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果たして……
夜が明けても俺の身体はそのままだった。
全てが昨日までと同じ。違うのは、雪が降っていないことくらいか。
まあ、俺の期待通りに事が進むことはないのは、薄々気づいていたが。
「はぁ……」
こんな身体でもため息はでるのだから不思議だ。
何かを焼いている音がする。それから匂いも。腹は減らないのに匂いを感じるのもどうかと思うが。
その元をたどってそちらを見ると、キッチンに虎丸が立っていた。
カレンダーを見る。今日は休日だ。普通の高校生なら昼過ぎまで寝ているはずだが。
虎丸は普通の高校生ではないということか。
俺は虎丸の近くまで行ってその手元をのぞいた。虎丸は、色褪せたフライパンの上で、スクランブルエッグを器用に踊らせていた。
「ふーん、うまいもんだな」
思わずぽろっとこぼしてしまった。慌てて口をつぐむ。
なんだ、これくらい。俺だってできる。小説を書くのに夢中で他のことまで手が回らなかっただけだ。
という言い訳も効かないほど、その後虎丸は、野菜炒めに味噌汁にと主婦顔負けの朝食を作った。
「ふーん。でも、食べれないんじゃいくらうまくても意味ないね」
虎丸はその後、ばあさんを起こすと、小さな丸テーブルで向かい合って朝飯を食った。
しかし、先ほど作ったものは全てばあさんの前にある。確かに二人分にしては少ないとは思っていたが、まさか虎丸が自分の皿すら用意しないとは。
じゃあ、虎丸が何を食べたのかというと、
コンビニの廃棄おにぎりを一つ口に運んだだけだった。
「なんだよ、お前も冷凍食品ばっか食ってた俺と似たようなもんじゃねえか」
何か色々なものを認めてしまう気がして、俺はただそう呟やくと窓の外に目をやった。
「なんだ、これは。地獄の釜で茹でたのか」
ばあさんは終始喋りながら食べるもんだから、せっかく作った料理をボロボロとこぼす。
虎丸は嫌な顔一つせずに、スプーンでわざわざ口元まで運んでやる。
昨日から思っていたが、子供みたいじゃなくて子供そのままだな。
俺はそれをただじっと見てるのも耐えられなくて、外に出ようと玄関へ向かった。
俺はこの身体をだいぶ使いこなせるようになっている。
昨夜も、あまりに暇すぎて虎丸から離れることのできる範囲内で、このアパートの周りをウロウロしたのだ。
少しだけ心に余裕ができたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。分からない。だって、透明磁石人間なんてこれまでなったことないんだから。そのための感情や対応だって分からないに決まっている。
いろんな部屋もすり抜けた。
このアパートに住んでいるのは皆浮浪者のような人間ばかりで、若者は虎丸の他にはいなかった。だからそのせいで、隣の部屋をすり抜けた昨夜、中年男の自慰行為を目撃してしまう羽目になったのだった。
そういえば、この身体になってからそういう欲求も芽生えないな。
昨日のことを思い出しながら玄関をすり抜けようとして、俺はあることに気づいた。
鍵のつまみがないのだ。いわゆるサムターンと呼ばれる部分。
そうか。俺は虎丸の方を見た。
ばあさんに向けている笑顔。しかし、その笑顔に力がないことは、目の下のクマで一目瞭然だ。
虎丸は、昨日一睡もしていなかったように思う。あの隣人の中年男に怒られながらも一晩中何かをやっていたのだ。
昨日のシブタニとかいう警察と虎丸の会話を思い出す。
――大抵のことは一人で出来ますよ。
虎丸は寝ないで、ばあさんが内側から鍵を開けないようにドアを一人で改良していたのだ。
サムターンを取り外し可能にすれば、ばあさんが鍵を開けて脱走する心配もない。自分がアパートを出る時だけつけて、それ以外はサムターンを虎丸が管理する。なるほど。
しかし、この修理を一人でやったのか。すご……
まっ、俺には関係ないが。
俺は虎丸の努力をあざ笑うかのようにドアをすり抜けた。
昨日の雪の影響か、空気は冷え、冷たい風が朝から吹いている。まだまだこれから降ることを俺は気象予報士よりも知っている。
廊下の手すりに、ない肘をかけ遠くを見つめた。
ついさっきまで死のうとしている俺がのほほんと景色なんか眺めている。こんな身体で。
一体どうなっちゃうんだろう、俺。一生このままなのかな。死ねないでずっとこの世に残るなんて耐えれる自信がない。
ふと、三階から地面を見下ろして思ったことがあった。
「飛び降りてみるか……」
今はどうなのだろう? この身体は死ぬのだろうか。仮に死なないとして、地面をすり抜けるということはないだろうから、スレスレで止まるのだろうか。
ごちゃごちゃと頭の中で考えを巡らせているうち、自然と片足が手すりにかかる感覚があった。
試しだ。死ねるのなら別にそれでいい。元々死のうとしていたのだから覚悟は決まっている。
生唾を飲み込む感覚があった。
それを合図に、俺のない身体は宙を舞った。
地球上の全重力を感じている――暇もないくらいそれはあっという間だった。目の前に気がつけば地面があった。俺はギュッと思いっきり目を閉じた。
……結果は予想通り。
地面にぶつかる直前、見えないクッションでもあるみたいに、ふわりと大地が俺の体を包んで落下速度を減速させた。
俺は地べたに座り込み、後ろに手を付く形になっている。
「ふぅ……」
何の意味を含んでいるのか、あるいは、何も含んでいないのか、よく分からない吐息が漏れる。
身体を確認するが何ともない。
「ダメか……」
俺は死なない身体になってしまったのかもしれない。今の俺にとってそれは、どんな理不尽なことよりも辛いことだった。
「なんだってんだよ……」
立ち上がる。
その瞬間、疲れを感じない身体のはずなのに、肩が重くなった気がした。
不思議な気持ちだった。
俺は今、本当だったら死んだんだ。
死ぬというのはこういうことか……。
ガチャリ、と鍵を回す音がしてアパートを見上げると、虎丸が着替えて出てきた。手には傘を持っている。
「じゃあ、ばあちゃん行ってくるね」
そう部屋の中に向けて声を出す。
そして、虎丸は早足で階段を降りていく。俺も引っ張られる。
ばあさん、あんた変わってくれよ。この身体になればこんなドアするりだぜ。いつでも徘徊し放題だ。
抵抗する気力も起きないまま、虎丸についていく。
休日までも俺はこいつと一緒なのか。
こうして、俺と虎丸の奇妙な共同生活が始まったのだった。
まず、虎丸がその日向かったのは交番だった。
昨日の交番には、昨日と同じ警官がいた。シブタニだ。
「昨日は傘ありがとうございました」虎丸は言った。
どうりで雨でも雪でもないのに傘を持っていた訳だ。律儀なやつ。
「なんだ、そのためにわざわざ来てくれたの。いいのに。あげるよ、その傘は」
「いえいえ、ありがとうございました」
虎丸はシブタニの手に傘を握らせて、「それよりも」話を変えた。
「今度、警察の仕事のこと色々教えてくださいね」
「うん。もちろん。いやぁ、しかし君みたいな子が私の後を継いでくれたら安心だけどなぁ」
虎丸はニッと笑って、
「はい。それじゃあ、これからバイトなので。また」交番を後にした。
そうして到着したのは、あのコンビニ。
裏で着替えて、虎丸はいそいそとレジに立つ。そして、毎日そうしているであろう自分の仕事をし始めた。
その間、俺はというと……
駐車場で喧嘩しているカップルの間に入って女のブサイクな怒り顔をゼロ距離で拝んだり、
周囲をチラチラと気にしながらエロ雑誌を見る小学生の顔を横から覗き込んだり、
喫煙スペースで明らかにヤバイ組織の人たちの会話を立ち聞きしたり、
していた……。なんてったって、試しに飛び降りをするくらいこの身体は暇なのだ。
午後になると、従業員が一人加わった。それは、昨日虎丸に猫なで声を出していた内藤とかいう女子大生だった。
内藤は、客足が途絶えるとすぐに虎丸に話しかけた。
「昨日さ、なんか虎丸君がいなくなった瞬間に妙に人来て、大変だったんだからねっ」
気持ち悪い女だ。よくもまあ、そんなアニメみたいな喋り方ができる。
「なんか、僕いない方が儲かるんですかね」虎丸が笑って言う。
「アハハ、知らないよぉ。でもさっ、ただでさえこの店人手不足なのに、虎丸君までいなくなったらヤバイよぉ〜。私だって、昨日今日連続だよ。今日は午後からだけどさ」
「迷惑かけました。今度代わりに美和さんのシフト僕が入りますよ」
内藤は笑って、
「いや、意味ないでしょ。だって虎丸君毎日入ってるんだもん。働きすぎだよ。そんなにお金欲しいの?」
軽い口調でヘラヘラ言った。
その時、ピクッ、と虎丸の眉が動いた気がした。
「そりゃあ、お金は誰だって欲しいですよ」
おどけた顔で虎丸は言う。
……さっきのは俺の気のせいか? いや……。
「てかさ、昨日どうしたの急に。何かあったの? 」
内藤の口はよく回る。
「あー」虎丸が何か考えるそぶりを見せた。そして言った。
「全然大したことじゃないんで」
大したことだと思うが。
どうやら、虎丸はばあさんのことを誰にも言っていないらしい。そういえばこいつは、シブタニにも親のことは秘密にしていた。
そんなことは露とも知らない内藤は、
「えー、じゃあ私は大したことじゃないことで、あんな大変な思いしたのぉ?」
「あ、確かに」
「えー、ひどぉーい」
「ごめんなさいって」
「じゃあ代わりに今度デートしてよ」
内藤の言葉に、虎丸は表情をほとんど変えずに、
「まあ、ここの店の人手不足が解消されたらいいですよ」と言った。
「あ、なにそれ。なんかずるーい。だって、そんなんずっと先じゃん」
ちっ。イラつく。この二人の会話を聞いていると非常に腹立たしい。
だが、昨日のイラつきとはまた違う。昨日は虎丸に腹が立っていたが、今日はなんだかこの女に腹が立つのだ。
この気持ちを上手く言葉では表すことができないが、とりあえず内藤に言いたいことは一つ。
おい、女。知ってるか? こいつお前と話す時、多分無理して笑ってんだぜ?
バイトが終わったのは午後五時だった。虎丸は帰る途中、銀行に寄った。
暗証番号丸わかり。まあ、分かってもどうということもないが。
ATMを操作する手元をずっと見ていると、今日が給料日だということが分かった。心なしか虎丸の顔も明るい気がする。
その後、一度家に帰った虎丸は、ばあさんを連れて再び同じ道を歩いた。
道中、手を繋いでいるばあさんに虎丸が言った。
「ばあちゃん、今日は月に一回のご馳走だよ」
「どうっすか、どうっすか? 食べ放題っすよー」
あの居酒屋の客引きの声。
街路樹。やけに明るい街灯。そして、立ち並ぶラーメン屋から香ってくる、食欲を誘う匂い。
虎丸たちが、またバイト先のコンビニに来たと思ったら、今度は横断歩道を渡って向かいの通りを歩いていく。
見覚えがある。この光景。
それもそのはず。ここは、五年も前に、俺が実際に通っていた道だ。
虎丸たちがどこに向かっているのか、なんとなく分かっていた。
まだ。もう少し。そう、ここを多分左に曲がる。やっぱり。淡い光を放つ銭湯の看板を超えてすぐ。ここで、足を止める。
虎丸たちは足を止めた。
やっぱり。この店はーー
シンプルな佇まいの、豚骨が人気のラーメン屋。
カラカラと歯切れの良い音をたて、二人は店の中へ入っていく。
率直に言うと入りたくはなかった。
多分、外で待っていることはできる。俺の自由行動の範囲内だ。
だが。俺のない足は自然と動いていた。虎丸に引き寄せられたわけではない。
強いて言うなら、別の誰かに――。
「らっしゃいやせー」
「らっしゃいやせー」
「……いらっしゃいませ」
店内に入ると、店員の快活な声が聞こえてくる。
声の方、カウンターの向こうを俺は見た。
いた。本当に、やっぱり、いた。
「おい、声が小せえって言ってんだろ。ちっ、たくよぉ、これだから文系は嫌だね」
客にまで聞こえる声で喋るこいつは、店長だ。
「すいませんね。小説家志望なんてこんなもんですわ」
虎丸をはじめとした店内にいる客は、店長の言葉に苦笑いを浮かべる。
チッ。あのくそ店長。余計なこと言いやがって。
カウンターの向こうでは、笑い者にされた店員がつまんなそうな顔をして麺を茹でている。
公衆の面前で怒られ、客にも気を使わせた、情けなくて恥ずかしいその店員がなにげなく顔を上げた。
それは紛れもなく、二十七歳の俺だった。
少し長くなってしまいました、、、
ですが、更新できてよかったです。