間章2-5
米国製M2重機関銃、様々な小改造は施されたが、21世紀の現在も使用されている極めて優秀な重機関銃である。
口径は、12.7ミリあり、装甲板の性質や命中角度等にも左右されるので、単純には言えないが、この当時の主要装甲が15ミリ級以下の軽戦車等との対戦車戦闘には、充分な威力があった。
当座の間、主砲が47ミリ長砲身となる97式中戦車改(通称、99式中戦車)が登場するまでの間、日本陸軍の戦車は、米国製M2重機関銃を、対戦車戦闘において愛用することになる。
最も、更に言うならば、これは日本軍の怪我の功名ともいえるものだった。
この当時、航空機の性能は、ますます向上しつつあり、7.7ミリ級の機関銃では、対空射撃の際に威力が足りないという懸念が出た。
そういったことから、対空用として、米国から導入したM2重機関銃をキューポラ部分に備えることにして、97式中戦車は開発されたのである。
勿論、いざという場合には、対地攻撃用にも使える、とは考えられていたが、最初の予定では、M2重機関銃は、対空用としての導入だったのだ。
こう書くと、更に疑問を呈する人が出てくると思う。
97式中戦車に搭載された57ミリ短砲身砲(ちなみに、89式戦車に搭載された主砲と、ほぼ同じと言ってもよい。機能、抗堪性共に確かに向上したのだが、用いる砲弾は同じで、初速等もほぼ変わらなかったからである。)よりも、M2重機関銃の方が、実際の装甲貫徹力は劣るのでは、それなのに、日本軍の戦車搭乗兵が、M2重機関銃を愛用するというのはおかしい、という指摘がなされそうである。
確かにその通りなのだが、弾道性能が極めて良いM2重機関銃は、敵戦車の弱点を点射するという芸当が可能だったのである。
57ミリ短砲身砲では、さすがにそういった芸当は無理だった。
更に、当然のことながら、M2重機関銃の方が、戦車に装備できる弾数が多い。
こういったことから、対戦車戦闘において、主砲の57ミリ短砲身砲よりも、M2重機関銃を愛用する日本の戦車兵は、1938年当時は多かったのである。
例えば、「徐州における戦車の神様」とまで、当時の新聞記事で書かれた、西住小次郎中尉は、97式中戦車4両から成る戦車小隊を、小隊長として率い。徐州作戦に参加したのだが。
対戦車戦闘に際して、キューポラ部分から自ら身を乗り出して、M2重機関銃の射撃を好んで行った。
(これは、下手をすると、敵狙撃兵の的になるリスクの高い行動だった。
実際、西住中尉は、徐州作戦中に何度も、敵兵から狙撃されており、最終的に重傷を負っている。)
それによって、西住中尉率いる戦車小隊は、M2重機関銃の射撃のみによって、徐州作戦中に協働することで、20両以上の敵戦車を破壊することに成功している。
この当時、共産中国軍に提供されていたドイツ製、ソ連製の戦車で、M2重機関銃の点射に耐えられる戦車は、皆無と言ってもよい状況だったこともあり、M2重機関銃は、対戦車銃としての名声を、一時的ではあるが勝ち取ることに成功し、1940年頃までは、対戦車戦闘にしばしば実際に投入された。
だが、やはり、ドイツ製の3号戦車、4号戦車やソ連製のT-34等が登場すると、対戦車戦闘では非力であることを証明してしまい、M2重機関銃は、対戦車戦闘任務から外れることになった。
(最も、その頃には、日本軍の戦車も、47ミリ長砲身砲等、優秀な主砲を積むようになっている。)
とはいえ、それまでの短い間ではあったが、M2重機関銃は、日本軍の戦車兵にとっては、心強い対戦車戦闘における相棒となった。
実際、M2重機関銃は、89式戦車に改造搭載等までされたのである。
本当を言えば、西住中尉が、M2重機関銃を、徐州作戦時に、対戦車用戦闘の際に愛用したのは、一時、補給を空中補給に頼らねばならない、という苦しい補給事情もあったから、なのですが、本題からずれるので、本文では割愛しました。
(最初は、本文に入れていたのですが、何だか誤解を生みそうで、後書きに移すことにしました。)
これで、間章2は終わりで、次話から第7章になります。
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