第7章ー5
話の中で、「自尊自衛」と書いてあるのは、故意にそう書いており、誤字ではありません。
この場合、「自存自衛」と書くよりは、「自尊自衛」と書く方が相応しい気がしました。
張鼓峰事件における実際の武力衝突の経緯だが、大雑把に言って、三段階に分かれる。
第一に、1938年7月末、韓国軍とソ連軍が本格交戦を行う前までである。
同年7月初めから、張鼓峰山頂近辺に、ソ連軍は国境監視哨を設置するために、様々な下準備に取り掛かっていた。
その状況を見て、韓国(世論)は、過剰に反応して、韓国軍の出動を是認し、満州国内の対ソ強硬派も、韓国の対応を見て、蒋介石自身は、半ば不同意ではあったが、張鼓峰事件の解決につき、韓国軍の協力を仰ぐことを主張した。
最終的に、蒋介石も韓国軍の出動に賛成したことから、韓国軍は、張鼓峰山頂近辺のソ連軍監視哨排除のために出動することになった。
更に付け加えるならば、この韓国軍の動きについて、日米両国政府は強く反対していたが、韓国政府が、自国の自尊自衛のために、韓国軍出動は避けられない、と主張したことから、渋々、黙認することになった。
第二に、1938年7月末から同年8月上旬に掛けての段階で、張鼓峰事件解決のために投入された韓国軍が、それこそ航空機から戦車等、投入できるものは全て投入する、というソ連軍の猛攻を受けて、最初に出動した1個師団がほぼ壊滅する、という大敗を喫するまでである。
(第二次世界大戦後の調査により、韓国軍も、それなりに善戦しており、戦車は無く、航空支援もほぼ無い中で、自軍の半分近い損害をソ連軍に与えたことが判明するのだが。
表面上の兵力だけでも、ソ連軍が2倍以上という中で圧倒的な苦戦を強いられた、その時の韓国軍兵士が、どのように思ったのかは、別に語られるべき話だろう。
ただ、この時の激戦を経験した韓国軍将兵の何人かは、この時のトラウマ(精神的衝撃)から、第二次世界大戦勃発前までに苦悩の果てに自殺した、と伝えられるのを聞くと、この時の戦闘が、如何に韓国軍将兵にとって、地獄のようなものだったのかは、想像に余りあるものである。)
第三に、1938年8月中旬以降の段階で、日米両政府の介入もあり、満韓両軍とソ連軍が、事実上のにらみ合いを行った時期である。
この時期、ソ連軍は、国境監視哨を完全に建設することに成功し、それこそ、この国境監視哨を活用した羅津港等に対する重砲による間接砲撃が可能な態勢を整えてしまった。
韓国軍内部の強硬派等は、このような状況に悲憤慷慨し、断固たるソ連軍の強硬排除を主張したが、現実問題として、1個師団消滅とも評価される大損害を、韓国軍が被っていることもあり、日米両国政府の介入に、この後の問題を託するという主張が、満韓両国政府内に強まり、当初から、蒋介石がそれに類する主張を堅持していたことも相まって、ミュンヘン会談による最終的解決が図られるまで、満韓両軍は動くに動けないまま、にらみ合いを続けることになった。
なお、第三の時期に、ソ連軍が結果的に動かなかったのは、21世紀に至るまで残る謎となっている。
少数説は、ソ連軍が動かなかったのは、張鼓峰事件が、偶発的に起きたことによるものであり、当時のソ連に満州、韓国に対する本格侵攻の意図はなかった、という説を採る。
一方の多数説は、日米両国の介入により、血を流さずにソ連は、それなりのものが手に入る目途が立っていたから、ソ連軍は、スターリンの意図により、動かなかった、という説を採る。
実際、結果的には、スターリンの意図する程のものは得られなかったようだが、張鼓峰事件の果実は、ソ連が完全に確保したことから考えると、1938年夏のこの時点の判断としては、スターリン、ソ連は正しい判断をしたともいえる。
だが、あくまでも後知恵からすればだが、ソ連のこの時の判断は誤っていた。
これで、張鼓峰事件に関する場面は終わり、次話からズデーデン危機に舞台は移ります。
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