幸せからの不安と恐怖
「椿、着いたよ」
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。先輩の声で聞く自分の名前はすごく不思議な感じがする。人に呼ばれ慣れてるはずなのに先輩に呼ばれるとくすぐったくなるようなこそばゆい感じ……甘い、甘過ぎる。先輩に好かれてるってわかったからかな?すごく大切にされてる感じがする。
「椿?起きてる?」
目を瞑ったままそう思ってたら自然と口角が上がってしまって先輩に起きていると気付かれてしまった。
「すみません、先輩に名前で呼んでもらうのが嬉しくて」
「カミ「その呼び方は止めてくださいね」……残念」
先輩はそう言うと苦笑いしながら車のエンジンを切った。
「10分前に着いたよ。間に合って良かった」
「それいつまで続くんですか?」
「俺が一緒にいられるなら良いかな」
「あ、それなら上がっていきませんか?泊まっていっちゃえばいいですよ」
我ながら良いアイディアだと思ったけど先輩は難しい顔で私を見るだけだった。
「遠慮しておくよ」
「どうしてですか?明日も仕事だからですか?」
「うん、それに昴と若菜に電話しないといけないし」
「そっか、そうですよね。2人に話さないと……。先輩、若菜は私がきっかけでネイリストになろうって思ったって教えてくれたんです。でも私は若菜が思ってるような純粋な気持ちじゃなかったんです。若菜みたいになろうってそんな気持ちで……。若菜にとって大切なきっかけがこんなで、怒ったりしないでしょうか……」
若菜は私のことをどう思うかな、本当のことを知ったらなんて言うだろう。先輩のおかげで少し楽になっていたけどやっぱりうじうじと考えてしまって、先輩は静かに聞いてくれた。
「正直俺はあの破天荒な若菜の考えが読めない。だけどさっきも言った通り色々文句言ったら満足すると思う。怒るとは思うけどそれは椿が不安に思っている理由ではないよ。それはわかる」
「……わかりました。でも、できるだけ傷付かないようにお願いします」
「うん、きっと大丈夫」
若菜のことは先輩に任せるしかない、結城くんに頼むしかない。そう思うとまた自分の今のことに頭が切り替わる。もう少しだけ、少しでも長く先輩と一緒にいたい。泊まっていけないなら……そうだ。
「先輩……それじゃあ玄関までは駄目ですか?」
「……わかった、じゃあ行こうか」
そう言って先輩はシートベルトをはずすと外へ出た。……なんだか先輩早く帰りたいみたい。どうして?もっと一緒にいたいって思ってるのは私だけ?今度はそんな不安が私を襲う。と、そこで先輩が待ってると思って慌てて外に出た。
私が先輩の隣に行くと歩き出す先輩は不自然な距離をとっていた。また不安が大きくなる。どうして?先輩と気持ちが通じ合ったはずなのに。私も先輩もなにも喋らずごくわずかな距離を歩きすぐに私の家の前に着いてしまった。先輩の私を呼ぶ声はすごく愛がこもってるのに、先輩の眼差しは私のことが愛しいと語りかけてくれてるのに、この距離はなに?
「椿、約束だよ。俺がいない時は21時以降に外に出ないこと」
「はい。それより先輩……」
私は左腕をゆっくり動かして先輩の右手に触れようとした。だけどその手には触れられず先輩は階段の方に体を向けてしまった。
「じゃあ行くね。10月11日戻ったら連絡するね」
そう。ご飯を食べてる時に先輩に出張中本当に連絡取らないのかって確認された。でも私は先輩に負担をかけたくなくて、もう気持ちが繋がってるから、大丈夫だと答えた。なのにたった1時間と少し前の自分の言葉を撤回したい気分だ。だけど結局先輩に負担をかけたくない思いが勝ってしまった。私は笑って短く返事をする。
「はい」
「……椿、好きだよ」
「私もです。私も好きです」
好き……先輩のその言葉は心からの気持ちなのになんでこんなに不安なんだろう。
先輩の後ろ姿を見送る私は幸せなはずなのに不安も感じていた。
自分の部屋に入ってもモヤモヤと考えていた。嬉しかった、やっと気持ちが繋がった、これ以上ないくらい幸せ。なのにどうしてこんなに不安なんだろう……。
30分くらい経った頃着替えもしてなかったことに気が付いた。……そういえば先輩今日の服のことなにも言ってなかったな、良くなかったのかな、そう思いながら着替えてから洗面所に向かう。
「あ、そういえばシャンプー切らしてたんだった……」
なんとなくそう思うと他にも足りなかった日用品があることを思い出してきた。……ちょっとそこまで行くだけだし大丈夫だよね。肩掛けの小さい鞄の中にお財布と携帯だけ入れた。玄関に向かおうとするとふとついさっきはずしたあのネックレスが目に入った。
「30分過ぎたくらいだし、大丈夫だよね」
少し胸が痛んだけど本当にすぐそばだし。駅前のコンビニまで5分しかかからない。買って帰ってくるまで15分だからすぐ行ってすぐ帰ってくれば良いんだ。
そして私は駅前のコンビニでシャンプーと日用品を買うとすぐにコンビニを出た。
ほら、なにか起きるはずないんだ。先輩も間宮さんも青木さんもみんな心配しすぎ。そう思って少し高揚感を感じながら歩いていると前から道路工事をしてるようなダボダボな服を着た男性が歩いてきた。私は特に何も気にせず急いで家に向かっていた。
「坂下さん」
後ろから自分の名前を呼ばれて振り返ってみるとそこにはさっき通りすぎた男性しかいない。……誰だろう。私の名前を知ってるってことは知り合いだよね。長めの髪を一つに結び、顔や服が所々土で汚れている、その人をじっと見てみるけど思い当たる人がいない。どう返事しようと迷っているとその男性は再び口を開いた。
「久しぶりだね、坂下さん」
そう言って笑うその男性の表情に私はある人を思い出した。
「荒木さんですか!?」
色白だった肌は黒く短髪だった髪は長く結べるほど。あの頃の面影はあまりなかったけど思い出したあの頃の荒木さんの笑顔はそのままだった。私は懐かしい人に出会った物珍しさで自然と嬉しくなった。
「久しぶりですね!!あ、そういえば出張でこっちに来てるって聞きましたよ!!」
「うん、そうなんだよ。坂下さんはこの近くに住んでるんだね」
「はい。近くですよ。5分で着きますし」
「そう。目の前に小さな公園みたいな所があって坂下さんの好みっぽいよね」
「そうなんですよ、物件探してる時良いなーって思って」
……あれ?どうして知ってるの?道路を挟んだ向かい側に公園とは言えないかも知れないけど自動販売機とベンチくらいしかない場所がある。ベンチに座りながらぼんやり自然に囲まれている空間にいるだけでも楽しいことはあまり人に話してないことだった。
「そうだ。坂下さん携帯変えた?連絡先教えて?」
「え?あ、はい」
教えて良いの?私はなぜかそんな疑問を持った。知らない人じゃない、だけどこの気持ちはなんだろう。私は携帯を鞄から取り出した状態で考えていた。その時手に持っていた携帯がパッと消えた。
「僕の連絡先も登録しておくね」
荒木さんはそう言って携帯を操作すると私の手に携帯を戻す。私は混乱していた。元々知っていたんだから連絡先を教えて問題ないはず。知り合いなんだし。でも勝手に人の携帯を触って登録する?これって普通のこと?
そう疑問を持ちながら私は恐怖を感じていた。知ってる人なのに知らない人みたいだ。
「ところで坂下さん」
「は、はい」
私を見る目は細く冷たい。
「あの男は誰?彼氏?」
「……」
誰のことだろ、先輩のこと?いつ見たの?さっき?どんどん疑問が溢れてくる。
「あの男と付き合ってるの?坂下さんは僕のことが好きだよね?」
「え?」
私が好きなのは先輩。荒木さんのことはなんとも思ってない。昔もちゃんと断ったのに。荒木さんの言ってることがなにもわからない。
「私、荒木さんのことはなんとも思ってません。あの時もそういう風に見れないって言いましたよね」
「でも坂下さんは言ったよ。僕のこと素敵だって、尊敬するって」
「確かに言いました。でもそれだけです」
「だから僕のことが好きなんだよね。あの時は振られたと思ったけどあれは照れてそう言っただけで本当は好きだったんでしょ。待たせてごめんね」
「な……」
なんでそんな考えに……?私は未知の存在に対峙しているような感覚がして開いた口が塞がらなかった。
「だからもう僕がいるからあの男はいらないよね」
なにを言っても通じないようで気が遠くなる。
「それじゃあ別れてこようか」
そう言って再び私の携帯に荒木さんの手が伸びてきて反射的に私は携帯を握りしめた手を胸元にぐっと寄せる。
「わ、私は荒木さんのことが好きではないです。待ってもいません。私が好きなのは先輩だけです」
私はそう言うと逃げるように走ってアパートへ向かった。全力で走って息を切らしながら部屋の明かりをつけてソファーに座り込む。
言い表せないほどの恐怖を感じた。なにも通じない感じがした。それと同時に別のことが頭に浮かぶ。
先輩と私は付き合ってるの?
私は先輩が好きで先輩も私のことが好き。想いは確かに通じ合ったはずなのにさっき考えていた不安が再び私を襲う。そうだ、先輩は私に全然触れなかった。私が気絶していた時に肩を貸してくれていた時だけだ。私が泣いてもハンカチを貸してくれただけで 抱き締めてくれなかった。あの頃付き合ってた時、先輩は触れ合うのが好きみたいでいつも手を繋いで、抱き締めたりキスだってそれ以上だってしてた。なのに今日はそれ以前に距離が開きすぎていた。これはどういうこと?私たちはなんでこんなに遠いの?私たちの関係ってなに?
返しそびれたハンカチとネックレスを握りしめながら私は先輩のことと荒木さんに感じた恐怖で頭がぐちゃぐちゃだった。




