8
書いていてスカッとした回です。
奇妙な日常は、俺などおいてけぼりにするように淡々と進んだ。
俺の、というか虎丸の毎日は、いつも同じで、見ていて……楽しいものではなかった。
平日は学校に行き、放課後は部活も遊びもせずにずっとバイト。休日は、更に一日中バイト。
「バイトだるいー。もっと楽してお金稼ぎたいよー。パパ活でもやろっかなぁ。ふふ。今エッチなこと考えたでしょ」
家事もばあさんの世話もたった一人でこなす。それは見ているだけで疲れてくるような毎日だった。
ばあさんは、風呂場でうんこをすることもあったし、水を出しっぱなしにして床をびしょびしょにすることもあった。
夜中に何度も目を覚まし壁を叩くもんだから隣のおっさんに虎丸は何度も怒られていた。その度にクマのできた疲れた顔で、おっさんにペコペコ頭を下げるのだ。
俺だったら耐えられなくて、ノイローゼにでもなるんじゃないかという生活。
毎日ばあさんには手作りの料理を食わせ、自分は廃棄。
俺は、こいつが品出しの時、物欲しそうに食べ物を見ているのを知っている。
服も学校の制服かバイトの制服以外に何着かしか見たことがない。
お菓子やゲームも虎丸の周りにはない。スマホじゃなくガラケー。
「はぁー、大学のレポートヤバいんだけど。いいなー、高校生は。楽でしょ、人生」
空いた時間に学校の課題をやり、そして警察官になるための勉強もする。
将来の夢に向かっている時、その時だけは普段は見せない目の輝きを見せる虎丸を見ていると、昔の自分を思い出すこともあった。まだ、小説家に夢を見ていた頃の自分を。
「虎丸君っていっつも余裕な顔してるもんね。ほら、見てよ、私の顔。目とか真っ赤じゃない? 疲れてんだよ。だからいたわってぇー」
あれ以来、母親は何度か顔を見せた。しかし父親は一度も帰ってくることはなかった。
その理由として、どうやら借金の取り立てをかわすためらしいことが分かった。
何日かに一度、アパートまで借金取りが押しかけてくるのだ。今のところは虎丸がうまくかわしているが、それも時間の問題だろう。まさか、すぐにその息子から取ることはないと思うが。
ばあさんが施設に入れないのも、虎丸が高校生ながら働きづめなのも、こんなボロアパートに住まなければならないくらい生活難なのも、全部バカ親の借金のせいだったのだ。
そのうえ、そのバカ親は子供に無関心。どころかばあさんの世話まで虎丸たった一人に押し付けている。おまけに、近いうち二人は離婚するらしい。
しかし、虎丸はどんな状況でも人前では気丈に振る舞い、辛いところは一切見せなかった。
寝不足でも疲れていても学校では笑顔。バイト先でも笑顔。ばあさんの前でも笑顔。
そんな虎丸を見ていると、かわいそうでかわいそうで、涙が止まらなかったーー
――とは、ならなかった。
むしろ俺が虎丸に抱いた感情は「苛立ち」だった。不幸な自分に酔っているだけじゃねえか、と我慢できず思うことすらあった。
虎丸は一人の時、悲しそうな顔をよくした。
本当は辛く苦しいに決まってる。ずっと間近で見ている俺が言うんだから間違いない。寝食どころか二十四時間を共にして、お前のオナニーまで目撃して、俺はお前のことを誰よりも知っている自信があるんだ。
強がるなよ。誰かに助けを求めればいいじゃねえか。好青年を演じていないで、あの、一人でいる時にしている顔をみんなにも見せてみろよ。
俺は知ってるんだぞ。
お前の、誰にも見せない顔を。笑顔とは程遠い顔を。
話は急転換するが、俺も相当辛い……。
虎丸のハードな毎日が俺の気を紛らわしてはいるが、俺も俺でとんでもないことになっているのは変わりないのだ。元の世界に戻る糸口さえ掴めず、この現状は何も解決しないまま、もう一週間以上が経った。
その間、一睡もしていないし、一口も物を食べていないし、一滴も水分を取っていないし、一言も会話をしていないし、一文字も文章を書いていない。
そのくせ、何百回、何千回とすり抜けた。
身体がおかしくなりそうだ。身体はないのだけれど。この決まり文句も、もううんざりだ。
別に、体調が悪いとか体力的に厳しいとかそういう話ではない。腹も減らないし眠くもないのだから。
飽きたのだ。そりゃ、飽きる。何も出来ないんだから。何もしないというのが動物にとっては一番苦しいんだ。
暇な時間がありすぎるあまり、俺は時々考えることがある。
それは、あの木について。
丘の上の木には、大量の本がぶら下がっていた。
もしかしたら、その全てにこういう別世界の様々な物語がそれぞれあって、虎丸はその一例に過ぎないのかもしれない。
ただ、あの化物女はこう言っていた。
「あなたに必要な物語」「自殺を止める」
それが、あの木と、虎丸と、どう関係あるのだろう。
……。
だが、それ以上はいくら考えても、頭に浮かぶのは、あの化物女への恨み……罵詈雑言……そんなのばかりなのだった。
俺がこの世界に来てから、十日目の夕方。
虎丸が学校帰り、バイトに行く前に家に寄ると母親がいた。そしてその傍らには、男。あのクソ親父ではない男が、まるで自分の家にいるように座っていた。
「あのさぁ、母さん連れてってくんない?」
どうやら、虎丸の母親が新しく男をつくって家にあげたらしかった。この母親も大概だ。
「今日だけだから。もうすぐ彼と住む家見つかるから」
夫婦の離婚がどこまで進んでいるのか分からないが、虎丸にとってはあまり関係ないのかもしれない。虎丸は、諦観を得たような顔をして、自分の母親とその新しい彼氏の話を聞いていた。
それにしても、どれだけそうしていたのか分からないが、この空間でゆっくりとお茶を飲んでいるばあさんが不憫でならなかった。
虎丸は迷った末、店長に電話をして自分が働いている間、休憩室にばあさんを居させて欲しいという話をして、その了承を得た。虎丸の勤務態度は店長の絶大な信頼を得ている。虎丸じゃなきゃ、許されなかっただろう。
「ありがと」
と言った母親を無視して、虎丸は仕方なくばあさんを連れて家を出た。
「虎丸君のおばあちゃん?」
休憩室で内藤が言った。野生動物を見るような目で、ばあさんをジロジロと見ながら。
「そうなんです。ちょっと理由があって、僕が今日働いている間だけ。店長にはもう話はつけてありますから」
「ふうん。理由って?」
「まあ、色々あって」虎丸はまたあの笑顔を見せた。
「ふぅん」
内藤はばあさんに向き直って、
「こんにちは、おばあちゃん。虎丸君にはいつもお世話になってます」
声のトーンを一つ上げ、手を差し出した。
「おや」
ばあさんは、差し出された手と内藤の顔を交互に見ると、「かわいいお嬢さんの皮を被ったあんたは、さては魔女だな」
「は?」
「地獄から来たかぁ」
そう言ったかと思うと、内藤の手を払ったのだ。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている内藤を見て、俺は思わず笑ってしまった。ざまあみろ。お前の猫なで声は、地獄ばあさんには魔女の笑い声に聞こえるんだよ。
「ごめんなさい、美和さん。おばあちゃんちょっとボケてるんですよ。気にしないでください。ほら、ばあちゃん。いいから大人しく座ってて」
「あぁ、あはは……面白いおばあちゃんだね……」
引きつった顔のまま、内藤は仕事に取り掛かった。
…………………。
壁際にパイプ椅子を置き、足を組みながらスマホをいじる内藤。
…………………。
テーブルにずっと親指を押しつけているばあさん。
…………………。
そして、それを黙って見てる透明な、俺。
…………………。
…………………。
「チッ」
沈黙を破ったのは内藤の舌打ちだった。
「あの」スマホからばあさんに視線を移した。「何やってんですか」
吐き捨てるようなぶっきらぼうな口調。虎丸がいる時とは大違いだ。
虎丸が休憩に入るまでは、あと少しある。暇を持て余した俺は、先に休憩に入った内藤とばあさんの様子を、休憩室に見に来ていたのだ。
「ここにな、虫がたくさんいるんだ。汚くてどうもね。アタシが潰してやってんのさ」
いつものばあさんだ。しかし、それを知らない内藤が立ち上がり「どこにもいないじゃないですか」
それでもばあさんはやめない。
「はあっ。気になるんでやめてくれます?」
それでもばあさんはやめない。
「もうっ。やめろっつってんだよ。ババア」
内藤がばあさんの骨と皮だけのか細い手首を掴んだ。
「ひえぇぇぇ」とばあさんが声を上げる。
こうなるとなんとなく思っていた。
虎丸にずっと付いて回るということは、内藤の事もよく知れるということだ。こいつの本性も俺は知ってる。
これまでの内藤の言動は、逐一カンに触るものばかりだった。
特に虎丸に対して。
虎丸のことを何も知らないくせに、ペラペラとゴタクを並べやがる。お前にはみえていないだけで、虎丸には、お前じゃ計り知れない苦悩があるんだ。それを無神経な言葉で片付けやがって。俺ですらこうなのだから、当の本人はどんな気持ちなのだろう。それでも、笑顔でいる虎丸にも俺はイラついているわけだが。
とにもかくにも、老人に手をあげるのは虎丸ではなく内藤だったのだ。
「マジうるさいんですけど。ホンット目障りだわあ」
この、裏表がオセロのようにはっきりしてる馬鹿女が、ばあさんをどうするのか冷や冷やしていると、
内藤がばあさんからパッと離れた。
その視線の先ーー控え室の入り口には、虎丸がいた。
「あっ、虎丸君」
すでに内藤の表情はころっと変わっている。
「今さ、おばあちゃんが転びそうになってたから手を引いてあげてたの」
虎丸が扉を開けたまま室内に入ってくる。
「ごめんなさい」またあの笑顔。「美和さんに迷惑かけてませんか?」
「全然大丈夫だよぉ」胸の前で両手を振る。
ああ、こいつやっぱ神経イかれてやがる。
「ならよかった」
虎丸の表情には人の良さが滲み出ている。「じゃあ、休憩交代でお願いしまーす」
と言った。
「オッケー」
内藤が休憩室を出て行く。
虎丸は馬鹿じゃない。俺はそれも分かっている。
「ねぇ、虎丸君。いつデートしてくれるの?」
虎丸のシフト時間ももう少し。客がいなくなった店内で、イかれ女がいつもの軽い調子で言った。
さっきのさっきで、こんなことを言うなんて本当に神経を疑いたくなる。
ちなみに、ばあさんは控え室で眠っている。
店内の色という色がなんだかうるさかった。
「……だから、バイトで忙しいんですよ」
虎丸が答える。
「私だって大学忙しいけど、時間作るんだよ? それくらいの時間作れるでしょ。お金が足りないなら奢るよ? 男が女に奢られるの気にしてるなら心配ないよ。私の方が年上だもん。分かった。じゃあ今夜、この後は?」
「……あの――」
間抜けなチャイムの音が鳴った。
入り口を見ると、客が一人入ってきた。
俺だ。
ラーメン屋で見たぶりの俺は、いつものように冷凍食品をカゴに詰め、虎丸のいるレジに持って行く。
虎丸はコンビニで顔を合わせても、ラーメン屋で会う時のように話しかけてきたりしない。
それもまた、昔の神経質な俺にとっては癪だった。
だから、今目の前にいる俺は、虎丸を斜に構えて見ているはずだ。
なんだ、こんな奴――と。
あれ――?
会計を済ませ、俺が出て行く。間抜けなチャイムが鳴る。
今なんか――
「ねぇ、また来たよあの人。キモくない? あれ。目つきとかこんなだし」
内藤が目尻を人差し指であげてふざけた顔を作る。
でも、怒りは湧かなかった。自分のことを裏で馬鹿にされている現場に直面したのに。
それどころか、今までの内藤に対する怒りすらも霧散していた。
なぜなら、気づいてしまったから。
俺も内藤と同じだったと気付いてしまったから。
何も知らないで、虎丸のことを色眼鏡をかけて見ていたのは俺も同じだったんじゃないのか――
「あの人は――」
虎丸が、もう誰もいなくなった入り口を見て言った。
「小説家になるんです」
虎丸は真剣な眼差しで言った。俺はそんな虎丸をただ見ていた。
「え? なんで知ってんの?」
「……友達……に、これからなるから……」
驚いた。友達? 虎丸は俺をそんな風に思っていたのか?
「えぇー、やめたほういいよ」
内藤が、臭いものを嗅いだ時のような顔を作り言う。
「だいたいさ、小説家志望とかって、危なくない? 汚いし、金ないし。なぁんか、ダメ人間って感じ」
内藤の声は、店内によく響く。
だが、次に放たれた虎丸の一言は、まるで虎丸の口から出るのを嫌がるかのように小さかった。
「……真剣に夢追ってる人馬鹿にしてんじゃねーよ」
確かに、俺には聞こえた。
「え? 何?」よく聞き取れなかったという風に内藤が聞き返す。
「美和さん」
虎丸が言った。
「僕、美和さんとデートできません」
内藤の反応も確認しないで、さらに真面目な顔で言う。
「僕これから、美人で頭が良くて人の悪口言わなくてとても良い女の人と山下公園でデートしなければいけないんです。だから、美和さんなんかに構ってる暇ないんですよ」
内藤は、虎丸の言っていることが理解できないと言う顔をしている。泡食ってる。大泡食っている。
やがて、震える声で言った。
「は? 意味分かんないし」
内藤は逃げるようにレジから離れ、トイレに駆け込んだ。
静かになった店内で、一人になった虎丸。
その口が小さく動く。
「まあ、その女性ボケてるんですけど」
虎丸は笑ってひとりごちた。
虎丸はその日、バイトが終わるといつもの帰路にはつかなかった。
ばあさんと電車に乗ったのだ。こいつが電車に乗るところなんて初めて見た。これまでの困窮した生活から察するに、遠出はもちろん、数百円の交通費さえ節約していたのだから。
俺もこの世界に来てから初めて電車に乗った。
人の少ない車内で、俺は二人と通路を挟んで向かい合うように座った。
ばあさんは、子供のようにはしゃいで流れる外の景色を見ている。外がもう薄暗いのが残念だが、虎丸もそれを見て嬉しそうな顔をした。
もしも、今虎丸と喋れるならなんと言おうか。
なんでもっと人に頼らないんだと怒る?
なんで俺と友達になりたかったのかと聞く?
違う。
お前のことを勘違いしていてごめん?
今の俺には分からない。分からないことばかりだ。
いや、俺が虎丸にかけていい言葉などそもそもないのかもしれない。
だから、俺はそんな二人をただ、ずっと眺めていた。
電車に揺られ、駅を出ると中華街があった。豪華で瀟洒な入り口の看板。
しかし、虎丸はそちらには見向きもせずに別の方向へ歩き出した。
山下公園だ。
俺も何度もここは訪れた。横浜の恋愛スポットといえばここが一番。当時俺の書いている小説の題材にはピッタリだった。
虎丸はばあさんをおぶらずに、手を繋いで歩いた。
数あるベンチは相変わらずカップルで埋まっている。
昔はこれを見て、死ねと思ったもんだった。懐かしい。今はどうだろうか。改めていちゃついているカップルを見る。今は――死ね、とやっぱり思ってる。人間ってそう簡単に変わらないもんだ。
潮の香りがする。
虎丸たちは、「氷川丸」の前の小さな欄干の前に並んで立って、夜の海を眺めた。
夜の海は静かで穏やかだけれど、怖い。全てを飲み込んでしまいそうな怖さがある。
ザァー……ザァー……
「海はいいよね。広いし深い」
虎丸が小学生みたいな感想を言った。
「うん」といつもより落ち着いているばあさんが返事をする。
「ここは、天国だぁ」
ばあさんが言った。
少し考えてから、
「そうだね。もしかしたら、海は天国に一番近い場所なのかも」
虎丸が言った。
「ばあちゃんみたいな人がさ、地獄に落ちるわけないよ。僕はともかくさ。あーあ、僕は天国に行けるのかなあ」
続けざまにそう言った。
二人の言葉は、宵闇に吸い込まれていった。
波は、穏やかだった。
嵐が来て、穏やかな日常に波風を立てた。
あの男が再び虎丸たちの前に現れたのは、俺がこの世界に来てから十五日目のことだった。
少し長くなってしまいました、、、
ですが書きたいことはかけたと思います。