第7章ー4
実際のところ、張鼓峰事件については、歴史学者の間でも見解が分かれる事件である。
本当に、この時のソ連は、共産中国支援のための本格軍事行動に打って出る準備を整えていたのか。
また、極東ソ連の陸海空三軍は、それに耐えうる状況だったのか。
極東ソ連軍は、本格的軍事行動を行う準備を整えていなかったという、いわゆる否定派は、この当時のソ連の状況から言って、そんなことは不可能であり、極東ソ連軍は、あくまでも国境を明確にするために、国境監視哨を張鼓峰に設置しようと、当初はしただけで、それが思わぬ大火事になったという説を取る。
だが、これは少数派の説で、多数派は、極東ソ連軍は、本格的軍事行動を行う準備を整えていた、といういわゆる肯定説を採る。
まず、第一に、幾ら赤軍内部にまで、いわゆる「大粛清」の猛威が余り及んでいなかったとはいえ、赤軍幹部の多くも、自らの身の危険を感じる状況にあったという背景がある。
こういった状況で、極東ソ連軍の判断で、張鼓峰に国境監視哨を設置するという判断ができた、とはとても思えない、いわゆるモスクワ、ソ連政府上層部の、少なくとも暗黙の指示がないと、張鼓峰に、極東ソ連軍は国境監視哨を設置したとは、考えられないという指摘がなされるのである。
第二に、この1938年夏の状況というのは、余りにも独ソにとって、世界大戦に踏み切るのには好適な時機だったというのがある。
米国は、まだまだ世界大恐慌からの脱出を第一に考える状況であり、恐慌脱出を図るための公共投資の一環として、軍備に投資を始めていたが、それは小規模なものに過ぎず、縮小再編成的な軍備を整えているに過ぎない、という状況にあった。
日本は、スペイン内戦に続き、中国内戦への介入、と傍から見れば、各国の紛争に積極的に介入して、国力を疲弊させつつあるようにまで見える有様だった。
英仏に至っては、独の再軍備に慌てふためき、慌てて自国の軍拡をしようとしている真っ最中と言ってもよい状況にあった。
もし、1938年夏の時点で、第二次世界大戦が勃発していれば、
「リスボンから釜山まで」
独ソ(中)が占領し、世界の半分が共産主義に染まっていた、という主張を、一部の歴史家がするのも、むべなるかな、という状況があったのである。
だが、実際には、張鼓峰事件は、満韓ソの大規模な国境紛争で終わってしまった。
(関係各国が、数個師団を動員するような状況を、国境紛争と呼べるのか、という疑問はあるが。)
ソ連は、共産中国支援等のために、本格的な満韓侵攻作戦準備をしていたかもしれないが、日米がその挑発に乗らず、逆に英仏とも連携することにより、ズデーデン危機とリンクさせることで、まとめての解決をしてしまったからである。
最も、この件に関して、事の真相は永久に不明、という主張が、真実であるのも、また事実ではある。
この当時の極東ソ連軍の幹部で、第二次世界大戦後に生き残って証言を遺した人物は、諸般の事情により皆無だからである。
更に、この当時のソ連が遺した公文書が、どこまで真実を載せているのか、そもそも、どれだけ遺っているのか(第二次世界大戦の戦災や、ソ連政府自身の公文書破棄行為のため)、という大いなる疑問があり、事の真相は永久に不明、という主張がなされ、それが真実とされるのも、むべなるかな、なのである。
ともかく、日米両政府の懸命の制止にもかかわらず、更に蒋介石自身も、基本的には不同意という態度を崩さなかったが、韓国軍が前面に立って、張鼓峰事件は発生することになった。
ソ連軍は、それなりに防衛の準備を整えており、戦車や航空機を、積極的に張鼓峰の防衛のために投入してきた。
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