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ちょっとややこしいことになってるかもです、、
見るな、見るな、気持ちわりぃ――
そう思ってはいても、湯気の向こうで自分自身が動くたびに、どうしても目はそっちに向いてしまう。
気持ち悪い。客観視どころじゃない。自分をそのまんま他人として見ているのだ。腹の底がむず痒くなってくる。
俺は、他人から見るとこういう風に見えるのか。俺はこんな顔をしていたのか。
昨日コンビニで見つけた時は、一目見るだけだったから分からなかったが、じっくり見るとどうも言動が気になる。
虎丸たちから注文を受けた時の態度も無愛想。髪を切れ。背筋をもっと伸ばせ。ああ、麺が一本落ちたぞ。うわっ、それを容器に入れやがった。
そうだ。俺はこういう適当な仕事をしていたのだ。今思い出すと、いや、目の前で見ると恥ずかしいったらありゃしない。
自分自身を見ている。
今更だが、俺の身に起きていること全て、誰に言っても信用されないだろうな。
もう一つ、思い出したことがある。
こうして虎丸たちと俺がカウンターを挟んでいる光景を見ているうちに、記憶が蘇ってきたのだ。
そう。俺は虎丸だけじゃなく、このばあさんのことも知っていたのだ。
年寄りが若い子の顔が全部同じに見えるように、こっちだって、年寄りの顔は全部同じに見えるものだ。
だから、こうしてカウンター越しに俺たちが会っていたことをすっかり忘れていた。
そうだよ。俺は今まさに麺を茹でながらこう思っているはずだ。
――またうるさいババアを連れてきたな、コンビニ店員が。
「おいっ。若者! そんなんでどうするっ! もっとシャキッとせんかっ!」
ばあさんが急に、テーブルを叩いて俺を指差して言った。
ほらきた。だんだんと思い出してきたぞ。
虎丸のばあさんは、何度かこうやって俺に絡んできたことがあったんだった。
ばあさんの言葉に客は笑う。嘲笑。それは、俺とばあさんに向けられている。
「もっと言ってやってくださいよ」店長も同じようなニヒルな笑みを浮かべる。
虎丸だけは、ばあさんをなだめ、申し訳なさそうに顔を歪めて俺に何度も頭を下げる。
俺は――決まり悪そうに、情けないツラして、ただ、黙って俯く。
今、お前が考えていることは分かるぞ。なんてったって、俺は俺なんだからな。
きっと、こう思っているはずだ。
みんな、死ねーーと。
友達なんて作んねえ。ここでは金さえもらえりゃいいんだ。
そう思って、この街に住んでいた時二年間働いていたラーメン屋。
ひょんなことから、小説家を目指していることを知られた。
ここで働いている奴らは、小説など人生で国語の授業以外に読んだことのない馬鹿しかいなかったからか、小説家志望の俺を鼻で笑った。
それから俺のバイト先での立ち位置が決まった。アホ店長のせいで、客にまでそのことが知られる羽目にもなった。
従業員にも客にも、面と向かっても裏でも、馬鹿にされ続けてそれでもそれに付き合わず黙々と一人の世界を貫いた。それをネタにするなんて馴れ合いはごめんだった。
こんな低レベルな、ラーメンをぼおっと作ってる奴らに構ってる暇はない。
そうやって頑張ってきたなれの姿が、この透明磁石人間。
あの頃から何も成長していない今の俺と、昔の俺がカウンターを挟んで対面している。シケたツラが目の前にある。
お前は、ずっと一人ぼっちだ。
心の中で、俺に向かって呟く。
お前が今している努力は全部無駄になる。報われないんだよ。お前は、小説家にはなれない。
そして、これから先もたった一人で――いや。
ふいに、由梨のことが頭に浮かんだ。
俺には由梨がいた、と。そして同時に、由梨はこんな男と三年も一緒にいたのか、と。
お前はこの後、唯一の味方ともいえる彼女ができる。初めての、初めての彼女ができるんだ。
でも、楽しいのも最初だけ。お前はその彼女にも捨てられ、そして、自殺をするんだ。
で、結局どうなると思う? 死ぬことすらできないんだよ、お前は。地獄から来たとかいう化物女に脅かされて、透明磁石人間って間抜けな身体になるんだ。
どうだ? 最っっっ高の人生だろ?
自分を見ても自分を大切に思えない。これが、本当の自暴自棄なのかもしれないな。自殺だってするわけだ。
俺が、完成したラーメンを二人の前に出した。親指が、スープに入っていた。
「うわっ。うまそうだな、ばあちゃん」
立ち込める湯気を前にして、虎丸は歓喜の声をあげた。
おいおい。その目の輝きは、キャビアの艶を見た時の反応だぜ。俺もキャビアなんて食ったことないけど。
それにしても、給料日の贅沢が七百円の醤油ラーメン? 高校生ならこんなもんか?
でも、虎丸は少なくとも普通の高校生では……ない。
虎丸は、ラーメンに手をつける前に子供用の小皿を頼んだ。
これも毎回のことだった。ばあさんに使うためだ。店長もそれを分かっているから準備はしている。
そうして、赤ん坊にご飯を与えるようにばあさんの食事を手伝い、虎丸が自分のラーメンを食べる頃には、麺はいつも伸びきっている。
しかし、虎丸はそんな麺も「うまい、うまい」と満面の笑みで食べる。そんな虎丸を見て俺はいつも、馬鹿かこいつ、と思っていたのだ。
俺は俺を見た。
俺はまるで、ゴミを見るような目で麺をすする虎丸を見ている。
こんな顔をしていたのか。俺は。
俺が虎丸をそんな目で見る資格があるか――?
あれ? 今俺なんでこんなこと思ったんだ?
俺は、俺と虎丸どっちの味方なんだよ。
俺は虎丸を見る。
ばあさんが汚したテーブルを拭いたり、ばあさんが他の客に「地獄、地獄」話しかけるのを止めたり、なかなか箸は進まない。すでにラーメンからあがっていたはずの湯気は消えていた。まるで、最初からあがっていなかったかのように。
いやいや。俺がこいつを認めるはずがない。こんなやつ……こいつは俺を……
「小説の調子はどうですか?」
虎丸が俺を見て唐突に言った。それまでばあさんのことしか見ていなかった虎丸が。
俺は、少し目を見開いた後に伏し目がちに口をモゴモゴと動かした。
「……ぼちぼちです」
当時、こうやって虎丸がたまに話しかけてきていたのを思い出した。
(お前には関係ねえだろ)
心の中ではそう思っていたはずだ。
「どんなの書いてるんですか?」
「まあ……純文学とか」
(お前には理解できねえよ)
「すごいなあ。僕は小説はあまり読まないんですけど、太宰治とか芥川龍之介とか、そういうやつですよね」
「まあ」
(知った口聞いてんじゃねえぞ)
ばあさんはいつのまにか、テーブルに突っ伏して寝ている。虎丸はそれを確認するように見ると、また俺に向き直り言った。
「夢を追うのって大変だけど楽しいですよね」
さっきまでよりも声に力がこもっているのをなんとなく感じた。
「……そっすね」
(お前に何が分かる)
虎丸は水を大切そうに一口飲んだ。
「実は、僕にも夢があるんです」
心なしか明るい表情でそう言った。
「……へぇ」
(聞いてねえよ。んなことどうだっていいわ)
「僕、警察官になりたいんです」
「あ、そうなんですか」
(無理だろ、お前みたいなへなちょこじゃ)
と、
俺はそんなことを思っているはずだが、こちらの俺は今のやりとりを聞いて、どこか得心のいったところがあった。
警察官か……そういえば……
「憧れの警察官がいるんです。強くて、優しくて、その人みたいな警察官になりたいんです」
「へぇ……なれるといいっすね」
(小学生かよ)
シブタニのことを言っているのかもしれない。そんな会話を二人がしていた覚えがあるから、おそらくそうだろう。
昔は、こんな風によく話しかけてくる虎丸が嫌いだった。
他の客や店長のようにあからさまな態度ではなかった。むしろ小説家志望の俺を尊敬している眼差しで見るのはこいつだけだった。だが、当時はそれがより見下されている気がして仕方がなかったのだ。
「警察官ねぇ……」
俺が独り言を呟いたのと同時に虎丸が立ち上がった。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
ばあちゃん、いくよと、ばあさんを起こすと酔っ払いを扱うようにおぶって、
「小説出たら教えてくださいね。僕絶対買いますから」
俺に言った。
俺は無表情で顎だけで返事をする。
そうして、虎丸は店を出た。
今頃、従業員や客たちは、ヒソヒソと「あのばあさん、汚ねえな」「迷惑なんだよな」と話していることを俺は知っている。
だがそんなことは、たとえ聞こえていないとしても虎丸の前では口が裂けても言えない自分がいた。
帰路についている中で、改めてこの状況について考えた。
芥川龍之介は、ドッペルゲンガーを見て死んだなんて都市伝説があるが、まさか俺が、死のうとして過去の自分と出会うことになるなんて。
そんなことを考えていると、閃いたことがあった。
現在の、つまり今から約五年後の虎丸やばあさんはどこで何をしているのだろう。
俺の前をゆっくりと歩いていく虎丸を見る。その背中には小さくて丸まったばあさんの背中が重なっている。
俺が最後にこの二人と会ったのはいつだったか。
……。
いくら考えても思い出せなかった。
しかし、このひらめきがなぜか、不吉な塊として俺の心の中に居座るのだった。
俺が、何かが起きる予感を感じています、、