先輩の熱い想いと本当のこと(1)
目を覚ましてぼんやりと見える視線の先にはさっきと変わらず色とりどりの花が咲いていた。
「目、覚めた?」
何度か瞬きをしてから身動ぎをしているとすぐ上から先輩の声が聞こえた。返事をしようとしたけど喉が渇いてるようで上手く喋れなかった。
「飲み物買ってくるよ。大丈夫?」
なにも考えずに頷いて先輩が離れると身体が一瞬傾いたけどなんとか自力で踏ん張った。肩を貸してもらってたのだと気付いた。立ち上がった先輩が心配しているようで私は声を出さずに大丈夫です、と伝えた。そしたら先輩は行ってくるねと少し離れた所にある自動販売機に向かった。
その背中をぼんやりと眺めながら意識を失う前のことを思い出すと同時にあの日を思い出していた。忘れてるとは思ってなかった。いつからか都合が悪くなると無意識に目を逸らしていたと気付いたのは大学に入ってからだった。大人になって振り返ってみるとあの頃の自分がいかに幼かったかに気付いた。ゆっくり大人になったから見えたものだった。
別れた日付き合ってる間の自分が自分じゃないような気がした。でもあの時そうではないと気付いていたはずなのに。おかしいのはもっと前からだって。だけどそれを深く考える前に自分で蓋をしてしまって、なにから目を逸らしているのかさえ忘れてしまった。都合が悪いと目を逸らしてることには大人になってから気付いたけど、自分の中から綺麗さっぱり消えてなくなってしまってたものは初めからなかったものになってしまっていた。そのことに今気付いた。そしてそのきっかけになった場面も。
忘れてることなんてもうないと思ってた。大人になって過去を内省してあとは向き合うだけだと思っていた。だけどそうじゃなかった。私はあの日からおかしくなったんだ。先輩はあの日何を伝えようとしてくれていたんだろう。一度も声を荒げたことがなかった先輩がどうしてあの日……。遠慮なく握りしめられた左腕、あの時と同じように強く握りしめられた左腕をそっと触ってさっきの先輩の言葉を思い出す。
『俺も好きだった。……ずっと、今でも好きだよ』
静かな、落ち着いた声だった。だけど苦しそうで悲しい……悲痛な叫びを聞いたようで、それが私が向き合わないといけなかった一番大事なことだとわかった。あの日私のことを想ってくれる先輩から逃げてしまった。あんなに普段と違う様子になるほど必死に引き止めようとしてくれていたのに。
「水で良かった?」
先輩はペットボトルの水を2本買ってきて1本を私に手渡すともう1本を自分で一気に半分まで飲んで優しく笑って言う。
「帰ろっか」
私は息を飲む。終わっちゃう。このままだとなにもなかったことになってしまう。やっと気付いたのに。やっと気付けたのに。立ち上がろうとする先輩の服の裾を無意識に掴んでいた。先輩が振り向いて苦しそうに笑う。
「腕、ごめん。急ぎすぎてごめん。今度はちゃんと合わせようと思ったのにできなくてごめん。また今度話そう、早すぎたね」
早すぎてない。全然急ぎすぎてない。遅すぎるよ、もう7年も経っちゃったよ。
私は首を横に何度も振って伝えようとしたけど言葉が出ないことに気付いた。私が話したいことを察してくれた先輩は私の手元のペットボトルに視線を向けてからベンチに座り直してくれた。自分の服の裾からそっと私の手を離して人が1人座れそうなくらいの距離を空けて。
私は水を一気に飲んだ。なにを言えば良いのかどこから謝れば良いのか、もうなにもわからないまま、だけどこのまま距離が離れていくのは嫌だと、それしか考えられなかった。そして一気に飲み干してから言う。
「もう無理に笑わないでください」
優しく微笑んでいた先輩は私の言葉に目を見開いた。それも一瞬でまた笑った。
「無理してないよ」
「してます」
「してないんだけどな」
「……してます」
どうして認めてくれないの?辛そうなのに無理して笑顔を作っているのがわかるのに。先輩にとって笑顔が普通なんかじゃない。私に合わせて、弱い私に合わせていつも優しく笑ってくれていただけ。
認めてくれないとどうしようもできない、先輩を楽にすることができない、と思って私は声が震える。
「……してるんです」
「わかったよ」
先輩は苦笑いして続けて言った。
「無理に笑わない。話も続けよう。これで良いね?」
親に宥められる小さな子供になった気がしたけどそれでも良かった。話を聞いてくれる体勢になった先輩に私は伝える。
「ずっと忘れてたんです。忘れてることにも今気付いたんです。ずっと知りたくないこと、自分に都合が悪くなることから目を逸らして逃げていたんです。でもそれがいつからかとかそういうこと考えようとも思ってなかったんです、そのきっかけが記憶からなくなっていて」
支離滅裂な私の言葉を先輩は真剣な顔で聞いてくれていた。私は左腕をそっと擦って続ける。
「でも思い出したんです。やっと気付けたんです。これでようやく本当に向き合える気がするんです。逃げてしまってすみません、話を聞けなくてすみません、傷付けてしまってすみません、忘れてしまっていてすみません」
先輩は途中で口を開こうとしていたけど最後まで私の言葉を聞いていたくれた。
「坂下さんはなにも悪くない。俺が今も昔も急ぎすぎて坂下さんの気持ちを考えてなかったから。だから坂下さんが自分で自分の心を守っていたんだよ。俺の自業自得だから坂下さんは気にすることないよ」
「駄目なんです。ちゃんと向き合いたいんです。先輩はいつから私のことを……?」
「……初めて会った時、正確には初めて見た時、だね」
初めて会った時、見た時……。先輩の言葉を頭の中で繰り返し、あの夏の日を思い出す。先輩はゆっくり話しはじめた。
「あの日俺は体育館の外にある階段でボールを弄りながら休憩してた。中は暑くてね、このままもうしばらくサボってようかなーって思ってた。そんな時に一生懸命大きな段ボールを運びながらよろよろ歩いている坂下さんを見つけてね。黒髪で雪のように真っ白な肌で頬を真っ赤に染めて必死に歩いてる姿はまさに童話のお姫様のように可愛らしくて。思わず見とれて手に持っていたボールが落ちたのにも気付かなかった。気付いた時には椿のそばに転がっていてチャンスだと思ってすぐに声をかけに行った。それで話してみると声も可愛いくて。高くもなく低くもなくちょうどいい高さの艶のある声。冷静で落ち着いた性格なのかと思えば俺が手伝うと慌てて声を荒げてきたり跳び跳ねて追いかけてきたりして。俺の手が触れただけで全身真っ赤に染め上げて動揺する様子を見て純粋でウブな子だなって思ったよ」
いつものようにゆっくり話しはじめた先輩は徐々に興奮していって早口になっていく。話の中で私のことを名前で呼ばれてドキッとした。先輩は気付いていないようだ。私は口をぽかんと開けたまま呆然とその止まらない話を聞いていた。
「それでね、その日部活が終わってから椿の名前を聞いてなかったことに気付いて焦ったよ。多分1年生っていうことしかわからなくてね。段ボールの中身くらい見ておけば部活もわかったんだろうけど。とにかく家に帰ってすぐに昴に電話したんだ」
「結城くんにですか?どうして?」
「肌が雪のように真っ白で黒髪で頬が真っ赤で童話のお姫様みたいな女の子を知ってるかって聞いたんだ。そしたら酷いんだよ。普通に童話のお姫様の名前を言ってきてお姫様お姫様言うのは若菜だけにしてくれ、俺が言っても可愛くないからって言うんだ。そうじゃなくて1年生の女の子にいないかって聞いても肌が白い黒髪の女の子がどれだけいると思ってるんだ、茶髪は珍しいんだよって冷たくあしらわれてね。昴は役に立たないと思った俺は自分で探すことにしたんだ。でもどうしても見つけられなくて授業中にサボってクラス1つずつ見に行こうかって考えていた時ようやく見つけたんだよ。若菜と渡り廊下を歩いてる椿を!!その夜昴の部屋に転がり込んで知ってるじゃないか、って怒鳴ったら坂下さんのことなのって声を裏返して言うからとりあえず椿のことで知ってることを全部吐き出させて一安心して帰った。のは良いけど見かけたのはその時だけで全然会えなくて、昴に練習試合に誘うように命……お願いしたりしてね。まったく、なんであんなに会えなかったんだろう」
「な、なんででしょうね」
私は戸惑っていた。こんな先輩は初めて見る。圧倒されながら私は目を白黒させていた。




