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プロローグー9

 長谷川清提督の下を辞去してから、数時間後、東京の近衛文麿公爵の私邸を、林忠崇侯爵は訪れていた。

「失礼する」

 林侯爵は、下と表書きを書いた書状を、近衛公爵に指し示すような思いがしていた。

 近衛公爵にとっては、寝耳に水の話だろうが、軍部の総意といってよい話であり、唯一の元老である西園寺公望元首相からも了解は得ていて、今上天皇陛下のお耳にも入れている。


「何事でしょうか」

 近衛公爵は、お互いに貴族院議員の身である林侯爵を丁寧に迎えていた。

 爵位から言えば、近衛公爵の方が上であるし、出自から言っても、林侯爵が元大名家の出身とはいえ、五摂家筆頭の近衛家当主でもある近衛公爵からすれば、足元にも及ばないと言われても仕方ない。

 だが、林侯爵の年齢と、林侯爵がかいくぐってきた修羅場の重みが、近衛公爵に、林侯爵に対する敬意を払わせていた。

 そして、近衛公爵は、林侯爵の次の言葉に驚愕する羽目になった。


「近衛公爵に、貴族院議長からの辞任と隠居、爵位を息子に譲ることを求めに来た」

 林侯爵の言葉に、近衛公爵は驚愕した。

「何故」

 近衛公爵は、驚愕の余り、その言葉をやっとの思いで口に出した。


「リヒャルト・ゾルゲという名に心当たりはないか?」

 林侯爵の言葉に、近衛公爵は、少し考えた後で答えた。

「昭和研究会の一員の尾崎秀実の知り合いに、そういう名の新聞記者がいたと思うが」

「そいつは、ソ連のスパイだ。英国情報部からの情報提供があり、前田利為中将の部下が裏を取った。ついでに言うと、尾崎もソ連のスパイだ。もう、2人を憲兵隊が24時間監視体制に置き、いつでも逮捕できる状況にある。後は、芋づる式にソ連のスパイを摘発する予定だ」

 林侯爵は、淡々と言った。

 本来なら、丁寧に敬語で話し合うべきだろう、だが、事が事だ。

 その言葉を聞いた近衛公爵は、腰を抜かした。


「西園寺公望元首相の孫の西園寺公一も、この件に関与していたことが分かり、西園寺元首相は、廃嫡するとのことだ。既に今上天皇陛下のお耳にも入っている。後は、近衛公爵の出処進退だ。どうなされる」

「自分は全く知らなかった」

 林侯爵の詰め寄るような言葉に、近衛公爵は何とか抗弁した。

「それが、世間一般に通るとお思いか。宇垣一成首相は、まだ理解を示しているが、梅津美治郎陸軍次官や山梨勝之進海相は、近衛公爵は脇が甘すぎだ、政界から完全引退させろ、と言っている」

 林侯爵は、更に詰め寄った。

 近衛公爵は、言葉に詰まり、沈黙してしまった。


 暫く沈黙の時が流れた後、近衛公爵は、ポツンと言った。

「私を、法廷に立たせるのか」

「政界から完全引退するのなら、そこまでのことはしない、とのことだ」

「分かった」

 林侯爵の言葉に、近衛公爵は、それだけ言って、肩を落とした。

 近衛公爵の次の言葉を、林侯爵は暫く待ったが、近衛公爵は沈黙したままだ。


 林侯爵は、想いを巡らせた。

 失敗してしまったかもしれん。


 沈黙の時に耐え切れなくなった林侯爵は、近衛公爵に声を掛けた。

「すぐに結論を出すようにとは言わない。明後日、来るから、その時に結論を教えてほしい」

 林侯爵は、近衛邸を辞去した。


 翌日、近衛公爵の急死が発表された。

 真実は、青酸カリによる服毒死だったが、外聞を憚り、心臓発作とされた。


「すみませんでした。近衛公爵が早まるとは」

「いや、わしが近衛を見誤っていた」

 林侯爵は、近衛公爵の葬儀に参列したその足で、西園寺元首相の下を訪ねており、西園寺元首相と会話をしていた。

「お孫さんも、この度のことでは」

 林侯爵は、言葉を詰まらせた。

「政治家たるもの、そういうことはある。とはいえ、この老骨には応えた」

 西園寺元首相も半ば自分に言い聞かせるようだった。

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