ばあさんを見たまんまだ。
虎丸の唇は震えている。テーブルに手をかけ、膝立ちの状態になる。目は大きく見開かれている。言葉こそ発しないが。いや、発せないのかもしれない。
俺も今、虎丸に近い顔をしているに違いない。
クソ親父が言ったその言葉が表す意味ーー
もちろん、虎丸もその意味を理解しているのは表情を見るからに明らかだった。
「ばあさんを死んだと見せかけて殺すんだよ」
クソ親父が虎丸を見て言った。
虎丸の目がカッと大きくなるのが分かる。白目に伸びている血管の一本一本が、やけに俺の目についた。
「酒を大量に飲ませるんだ。それで、急性アルコール中毒で死んだということにすればいい。どうせ、ボケてんだ。誰も疑わない。ばあさんが勝手に死んだと思うだけだ」
分かってはいたが、その言葉を聞いた時全身に鳥肌がたった。
間髪入れずにクソ親父が浴びせるように言葉を放つ。
「それだけだ。それだけで、大量の金が入ってくるんだ。安いもんだろ」
虎丸は微動だにしない。瞬きすらせず、石のように固まっている。
そんな虎丸にたまりかねたのか、やがてクソ親父はサングラスを外して、虎丸を伺うように顔を近づけた。
――その時だった。
俺の視線は男の素顔に釘付けになった。
この世界に来てから、カリカリと記憶のドアを引っ掻く音が聞こえていた。
カリカリカリカリ……
忘れかけていた記憶のイメージが断片的に脳内に流れ込んでくる。
この男を、俺は見たことがある。
そう、確かテレビでーー
ガリガリガリガリ……
五年前、俺が最後に虎丸と会ったのはラーメン屋だった。
確か最後の時、虎丸は一人で来たんだ。
そしてその日、俺は初めて、本当に気まぐれで、虎丸に話しかけたのだ。
「今日はおばあちゃんは一緒じゃないんですか?」
と。
虎丸はその時なんと答えたか。
そうだ。確か、
「亡くなりました」
そう答えたのではなかったか。
バタンッ。
今、完全に記憶の扉が開かれた。
俺は、目の前のこの男を、殺人犯としてテレビのニュースで見たんだ。自分の住んでいる街で、センセーショナルな事件が起きたということで、頭の片隅にこびりついていたのだ。
犯行は確か、家族殺し――
つまり、今俺の前にいるこの男は、未来で逮捕される犯罪者なのだ。
ごくり、と唾を飲んだ。
クソ親父が、サングラスをかけ直し立ち上がった。
「なあ、お前だってもううんざりだろ。全部楽になるぜ。これからは自由に生きていけるんだ。あっ、ちなみにあいつはもう了承している。一番残酷なのは言っておくがあいつだぜ。なんたって実の親を殺すんだからな。それから、それが終わったら俺らは別れる。お前は本当に自由の身だ。あとは好きに生きてくれ」
クソ親父は一気に喋ると、呆然とする虎丸の肩に手を置いて、「じゃあ、三日後な」と言って部屋を出て行った。
後には、静寂だけが残った。あの男が帰った後はいつもこうだ。
目の前でついさっき起きていたことに現実味がなかった。
本当に現実世界でこんなことが起こるのか。フィクションの世界でしかこういうことは起こらないんじゃないのか。俺は今、ものすごい現場に直面しているんじゃないか?
いや、それよりも。
虎丸はどうするんだ?
考えるまでもないことだ。決まってるだろ、答えは。
俺が心配しているのは、虎丸がそんな分かり切った答えに即答しなかったということだ。
驚いたとはいえ、なんですぐにそんなのやめろと止めなかったんだ。お前らしくもない。
あいつは犯罪者になるんだぞ。そんな奴にお前が手を貸してやることはないだろう。何より、今までずっと一緒にいたばあさんをお前は……。
柄にもなく熱くなった俺は、虎丸の前に回り言った。
「お前、ばあさんをこのまま殺しーー」
聞こえるはずもない言葉を途中で意味もなく遮るなんてことを俺はしない。
俺が言葉を失ったのは、虎丸の顔を見たからだ。
その顔が、目が、十五日間一緒にいた中で一度も見たことがなかったものだったのだ。
言葉では説明できない表情だった。
「お前、まさかーー」
虎丸は、その顔でばあさんを静かに見下ろしていた。
自分の思っていた以上に暗い話になってきました、、
でも、登場人物たちがそうさせるのです、、
きっと、この小説に必要な話なのだと思います。