左腕の痛みから甦る忘れられた記憶
お盆が明けて、土曜日になった。金曜日は仕事だったけど他は休みで良かった。先輩のことで頭がいっぱいで集中するのに苦労したから。
服装には迷った結果、若菜に結局先輩が好きなポイントはなんだったのか聞いた。いつもオフショルダーを着るわけにはいかないしそもそもそんな、勇気がない。私が送ったメッセージに若菜からは1言だけ『デコルテとうなじ』とだけ返事が来た。
うなじが好きな男性っていうのはよく聞くけどデコルテか……と不思議に思ったけど調べてみるとデコルテが好きな人は結構いるんだと知ってへーと思った。デコルテが出るような服を探してみると黒のスクエアネックのカットソーがあったからそれとギンガムチェックのパンツを着ることにした。ヘアスタイルは若菜みたいに凝ったものはできないからポニーテールにした。
最後に先輩からもらったネックレスをつけて鏡の前で何度もおかしなところがないか確認してから約束の14時少し前にアパートを出た。
出張まで時間がないからいつも以上に残ると思う、と聞いた私は14時に待ち合わせしましょうと提案した。先輩はもう少し早くても大丈夫って言ってくれたけど体調を崩したら大変だと思った私はそのままでと応えた。
駐車場に着くとすでに先輩が車の前で待っていた。私は急いで駆け寄ろうとしたけど足がピタッと止まってしまう。携帯を見ていた先輩が私に気付いて顔をあげて手を振るけど私はそれに応じる余裕がない。
Vネックの白いTシャツにジーンズというシンプルな服装を着こなし、風になびくダークブラウンの髪はかきあげずにふんわりとしていて眼鏡がない素顔の先輩は優しく笑っていた。不思議に思う。これまでも仕事帰りに会う時は髪の毛をそのままにしてたし眼鏡もかけていなかったのにこんなに動揺するなんて。
「坂下さん、こんにちは」
声をかけられてハッと気付いた私は先輩の元に駆け寄った。
「こんにちは。お待たせしてしまってすみません」
「さっき来たところだから大丈夫だよ」
「でも……」
「駐車場なら急いで出なくても大丈夫だけど行こうか。どうぞ」
「あ、えっと、はい」
先輩に急かされて助手席に乗り込む。先輩も運転席に座ってゆっくりと車が動き出す。そんな中私の頭の中では昔のことが甦っていた。
先輩を待たせるわけにはいかないと思って10分前くらいに待ち合わせに行ってもいつも先に待っている先輩のこと。
バスケばっかりでおしゃれな私服持ってないんだって笑ってシンプルなTシャツにジーンズを着ているけど毎回雰囲気を変えてきてドキドキさせられていたこと。
毎日一緒に登下校したこと、渡り廊下で話したこと、中庭のベンチで話したこと、初めて会った時のこと……思い出して隣にいる先輩を見ると優しく微笑んでいて運転で眼鏡をかけなおしたけどその姿は記憶の中の先輩と重なって胸が高鳴った。高校時代に戻ったみたいだ。
そう思うと胸の鼓動がどんどん速まってきた。そして同時に先週最後に話した時のことを思い出す。そうだ、大事な話……。大事な話ってなんだろう、いつ話してくれるんだろう。
私が緊張していると先輩は思い出したように、あ、と声をあげた。今話してくれるの?
「この前若菜が音楽流してたでしょ。簡単に設定出来るから坂下さんもなにか流して良いよ」
「……へ?」
予想外の話題に反応が遅れてしまった。そんな私に先輩はここを押してここをこうして、と説明してくれる。説明はわかったがわからないことがあった。
「なんで今さら……?」
「え?あ、そうだよね。ごめんね、気が利きかなくて。余裕なかったから若菜に言われてから気付いたよ。なんか音楽かけた方が良いって」
「い、いえ……どっちでも良いんですけど……え?余裕なかったって……?」
先輩はいつも悠然としていて人をからかうくらい自然体だったけど……。
「余裕なかったよ。いや、ないよ、今も」
「え、今もですか?」
先輩の顔をじっと見るけどいつも通りで普通だと思う。
「いや、だからそんなに見ないでほしいんだけど……」
「へ?あ、ごめんなさいっ!!」
不躾にじろじろ見てしまってすぐに謝ったけど先輩の顔を見ると少し赤い気がして結局またじっと見てしまう。
「……先輩具合悪いんですか?どうしよう、出張前に体調崩さないようにって思ったのに……中断しますか?」
「いや、体調悪いわけじゃないから大丈夫」
「そうですか?あ、音楽ですね。でも私音楽プレーヤーで聴いていて携帯に入ってないんです。だから先輩ので良いですよ」
「いや、俺もそうで今持ってきてないからそしたらまた今度にしようか」
「そうですね」
具合が悪いわけではなさそうで安心したけど先輩はいつもと様子が違う。不思議だなと思っているといつの間にか私は平常心になっていた。これまでのドライブと同じように車内は静かだった。でも心地よかった。
「音楽がなくても十分楽しいですよ。あ、でも音楽があった方がテンションあがりますよね、先輩はどんな音楽を聴きますか?」
「……俺は洋楽とか、クラシックも聴くかな。坂下さんは?」
「好きなアーティストがいるってわけじゃなくてドラマの主題歌になった曲で良いなって思ったのとかですかね。洋楽も大学の時の友達が好きで聴いてたので好きです」
そうやって自然に話してるだけで幸せになれるから音楽がなくてもあってもどちらでも良いなと思う。
それから大学時代洋楽が好きな千恵に誘われてみんなで海外のライブに行った時のことやその時海外絶景ツアーと称していろんな場所に行った話をしたり、この前聞き逃してしまった先輩と若菜のおばあちゃんとおじいちゃんの話を聞いたりしているとあっという間に公園へと着いた。
「今日はどっちから行きます?この前は行けなかった噴水に行きますか?」
「いや、こっち」
「え、わかりました」
車を降りて私が尋ねると眼鏡をはずした先輩はそう短く答えてさっさと歩いていってしまった。不思議に思いながら私も後を追う。だけど先輩の歩くスピードに私のスピードが追い付かなくて全然距離が縮まらない。こんなことは高校時代を含めて初めてのことだ。それだけ先輩が私のペースに合わせてくれていたんだと思うと申し訳なくなるけど同時に嬉しくもあった。先輩が合わせてくれなかったら今みたいに全然距離が縮まらなかったと思うから。
そして花畑にたどり着いた。この前と同じ花も咲いてるけど他の8月に咲く花も見られる。その花畑の月下美人が植えられてる場所の近くまで来た時に先輩が立ち止まって振り返った。そこで私はのんびり歩いてたわけじゃなかったけど駆け足で先輩の元に向かった。
「ご、ごめんね」
「なんで謝るんですか。私が遅かっただけですよ」
先輩のそばにたどりつくと申し訳なさそうに謝ってくれた先輩に私は笑ってそう言った。そして先輩は近くにあったベンチに座ったから私もなにも考えずにすぐそば肩触れるくらいの距離に座った。先輩はなにも話さない。大事な話ってなんだろう、今度こそ今かな、と私はドキドキしてしまう。嬉しい話なら良いけどそうじゃなかったらどうしよう、ソワソワしながら先輩の言葉を待つ。
「俺、今からカッコ悪いことばっかり言うしすると思うんだけど……いや、すでにもうカッコ悪いかな」
「先輩はいつもかっこいいですよ?」
「……かっこよくないよ」
先輩はそう言うけど先輩はいつだってかっこよくて優しくてからかってきたり少し強引なところもあるけど、でも気配りが上手くて1つしか違わないのに大人で、すごくすごく素敵な人だ。
「やっぱり幻想抱いちゃってるんだよね……そう思わせたのは俺か……」
「え、また口に出してました?」
頷く先輩に慌てる私。
「で、でも幻想なんかじゃないです!!」
若菜に言われた時も否定したけどまさか本人が言うなんて。
「ううん、幻想だよ。俺はそんな風に思ってもらえるほどできた人間じゃないから」
「そんなこと……」
悲しそうにそう言う先輩にどうしたら良いのかわからなくなってしまう。
「もし、仮に私が思ってるのが本当の先輩じゃなかったらそれは私が勝手に美化してしまってるだけです」
好きな人は現実以上にかっこよく見えるものだってどこかで聞いたことがある。フィルターがかかってるんだって。
「だから私が勝手に造り上げたものに先輩が合わせてくれる必要はないです。それにどんな先輩でも嫌いになんてなれませんから」
私が幻想を抱いているんだとしても今までの先輩がくれた優しさは全部本物だと思う。私に合わせてくれていたのは事実だと思う。だから今度は私が合わせるんだ。私のために無理をさせてるわけにはいかないから。先輩や若菜が言うように私が見ているのが幻想だったとして本当の先輩がどんな人だったとしても嫌いにはなれない。それくらいどんなことがあっても先輩のことが好きだから。
「本当に嫌いにならない?」
「なりませんよ」
私の顔色を伺うような表情が若菜がなにかをせがんでくる時の表情と似ていて少し可笑しい。若菜じゃないのに、先輩なのに可愛いと思ってしまった。
「なんで嬉しそうなの?」
「な、なんでもないです」
さすがに頬は膨らませないけどいじけるような表情も若菜にそっくりだ。なんで今まで気付かなかったんだろうと思ったけど私が見てなかったか、幻想を抱いてる私の先輩像に先輩が合わせてくれていたんだろう。
私の答えに安心した様子の先輩は深呼吸をして真剣な顔で私を見るから私も見つめ返した。
「じゃあ……この前ここに来た時、月下美人の花言葉を聞いてすっきりしたって言ったよね」
「はい?あ、そうでしたね」
またしても予想外の質問で驚いてしまったけど私は冷静に答えた。
「なんで?」
「な、なんでって……。んー、特に不思議に思ってなかったんですけどあの花を見ると安心できたのはそういうことだったのかなーって」
「"はかない恋"?」
「はい」
「どういうこと?」
「はい?だからそのままの意味ですけど……」
短い先輩の問いかけに意図が感じられなくて戸惑いながら1つ1つ答えていく。
「誰のこと思って言ってるの?」
「え……言いにくいんですけど」
「誰?」
「……先輩のことです」
「どういう意味?俺たちは付き合ってたよね。短い期間だったってこと?」
「別に付き合ってた期間のことじゃ……」
詰め寄ってきそうな勢いでどんどん早口になっていく先輩に動揺して無意識に座る位置を離れようと腰を浮かせると先輩に左腕を掴まれた。思い出すのはあの日のこと。
「ますますわからないよ。好きで付き合ってたんでしょ?」
「確かに私は好きでした。けど先輩は……」
「……俺がなに?俺も好きだった。……ずっと、今でも好きだよ」
「……え?」
頭が真っ暗になった。今日思い出していた記憶全てが黒く塗りつぶされていく。そして掴まれている左腕の痛みからあの日目を逸らした時のことだけが鮮明に浮かび上がってひどい頭痛と吐き気に襲われる。
急に頭を抑え始めた私に先輩の焦ったように呼ぶ声が遠くに聞こえていつの間にか意識が途切れた。




